第五話 教育が始まりました(かなり早いよ)
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9/8 13時頃のランキング
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ようやく落ち着いた感じかな?
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吉法師との対面式の一月ののち、傅役が付いた。佐久間 大学允である。鬼大学の異名から武力の程は察せられるが、体が出来ていないので、大学允には武者としての在り方を教えてもらっている。それと家老として林 美作守が付いた。これは、小さいながらも領地を与えられたからだ。それは、尾張中村村である。そうあの中村村だ。さっそく一月後に行ってみる事になっている。1〜2歳の奴がいるはずだ。さらに家来衆が出来た。乳母の夫である津々木 蔵人。父信秀の家来衆浅井親安の息子である浅井 源五郎 充秀。中村村代官の稲熊 助右衛門。他にも津島衆から七名来る。津島衆七名は中村村に赴く際に合流することになっている。
武は大学允に学ぶのだが、知は美作守と言えば少し違う。勿論、林家は美作守の兄 佐渡守から分かるように、外交官の家だ。知も謀もお手のものだろう、美作守にそんなイメージはなかったが。美作守も教えられはするだろうが、美作守の役割は領地経営の補佐だ。代官は稲熊がそのまま行う。
では、誰が私の素養教育をするのかというと、臨済宗の僧である。信長の教育僧として有名な沢彦宗恩(以降は「沢彦和尚」と呼ぶ)も臨済宗だが、沢彦和尚ではない。沢彦和尚にお願いして、美濃で修行をしていた兄弟の契りを結んだという禅僧を家族ごと招く事にした。家族と言っても母親だけらしい。この僧侶、武田信玄の外交官としても有名な快川紹喜(以降は「快川和尚」と呼ぶ)である。本当は岐秀元伯を考えていたが、とっくの昔に甲斐に行ったあとだった。考えてみれば、そらそうである。武田信玄の教育僧だもんな。私が生まれた頃には、武田信玄(当時は晴信)は元服している。元服はだいたい数えで十二歳。尾張で修行した禅僧で、戦国時代と言えば沢彦宗恩と岐秀元伯だ!と勝手に思っていたが、岐秀さんはいねーよ。甲斐の虎の奥さんに呼ばれて尾張を出ているわ。
勿論、ただで呼べるわけではない。口約束ではあるが、私がいずれ城主になった際の城下町に臨済宗の寺を開山して、住職になってもらう約束だ。それまで、甲斐に行かれないように、大切に大切に敬うつもりだ。尊師の母は、私の祖母(信秀の母は既に他界している)として敬おう。
教育の開始時期は、大名・重臣や侍大将などの家柄でやや変わるが、家柄が高い方がより早い。とは言え、二歳児で始めるものではない。早くて五歳(数え年で六歳)だろう。しかし、対面式から一月の間に、読めないはずの書を鑑定で読んでしまった。当時の崩字は、現代人では読めない。読めなかったから、鑑定してしまった経緯があるのだが、それが父にバレた。父から色々させられて、読めるのに書けないとは何事か、となった。その結果がとても早い傅役ととても早い素養教育となってしまった。とは言っても、嫡男よりも嫡次男の教育が早いのは問題なので、吉法師の教育僧に沢彦宗恩が選ばれ、その伝で私の教育僧が決まった。
さて、この時代の武家の教育は刀や槍を振り回して終わりではない(偏見)。武家の素養教育は多岐にわたるのだ。まずは、読み書き(いろは)を学び、『御成敗式目』、『庭訓往来』、『論語』『大学』『中庸』『孟子』『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』の「四書五経」を誦じられるようになって、兵法書の教育が始まる。武田信玄の影響で、戦国時代の兵法は孫子というイメージを持つ人も多かろう(偏見)が、そんな事はない。素養教育において行われる兵法教育の教科書は『孫子』『呉子』『司馬法』『六韜』『三略』『尉繚子』『李衛公問対』の「武経七書」である。だいたい、ここまでが武家一般的な教育で、大名当主や外交を担う武家の家柄だと、これら全てを学んだ後に『古今和歌集』『万葉集』『源氏物語』などが追加されるのである。ちなみに、公家だと武経七書がなくなり別の追加があるが、ここでは関係ないので触れないでおこう。
なお、私坊丸は前世の卒論に必要で、十八の書物の概要を覚えてしまっており、これらを思い出した結果が先述の固有スキル『前世の記憶』なのだが、それを今出してしまうと色々まずいので、ゆっくり出すつもりだ。概要を覚えているだけで、暗記はしてないので、こちらの文字を覚えながら、これらを暗記出来れば良いなぁと思っている。
素養教育の教科書たる十八冊は、快川和尚が写本ではあるが持ってきてくれたので、林美作守に追加で揃えてもらいたい書物があった。『日本書紀』と『尺素往来』と『拾芥抄』だ。これらは体作りに必要な肉食の根拠となるのだ。
この時代、肉食は禁忌だと思われている。しかし、『日本書紀』によれば、天武天皇が出した禁令は「四月から九月の農耕期間に牛・馬・犬・猿・鶏を、期間限定で食べるな」という内容である。ただし、当時一般的に食されていた鹿や猪は禁じられていない。また、猪豚の飼育も書かれており、肉食は禁忌ではないのだ。ほかに『尺素往来』によれば、足利義持から足利義教までの時代の武士は、猪・鹿・羚羊・熊・兎・狸・獺などを食べていた事が記されている。しかし、医学的見地から『拾芥抄』では二月の兎、九月の猪は食べてはいけないとも記されている。これらを使えば、大手を振って肉が食える。そして、うまく領民を教育出来れば、ガタイのいい領民が増えるのだ。
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