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別視点 九州への旗頭

いつもお読みいただき、誠にありがとうございます。

楽しんでいただけると幸いです。


また、いつも誤字報告をしてくださる皆様、とても助かっております。自身でも確認はしておりますが、また間違うこともあるかと思います。その時はよろしくお願い致します。(ただし、誤字報告だけで、お願いします。)


なお、送り仮名は、どちらでも良い場合は、分かりやすくする為、多めになっている事がありますが、誤字では無い事もあります。誤字の場合は修正し、誤字じゃない場合は、ルビで対応しようと思います。

〜水窪孫九郎side〜


 今宵、島津の又六郎殿と酒を酌み交わす。我もかの者も遠江に来ねば、恐らく敵であったろう者だ。それが運が良いのか悪いのかは分からぬが、来なければ、遠くない未来、元我が家(龍造寺)は滅びていたであろう、我が殿の手によって。


 そう考えれば運が良い。あれだけ反抗したのに、我が殿とご正室様は軽くあしらわれた。思えば、承認欲求であったのであろう。子どもじみていたわ。しかし、領地も姓も偏諱まで賜った。このご恩は、我と子孫で返さねばならぬ。


「又六郎殿、聞いたか?」

「ああ、聞いた。孫九郎殿は、どこから?」

「我は平戸からよ。又四郎殿は?」

「某は加世田別府の唐坊よ。」

「なるほどの。やはり夜に?」

「そうよ。薩摩大隈日向それと南肥後を落とせと。兵十万に海軍四軍お借りしておるのじゃ、直ぐに済もう。そちらは?」

「肥前筑後筑前と北肥後じゃの、兵力は同じじゃ。お互い整ったら、大友と陶(大内)を朝敵としてくださるらしい。陶は分かるが、大友は?」

「あそこは、南蛮に日ノ本の民を売っておった。」

「なにぃ?!しかし、海軍で邪魔をしておると聞いたぞ?」

「海軍がやっておるのは、売られた民を救う為の私掠行為よ。今では、奴隷売買はほぼ無いが、過去に売った証は押さえてあるからの。一度でもあれば可能なのじゃろ。」

「それって・・・、我らが遠江に来た頃のことか?その頃から?」

「おそらくの。」

「震えが止まらん。呑んで体を温めようぞ。」

「さようさな。」


 我らはたまたま助けられただけか。爺様(家兼)が首を縦に振らねば、我らも狩られていたか?狩られていたろうな。そういう意味でも、爺様じさまの英断であったのであろうな。じゃが、そうじゃの。爺様が今際の際(いまわのきわ)に言うておった、「鉄の舟?!あ、死んだ」と思ったということは、墓まで持って行かねばの。


〜島津勘六郎side〜


 よもや、薩摩奪還の為の旗頭とされるとは、遠江で分家を立てた時は思いもしなかった。父や又三郎兄上や又四郎兄上がこちらに逃れて来てからは、父や兄上たちを家老に落とし、本家当主とされてしもうた。まぁ、又四郎兄上はそこにおる孫九郎殿と同様に毎日ボッコボコにされて心を折られたのじゃがな。父上や又三郎兄上は、それを見て青ざめて、サクッと家老になることをお認めになった。


 そのうち、又三郎兄上は農業協同組合に入り浸るようになり、薩摩に戻ることがあれば、あれを育てたいこれを育てたいと言うようになった。父上も似たようなもので商工業共同開発会に入り浸り、遠江では当たり前となった、薩摩では珍しい開発品に感動し、交易による税収の多さに驚愕し、薩摩に戻ることがあればこれを活かせるようにと色々学んでいるようだ。又四郎兄上は、孫九郎殿と同様に、修練場に入り浸りだ。最上位の方々にはまだまだ勝たないようだが、修練場と医療院を行ったり来たりの毎日を過ごしている。


 こんな日々を、薩摩で過ごせたらと思わなくもない。おそらく、肥前を離れざる得なかった孫九郎殿も同じ思いだろうと思う。しかし、その思いは、我らが殿はお見通しだったようだ。


 先代の大殿(信秀のこと)がお亡くなりになった頃、「毛利が立ち行かなくなった頃合いに、九州と南海を落とす。兵を整えておけ。」と仰せになられた。毛利のことはよく分からなかったが、大寧寺のことを知った時、もしかしたらと思っていたら、陶が厳島に渡り、毛利が海軍に交渉していると聞き、戦慄を覚えた。殿はどこまで見えているのかと。


 そして、九州には、我ら二人が旗頭になるのであろうと。震える。いかんな。敬愛する我らが殿は、恐ろしいお方だが、そのお方から期待をかけられている我らが震えておってはまずい。孫九郎殿も同じ思いじゃろうが、孫九郎殿に乗っかって酒でも呷るとしよう。

本章第五話のあとがきにも書きましたが、島津歳久の名前を島津薩摩守又四郎勝歳から島津薩摩守勘六郎勝歳としました。又四郎は島津義弘の通称でした。すいません。

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