第三話 九州勢北上
いつもお読みいただき、誠にありがとうございます。
楽しんでいただけると幸いです。
また、いつも誤字報告をしてくださる皆様、とても助かっております。自身でも確認はしておりますが、また間違うこともあるかと思います。その時はよろしくお願い致します。(ただし、誤字報告だけで、お願いします。)
なお、送り仮名は、どちらでも良い場合は、分かりやすくする為、多めになっている事がありますが、誤字では無い事もあります。誤字の場合は修正し、誤字じゃない場合は、ルビで対応しようと思います。
朝廷から敵とみなされた者を朝敵と呼ぶ。飛鳥時代後期から中世までは、朝廷に対して謀反を起こした者、天皇または上皇と対立した者が朝敵とされた。中世に入ると、政治の実権は朝廷から武家政権へと移ったが、武家にとっても朝廷の権威は大義名分となるため、時の政権が敵を討伐する口実を必要とした際、保護下にある朝廷から勅を引き出す形で朝敵は使用された。しかし、朝廷の強い意思によって出された命ではないため、討伐する側が逆に敗れると、取り消されることがほとんどだった。
朝敵となった者で、歴史上明確になっている者は、この時代までに十九人いる。長髄彦、藤原仲麻呂、淳仁天皇、阿弖流為、盤具母禮、平将門、藤原純友、崇徳上皇と藤原頼長、源義経、藤原泰衡、北条義時、北条高時、北条時行、足利尊氏、新田義貞や楠木正成、大内義興。天皇でも上皇でも朝敵になっているところが面白い。なお、織豊時代には武田勝頼・島津義久・後北条氏が朝敵となっており、島津氏以外は滅びている。
戦国時代の朝敵四人を見れば分かる通り、朝廷への貢献が高ければ、割とすんなり朝敵を作り上げることは出来る。というわけで、大内家は二度目、大友家は一度目となる朝敵となった。実際は、大内がというわけではなく、大内の家宰陶晴賢が対象なのだが、下剋上して大名になったわけではないので、陶晴賢を家臣としたままの大内家がそうなっただけのことだ。大内義興のようにその地域の国人らを糾合して、上洛して朝敵にせしめた織田家を放逐できるほどの勢力は陶晴賢にはない。ないが、ともに朝敵となった血縁である大友家と協力し、近場の豪族・国人衆に「外敵が迫っている」と声をかけ、討伐軍と戦うつもりのようだ。
本来なら毛利には世鬼と座頭衆が、忍び衆として働いており、糾合の理由を素早く察知できるはずだった。また大内に忍び衆がいなくとも、大内の常勝軍を率いていた陶氏にもお抱えの忍び衆がいたことであろう。大友にも忍び衆がいた形跡はある。道臣命の流れを汲む者だったようだ。しかし、それは過去の話。
大寧寺の変を契機に陶家から忍び衆が離れ、厳島の戦いの前に毛利家から忍び衆が離れ、東海探題家による九州征伐に際し、大友氏から三知衆が離れた。毛利家に従っていた世鬼衆は遠江から呼ばれ、領内に村を六つも与えられ、他とは比べようがないほど優遇されていたが、東海探題家による優遇には劣る為、こちらについてくれた。まぁ、小角衆として現地に残り、協力しているように見せかけていたので、気づいていなかったようだが。
閑話休題
大友と大内を朝敵にすることは、元々の既定路線であり、水窪や島津にも約束していたことである。だから、水窪は筑前から大内を、島津は日向から大友を攻めることになっており、海からは琉球・高砂に駐屯する海軍やほかの地域で防衛にあたる海軍以外の、四国・九州・山陽・山陰地域の海軍衆が海からの攻撃をする。琉球・高砂を先に落とさせたのは、大友の援軍(あるとは思っていない)を南蛮から呼ばないためでもあった。
ねずみも這い出る隙の無い、そういう合戦だが、窮鼠猫を噛むなんてことにはさせない。九州征伐では利用しなかったが、上総・常陸それから陸奥・出羽などでやった海軍による弾幕から始まる開戦が、今回の戦の流れだ。
山陰・山陽というだけあって、あの地域は山が多い。だから、殲滅戦という意味の弾幕ではなく、兵の士気を下げるための弾幕だ。海の近くに布陣していれば、弾幕によって命を落とすだろうが、遠目に見ても、鉄の玉が大量に降る光景は空恐ろしいものがある。しかも、玉の転がる地面は凸凹になり、否が応でも、その破壊力を目にすることになる。あの馬鹿でかい音がする鉄砲伝来後の戦でも、兵は驚き逃げ惑ったと聞く。
それが、鉄砲の弾丸と違い、もの凄く大きな鉄の玉が降り注げば、信心深い民たちの心は折れるだろう。「天変地異じゃー」とか宣いながら逃げてくれれば、効果は絶大だろう。
三知衆はオリジナルです。大友氏の忍び衆がわからなかったので、大友皇子に従っていた道臣命の道と、忍び衆でよく聞く、「忍びは目であり耳であり鼻である」という三知をかけたもので、ただの言葉あそびです。