第十二話 葬儀のあとはしめやかに
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なお、送り仮名は、どちらでも良い場合は、分かりやすくする為、多めになっている事がありますが、誤字では無い事もあります。誤字の場合は修正し、誤字じゃない場合は、ルビで対応しようと思います。
抹香投げの格好のままというのはどうかと思ったので(精神的に一部きつい者たちがいるから)、正装ではないけれども、傾いたりふざけた格好ではない服装に変えて、故人語りの時間を設けた。
まぁ、ざっくばらんな宴会だ。はしゃぎは出来ないが、武家社会での葬儀ではあまり見ない形式である。葬儀中は説明しなかったが、この時代の葬儀は穢れを払う儀式のようなもので、死亡確認後は、僧侶以外の立ち入りが禁じられる。それは、穢れが移ると思われていたからだ。僧侶は穢れの度合いを把握して、どれくらいの規模の法要が必要かを判断する。
織田信秀のように、一国を統一したような英主ともなれば、生きている間にどれほどの人が死んだか、どれほど怨念が穢れになっているか、などの穢れ調査が行われる。農民などは合戦に参加しなければ、諍いを起こさなければ、誰も殺して無いから、質素になるのは当たり前で、逆に武家の葬儀が盛大になるのは、何も権力誇示のためではないということなのだ。
閑話休題
葬儀から数日後、曳馬城下の二条邸で、震えながら平伏する前執柄と次男殿、それから持明院門下侍郎殿がいらっしゃる。そんなことをさせたかったわけではないのだが、大寧寺での大内のことが聞こえて来たのであろう。
藤原北家の二条と三条と持明院は大内には行かなかったが、事前にこちらから提案しなかった他家の者は大内に向かい、大寧寺の変に巻き込まれて死亡した。具体的には大内義隆の正室の実父、大宮左大史殿だけだ。五人中、上位官職の四人が行かないんだから、岳父とは言え、行かなくても良いんじゃね?とか思ってはいけないんだろう。
「面をお上げください」
畏る畏る二条前執柄がお顔を上げられた。ほか二人はまだ顔を上げてくれないが、無理をさせてはいけないと、そのままにする。聞けば、やはり大内のことを聞いていたようで、朝廷では激震が走っていると言う。そして、案の定、大きな借りができたと思っているようで、何を言われるかとか、先日要らんことを呟いたとか戦々恐々としているらしい。
「(藤原朝臣として)同族ではござらんか」と優しめに嗜めたあと、幾つか要望を伝えておく。一、表向きには足利家と朝廷の関係はそのまま。一、足利家に何かあった時は織田本家当主に鎮守府左将軍を、東海探題家当主に鎮守府右将軍を拝命できるように行動してほしい。一、天下が一つになった場合、帝の地位はそのままに、武家も公家も政治に参画できる政治体制にしたい。一、外敵ある時は、帝を大元帥とし、織田家に元帥を賜われるように・・・、などなど、お願いした。
なお、鎮守府に左将軍も右将軍もないのだが、右近衛大将・左近衛大将とあるのに、他の将軍職に左右がないのはいかがなものかと提言しておいた。まぁ、これを機に作られるとしたら、征夷大将軍に左右がつくかもしれない。ないとは思うが。
今後、三年は喪に服す。歴史的にしたいことがないからとかではない。東を制したのだ。東日ノ本全てに鉄道を通し、物流を活性化させ、農商工を充実させて、民を豊かにしよう。
吉見が石見で暴れ始め、毛利が安芸を手中に収めたら、動き出そう。島津と水窪を旗頭に九州を落とす。暇になった海軍には琉球と高砂国を切り取らせよう。オランダ統治時代まではまだ七十年ほどあるが、ザビエルなどがここを経由して来たとも言われているので、スペインやオランダなどの駐留地にはなっているだろう。
海軍のやらかしから始まった島津・龍造寺の亡命だが、ちょうど良い大義名分となろう。その頃の毛利元就とか、どの程度の国力になっているかが問題だが、なに、厳島の戦いは起こさせないつもりだ。せいぜい、陶晴賢の先鋒として尼子を攻略しているくらいだろう。
※高砂国は、高山国と同義です。なお、ふりがなは、『西斑牙船航海地図』に記された読みを利用しております。当て字の高砂国は江戸時代のものです。