第十二話 意図せぬ諸々
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なお、送り仮名は、どちらでも良い場合は、分かりやすくする為、多めになっている事がありますが、誤字では無い事もあります。誤字の場合は修正し、誤字じゃない場合は、ルビで対応しようと思います。
九州ではまだ合戦が続いているが、本州での合戦は一応、一時的に終わりとなった。予定より少し多いが、予定通りの国を落とした。加護たる軍神やら戦神やらの効果か、技能たる軍神やら戦神やらの効果か、長勝が率いている場合の合戦速度は異常だ。進軍は早いし、士気維持も一定(あまり下がらないまま)だし、兵站も減りが遅い。
普通、合戦が長引くと、厭戦モードになり、士気が下がるものだが、変なところでゲームである。もちろん、ゲームでも兵糧が切れたり負け越したら士気は下がるが、連戦連勝ならひと合戦での士気は上限(二百)までいく。あとは、統率力次第と言ったところか。
さて、戦後の越前・若狭・北近江・丹後・但馬・因幡について語る前に、周辺諸国の状況を語らなくてはならなくなった。予期せぬ出来事が起こったせいである。
まず、比叡山延暦寺のことであるが、門跡兼北野天満宮別当であった覚恕様が、還俗し名前を法名をそのままに、親王となられたあと、門跡を誰が継ぐかで揉めていた。大峰衆からの勧告も無視できないと話し合いがされている最中に、織田東海探題軍の北近江侵攻を受け、比叡山までまだまだ距離がある状態で降伏した。なお、門跡については、研修後ということになったようだ。
比叡山には十分に対抗できるだけの僧兵はいたはずだが、東海探題軍の侵攻が勧告の催促になったらしい。どこぞの小説で見た、関ヶ原における小早川に鉄砲を撃ちかける家康な気分だ。この話には関係ないが、天下分け目の関ヶ原の戦いは、史実ではなかった説がある。あの時期、あの場所で合戦はあったものの、徳川幕府を正当化するために江戸時代になって創作されたものらしい。徳川幕府による豊臣プロパガンダの歴史改竄だと聞いている。
どうでも良い蘊蓄はさておき、比叡山は降伏し北近江は完全に織田家所属となった。
予期せぬ出来事、其の二は、幕臣たちの大量離脱だ。いや、伊勢氏や一色・山名・京極と言った幕府の中枢職責にあった者たちはそのまま残ってはいるが、職の軽い者たちの一部がこちらに流れてきている。
このことの、一つの理由として、淵名壱岐守の存在がある。先代将軍が崩じ、すぐにではなかったが当代将軍が立ったのちに、淵名に将軍家に存在証明をするように伝えた。すでに、将軍がいる上、藤原系足利氏の前身である淵名を名乗っている。淵名壱岐守が将軍にはなれないことを伝えるためでもあり、将軍家を揺さぶるためでもあったが、ようやくその効果が出てきたようだ。
まぁ、足利将軍家を支える諸大名の領地がだいぶ減り、収入が苦しくなることを見越した(そういう流言を信じた)者たちが、公家の三男四男らと同じように出稼ぎにという名目で、こちらに移動してきたり、致仕してからこちらに来たりしている。理由は様々だが、先代将軍の旧臣は先に挙げた壱岐守を慕ってきたようだ。
ちなみに、元々壱岐守についてきたのは、勝岡・佐淵兄弟を除くと進士弥九郎・美作守親子、荒河又次郎、彦部雅楽頭、杉原兵庫助、上野与八郎、治部三郎左衛門、小笠原備前守、沼田上野介、仁木兵部丞、寺本内蔵助・内匠助兄弟、高伊予守、畠山九郎、結城主膳正、朝日新三郎、谷田民部丞、高木右近、小林左京亮、小森左京進、西面左馬允、田村刑部大輔、田村勘三郎、飯田右兵衛尉、中井助左衛門尉、西川新右衛門尉、森田新左衛門尉、八田十右衛門尉、有馬源二郎、木村小四郎、松原小三郎、粟津甚三郎、松井新三郎、疋田弥四郎、二宮弥三郎、林与五郎、村田弥助、摂津掃部頭と結構な数がいる。あれ?もっとあとの配下だよね?とか思う人もちらほらいたが、親かもしれないので無視した。ほぼほぼ永禄の変で死んだ人たちなので、救われたと思うことにして、流した。
今回、こちらにきたのは、安威兵部少輔、飯尾右馬助、飯河肥後守、小早川外記、吉川斎宮、唐橋駿河守、今中勘右衛門、大饗長左衛門、荘村安芸守、曽我兵庫頭、磯貝新右衛門、中沢備前守、能瀬新右衛門・三郎左衛門尉兄弟、野村越中守、松井山城守・友閑兄弟、松田豊前守、松室左衛門佐、柳原新右衛門、柳沢讃岐守、山口玄蕃丞、山本対馬守・佐渡守兄弟、米田壱岐守・源三郎親子、渡辺出雲守・左馬助親子である。何だろう、三管領四職以外が来ちゃった感じがすごくする。大丈夫だろうか?足利家。
出来たてホヤホヤ。4時間前に書きました。明日の分は、これから書きます。