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【500万PV】織田勘十郎異伝〜自重しなかった結果、別家を立てて生き残ります。〜  作者: 八凪 柳一
第十章 観音寺崩れと永禄の変

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第十五話 未来予想図

いつもお読みいただき、誠にありがとうございます。

楽しんでいただけると幸いです。


また、いつも誤字報告をしてくださる皆様、とても助かっております。自身でも確認はしておりますが、また間違うこともあるかと思います。その時はよろしくお願い致します。(ただし、誤字報告だけで、お願いします。)


なお、送り仮名は、どちらでも良い場合は、分かりやすくする為、多めになっている事がありますが、誤字では無い事もあります。誤字の場合は修正し、誤字じゃない場合は、ルビで対応しようと思います。

「三好筑前守孫六郎にございまする。」


 長勝の目の前には、史実では三好本家最後の当主がいる。昭和・平成の頃の彼の評価はいまいちなのだが、戦国時代においては少し違う。この時代の史料として一級品にあたる『信長公記』において、死に様をさして「比類なし」と評された武将のうちの一人が彼なのだ。ほかの有名武将を挙げるならば、武田四天王馬場美濃守や「片手千人斬り」の伝説と異名を持つ武田家家臣の土屋右衛門尉昌恒だろう。


 先代長慶の葬儀を主導した義継の行動から、足利幕府による既存の秩序を解体し、三好家による新たな時代を変革しようとした、足利家を「克服」しようとした人物だと評されたが、現実における義継の政治力・軍事力はその思想を実現させるほどにはなかったとも言われていた。織田家の急速な伸張がなければ、もしかしたら足利家を滅ぼしていたのは彼だったかもしれないが、織田信長を史実の足利義昭を奉戴して上洛することに協力もしているので、自身が招いた結果とも言える。


 さて、その織田信長はどこに行ったと思っておらるるかもしれないので、説明するが、姉上には内裏の方で、この合戦についてきた五摂家の皆様を応接中だ。ついてきたとは言ったが、京を押さえたあとの戦後処理で公家がいるかいないかでは、その意味が大きく異なるため、ついてきてもらったと言う方が正しい。特に三好家の慶継くんのためにも、血縁上祖父である九条様がいないと困る。三好家討伐が朝敵討伐にならなかった最たる理由の方だ。


「織田民部卿勘十郎である。」


 以前にも述べたかもしれないが、この時代真名である「長勝」は告げないし名乗らない。最上級に丁寧な言い方で名乗る場合は家名+官職(自称を含む)+通称となる。だから、長勝は「織田民部卿勘十郎」であるし、慶継は「三好筑前守孫六郎」となるのである。


 また、大河ドラマなどでよく聞く、「お屋形様(おやかたさま)という呼び名も室町時代に成立したものであり、もともと足利氏の一門や有力な守護大名・守護代、幕府成立や幕府への謀叛人討伐に功のあった国人領主に許されたものであるため、織田家では長勝が東海探題に任ぜられるまで使うことが許されていなかった。なお、史実の織田家が屋形を名乗るようになったのは室町幕府滅亡後のことである。


 そもそも屋形を名乗れた家は、室町二十一屋形と呼ばれる、斯波氏(武衛家)、斯波氏(大野家)、畠山氏(金吾家)、畠山氏(匠作家)、細川氏(京兆家)、細川氏(讃州家)、細川氏(上和泉家)、細川氏(下和泉家)、細川氏(奥州家)、山名氏(本宗家)、山名氏(伯耆家)、山名氏(石見家)、一色氏(本宗家)、赤松氏(本宗家)、京極氏(本宗家)、京極氏(加州家)、大内氏、土岐氏(西池田家)、六角氏、今川氏、武田氏(豆州家)、富樫氏だけである。


 他にも、最上屋形や関岡屋形、関東八屋形や九州三屋形などがあり、国人の中にも備後の宮下野守や石見の益田越中守、肥前の千葉千葉介も屋形号が許されている。屋形号を有するか否かに関わらず守護に補任される大名は室町幕府より白傘袋、毛氈鞍覆、塗輿、朱の采配の免許がなされる。足利将軍家連枝や管領、探題などには書状の自署省略の特権も許された。これは応仁の乱の前までの決まり事で、戦国時代になると様相が少し異なる。


 戦国時代、二十一屋形でも守護でもない長尾信濃守が、朝廷の内裏造営費用や天皇の即位費用を献納、及び室町幕府への献金の功から、時の将軍足利義晴の偏諱拝領を許され、嫡男に長尾晴景と名乗らせた。また、自身も守護と同格であることを意味する屋形号及び白傘袋毛氈鞍覆を免許されている。この流れが、朝廷ならびに幕府への貢献により、屋形号が許されるというものになった。織田家が長勝の東海探題補任を以て、屋形号が許されたのはそういう理由である。


閑話休題(話を戻そう)


 現在、目の前に三好筑前守がいるが、養父や義兄らと違い、まだ相伴衆に補任される前のため、屋形号を有していないが、明確に家格に差がある状態であった。家格的にどちらが上かと言えば、系図をこねくり回して藤原氏を名乗っている織田氏よりも、清和源氏小笠原氏の子孫と伝えられ、『足利季世記』には、三好氏は「阿波の小笠原の惣領」であると記されている三好氏の方が上である。だからと言って、筑前守慶継は敗戦者、負けた者が上には立てない。


 三好筑前守には、現在三好家に対して討伐令が出ていること、三好家長老衆の状態、三好筑前守助命の嘆願状況を説明し、今後は長老衆とともに終戦まで謹慎ししてもらうと伝えた。終戦後は各地の住民とともに周辺諸国にある研修施設で、織田家で生きていく上で必要な知識や態度、生活習慣などを身につけてもらうと説明した。その後、縄を解いて、九条閣下と引き合わせた。


 その祖父と孫は抱き合って泣いており、もしかすると、筑前守の選択次第では、九条慶継となるかもしれぬ、と思わされる光景であった。九条様には嫡流の男子がいない。史実でも跡を継ぐのは、九条流庶家の二条兼孝だ。だが、嫡孫である筑前守慶継であれば、九条を名乗れる。学業成績次第ではあるが、それも良いかと思ってしまった長勝であった。

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