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第十二話 陶・大内の終焉

いつもお読みいただき、誠にありがとうございます。

楽しんでいただけると幸いです。


また、いつも誤字報告をしてくださる皆様、とても助かっております。自身でも確認はしておりますが、また間違うこともあるかと思います。その時はよろしくお願い致します。(ただし、誤字報告だけで、お願いします。)


なお、送り仮名は、どちらでも良い場合は、分かりやすくする為、多めになっている事がありますが、誤字では無い事もあります。誤字の場合は修正し、誤字じゃない場合は、ルビで対応しようと思います。

 大内氏の出自はどこかと問われれば、分からないというのが正確な答えだ。伝説では、百済の聖明王の子琳聖太子が周防国多々良浜に着岸し、聖徳太子より姓多々良を賜り、氏を大内としたといわれている。しかし、これは創作された伝説であり、大内氏の出自は周防権介を世襲した在庁官人であったようだ。大内氏(多々良氏)のことが歴史の上ではっきりしてくるのは、平安時代末期になってからである。仁平二年八月一日付の「周防国在庁下文」に、多々良氏三名ほか六名の名前が在庁官人としてある。多々良の名は、養和二年の「野寺僧弁慶申状案」や、文治三年の「周防国在庁官人等解状」にも見えている。以上のことから、多々良氏は源平争乱期を生きた盛房のころには、在庁官人として最高の地位を占めていたとみられる。


 大内氏は盛房・弘盛の代に、一族を周防国府周辺の要地に配して在地領主化させ、本拠地の吉敷郡大内を中心に勢力を拡大していった。盛房次弟(摂津守盛長)が右田氏に、盛房三弟(十郎成保)が吉敷氏になった。続いて盛房次男(三郎長房)が問田氏に、盛房三男(但馬守盛保)が鷲頭氏に、盛房五男(六郎盛綱)が右田氏(摂津守盛長には男子なく、盛房五男が婿養子に入った)に、盛房七男(九郎能盛)が益成氏になった。最後に弘盛次男(小大夫盛家)が鰐石氏に、弘盛三男三郎大夫遠盛)が得地氏になった。他にもひ孫や玄孫の代などに宇野氏、黒川氏、矢田氏、末武氏になっていることが系図から読み取れる。


 なお、陶氏は右田氏からさらに分かれた大内庶流であった。陶氏の系図によれば、周防国佐波郡右田村に居住して右田氏を名乗った摂津守盛長の孫右田小大夫盛俊(またはひ孫の右田八郎弘俊)が、周防国吉敷郡陶村に住んで陶を名字としたことに始まる。系図上、弘俊の子六郎弘賢から陶氏は始まっているが、弘賢が嫡男だったのか次男だったのかは定かではない。ただ、八郎太郎重俊という、のちに陶伊豆守家に繋がる兄弟がいるため、次男だったのではないかというのが定説だ。


閑話休題それはさておき


 この、伝説では百済の琳聖太子から始まる大内氏と陶氏の歴史が本日終わる。長勝の知る史実では、陶氏は天文二十四年だし、大内氏は弘治三年だったから、陶氏は一年遅く、大内氏は一年早い滅亡となる。元々の朝敵であった大友修理大夫と陶中務大輔に連なる者たちは、この場で殺されなくても、京に連れて行かれて、死を賜ることになる。大内左京大夫は完全に巻き込まれ事故のようなものだが、大友修理大夫の弟で陶中務大輔の下剋上により据えられた大内家当主であったのだから、諦めてもらうより他にない。


 大友家については、南蛮との奴隷貿易がきっかけの朝敵であるので、家臣についてはそこまで咎められないのだが、大内家、特に陶氏に関しては身分が軽いとは言え、公家殺しを朝廷が重く見ているため、家臣たちも救いようがない。本来なら、毛利家も加担しているのだが、そこは直接ではなく安芸で大内義隆勢力を追い払っただけだという点を強調してなんとかするとしよう。陶氏で助かる一族は、義隆と共に討死した、陶右馬允一族くらいか。すでに陶を名乗っていないが、陶右馬允の次男又右衛門尉元弘が毛利家にいる。毛利も助けるのだし、名を陶に絶対に戻さないことを条件に、存続させよう。まぁ、朝敵になった名字を名乗りたくはないか。


 そんなわけで、大友家の家臣団がほぼ生き残ったのに対し、大内家の家臣団で大寧寺の変で陶中務大輔(当時は尾張守)に加担した者たちは、悉く滅ぼした。尼子右衛門督らが大活躍だったとだけ記しておこう。領地も増えないのによくやるわ。とか言ってはいけない。分かっていて止められない尼子家臣団も悪い。家臣団の中には渋々戦っているのもいたが、負傷したり討死したりするのは、自業自得と思ってもらおう。


