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第八話 宇喜多氏の最期

いつもお読みいただき、誠にありがとうございます。

楽しんでいただけると幸いです。


また、いつも誤字報告をしてくださる皆様、とても助かっております。自身でも確認はしておりますが、また間違うこともあるかと思います。その時はよろしくお願い致します。(ただし、誤字報告だけで、お願いします。)


なお、送り仮名は、どちらでも良い場合は、分かりやすくする為、多めになっている事がありますが、誤字では無い事もあります。誤字の場合は修正し、誤字じゃない場合は、ルビで対応しようと思います。

 宇喜多氏は、百済くだら王族の子を宿した姫が備前児島宇藤木に上陸し、備前児島唐琴に居住した。この姫が「日の本の人の心は情けなし、我もろこしの人をこそ恋へ」という歌を詠んで助けられた話が都に伝わり、藤原北家閑院流三条家の宇喜多中将実能(宇喜多少将とも)へ嫁いで宇喜多氏となったとされている。その後、幾つかの家に分かれて、三宅氏になったり、浮田氏になったりしたが、足利の世では、宇喜多に戻っている。


 その宇喜多家の分家である和泉守家は、先々代和泉守能家が暗殺されて没落した。当代の和泉守直家の父の名は不明だ。一説には興家となっているが、その名前が出てくるのは、直家の時代から百五十年ほど経った頃に書かれた軍記物語『和気絹』であり、百年後に書かれた『西国太平記』には、地の文で「(直家の)父某が島村観阿弥に殺された」と記されているだけなのだ。まぁ、没落していた頃の興家は武士ではないから、神社に奉納とか、寺社に献納とかもないので、名前が残らなかったのであろう。


 その宇喜多家も今日で終わる。先にも述べたが、播磨の浦上とともに、本家大和守家も滅んでいるから、百済王族云々の話が本当なら、千二百年ほどの歴史の幕が閉じる。もちろん、族滅だ。当主和泉守直家はもちろん、弟の河内守春家や出羽守忠家、従叔父の片岡次郎左衛門や浮田筑前守、大叔父の角田八郎左衛門、連枝の宇喜多信濃守も宇喜多平右衛門、従兄弟の戸川肥後守や明石備前守、義弟の伊賀伊賀守左衛門尉や牧藤左衛門尉や穢所治部少輔、義叔父の河本対馬守、岳父中山備中守、娘婿の家である江原和泉守や松田左近将監など備前・備中の名だたる豪族は死んでいく。それもこれも宇喜多家のせいだ。


閑話休題それはさておき


 朝敵討伐軍の西征軍が備前を治めた頃、九州が統一されていた。本来の史実なら中国明朝への遣明船の派遣をはじめ、琉球、柬埔寨カンボジア葡萄牙ポルトガルを相手とした海外貿易による経済力、優れた武将陣、巧みな外交により版図を拡げ、大内氏や毛利氏をはじめとする土豪・守護大名などの勢力が錯綜する戦国時代の北九州東部を平定した大友左近衛少将であるが、父ならびに弟を倒した頃にはすでに海外への貿易路は閉じつつあった。


 それもこれも、未来の知識とチートな能力で、この時代ではありえない造船をし海賊衆をまとめ、各地の忍び衆を次々に麾下に治めていっていた長勝の手腕によるものだった。大友としては海外と貿易していたつもりでも、実はそうではなかった。南蛮人が豊後の地に直接来ることがほぼなかったので、気づかなかったろうが、対南蛮で奴隷貿易ができていたのはほんの数回で、あとは東海探題海軍が偽装した交易商人が、奴隷を買い取って、東海探題領に運んでいた。硝石は東海探題領で作った三級品をぼったくり価格で売っていたに過ぎない。


 なお、交易で販売する東海探題領内の特産品には級種があり、最上級は東海探題家で使用し、特級・一級・二級を主に交易品として、売りに出していた。なので、先般討ち死にした遠藤某が所持していたのも二級品の火縄銃である。元々、潰す予定の大友には粗悪品とまではいかないが、交易品に入らない品質の悪い物を売りつけていたのである。


 その品質の差はもろに戦で、結果に繋がった。ぼったくり価格で売っていたこともあり、装備品が微妙に揃わない中、十万の軍勢に襲われた。忠臣と名高い戸次べっき、田原、田北、志賀、詫磨、臼杵、吉弘の当主たちは、次々と降伏または捕縛された。朝敵になった時点で、厭戦による不参戦が多く、戦いにならなかったのだ。もちろん、島津軍も錦の御旗を掲げての戦だ。元々は分家だったそれらの家でも、朝敵になってまで主家を守る気概はなかったようだ。


 この時代、畿内から遠いほど、独立性の強い豪族が多いのだが、朝廷の権威というのは、恐ろしいほどに強かった。ただ、島津らが攻め込んだだけでは、戸次などの猛将があんなにすんなり道を譲ったりはしなかったろう。史実通りエイトーエイトーと叫びながら激突したに違いない。大友は滅びたが、それ以外の捕虜の目録を見た長勝が手放しに勘六郎を褒めたのは、猛将・名将の生き残った面々を知ったからであった。


 ちなみに、備前で降伏したのは以下の通り。芦田右馬允、今田三九郎、今多いまだ与三次郎、大田原おおたわら三左衛門尉、大守おおもり筑前守、岡豊前守、岡本太郎左衛門、長船おさふね越中守、片岡常右衛門、苅田かんだ万三郎、河内こうち河内守、川端丹後守、国富源右衛門、小嶋左馬允、柴田六郎右衛門、難波孫左衛門、苔口こけぐち宗十郎、近藤与右衛門、笹部勘次郎、塩見孫左衛門、宍甘しじかい太郎兵衛、島村豊後守、新藤三左衛門、角田すみた四郎兵衛尉、高取左衛門、高畠和泉守、高見伝兵衛、津島九郎左衛門、恒次つねつぐ新左衛門尉、寺見三四郎、寺尾藤右衛門尉、楢原ならはら監物、額田ぬかた与次右衛門、延原のぶはら弾正忠、服部備後守、花房越後守、花房若狭守、馬場右近大夫、日笠二郎兵衛尉、平賀武蔵守、虫明むしあけ喜右衛門尉、森田小伝次、湯浅九郎兵衛。宇喜多四家老のうち三人、岡・花房・長船を捕縛できたのは大きい。かなり使える武将だ。討死しなくて良かったと安堵した。


 備中・備後は、尼子氏の影響下にあるため、備前攻略中に赤木や赤澤、三村などが合流した。尼子右衛門督(えもんのかみ)が合流したのもここだ。右衛門督は天文九年生まれなので、現在十六歳の若武者だ。とは言え、長勝だって二十歳なので、十分若いのだが。

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