 この大内討伐での陶側討死は、青景右京進、浅海四郎左衛門尉、厚助五郎、後根壱岐守、飯田大炊助、伊香賀民部大輔、石津藤左衛門尉、市来佐渡守、井下新兵衛尉、入江加賀守、岩武右衛門尉、岩正伊豆守、上田掃部介、江良弾正忠、江良丹後守、江良主水正、大庭おおば図書允、大林和泉守、大村兵庫助、小笠原兵部大輔、小方おがた対馬守、小野 外記丞(げきのじょう)、柿並佐渡守、勝屋右馬允、河屋因幡守、喜嶋備後守、蔵田東市介、己斐(こい)豊後守、神田こうだ蔵人丞、雑賀さいか刑部丞、佐藤宗左衛門尉、讃良さんら伊賀守、重見因幡守、宍道しんじ大炊助、神西惣左衛門、新里宮内少輔、椙杜すぎもり右京亮、周布すふ兵庫頭、多賀谷宮内少輔、瀧口喜兵次、都治つじ信濃守、都野つの刑部少輔、坪井将監、津守つもり豊後守、問田といだ大蔵少輔・備中守、内藤下野守、中山左馬允、仁保にほ右衛門大夫、温品吉左衛門尉、能美のうみ式部丞、野上隠岐守、野田主計頭、波多野彦左衛門尉、波多野備後守、幡生はたぶ右衛門尉、羽仁はに越前守・左近将監、弘中民部丞、弘中右衛門尉、弘中三河守、深川備前将監、深野平右衛門尉、船越淡路守、堀小太郎、益田越中守、町野掃部介、町野相模守、三浦越中守、右田左馬助・勘兵衛尉(勘兵衛尉は史実の御郷みごう越中守康政)、光井左京亮・兵庫助、美和越中守、楊井右京允、山崎伊豆守・右京進、山﨑勘解由、山田隠岐守、大和伊豆守、吉田左兵衛尉、吉原武蔵守、吉安刑部少輔、冷泉左衛門少尉・民部少輔、鷲頭わしず玄蕃頭である。


 逆に大内家臣で助かったのは、上利あがり和泉守、あんの下総守、伊藤左近亮、落合新兵衛、勝間田備前守、勝間田右馬頭、上領右衛門大夫、上領清右衛門尉、刺賀さしが治部少輔、佐波さは常陸介、品川狼之介、下瀬左京亮、祖式そしき式部少輔、水津すいづ半左衛門、末武上総介、須子すこ若狭守、友倉因幡守、鳥居伊豆守、内藤亦二郎、中津江七兵衛、長嶺河内守、沼間ぬま備前守、禰宜ねぎ民部丞、野村又左衛門、箱田左馬允、波多野藤右衛門尉、羽根はね遠江守、原出羽守、広田信濃守、福屋式部大輔、藤嶋周防介、松岡三郎兵衛、横田越後守、横山左馬助、吉賀掃部助、吉見大蔵大輔であった。


 助からなかった大内家臣の不幸は、厳島の戦いが起こらなかったことだろう。討死または死を賜ることになる者たちは、基本的厳島で死んでいたか、厳島の戦い後に毛利の家臣になった者たちだ。もちろん、今世で厳島の戦いは起こらなかったが、史実の厳島の戦いが起こった頃に毛利に降った者たちは助かっている。


 なお、吉見大蔵大輔については、朝敵討伐で死にはしなかったものの、元々は毛利と同じくとばっちりで戦に巻き込まれただけだから、生き残ったものの領地を奪われ、家臣団も解体されたのだから堪らないという見方もできるだろう。そもそも、反陶の石見国人でしかなかったのだ。一応、大内の影響下にあるという理由と、石見銀山を尼子に渡すわけにはいかないという理由とだけで、巻き込まれたのだから、泣いても良いと思う。


 また、大内家臣団の筆頭とも言うべき、内藤氏が本家内藤下野守が死を賜り、分家内藤亦二郎が生き残れたのかは、陶にどれだけ近かったかの違いでしかない。近かったという言い方をしているが、どちらとも疎遠ではあったのだが、より遠い存在だった亦二郎の方が生き残ったに過ぎない。あとは毛利新当主の義弟(正室の同腹)なのか、義甥(正室とは別腹兄の子)なのかの違いか。なお、義甥の方は陶中務大輔の義兄でもある。疎遠にしていても近い存在というのは、運命を左右するものではある。

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