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別視点 修練場にて

いつもお読みいただき、誠にありがとうございます。

楽しんでいただけると幸いです。


また、いつも誤字報告をしてくださる皆様、とても助かっております。自身でも確認はしておりますが、また間違うこともあるかと思います。その時はよろしくお願い致します。(ただし、誤字報告だけで、お願いします。)


なお、送り仮名は、どちらでも良い場合は、分かりやすくする為、多めになっている事がありますが、誤字では無い事もあります。誤字の場合は修正し、誤字じゃない場合は、ルビで対応しようと思います。

〜島津長千代side〜


 あたいは伊作島津家三男ん長千代じゃ。おっと、ち、薩摩んこっばでしゃべちもた。こちらんこっばで喋らんなだいも分かってくれんど。


んん(咳払い)


 某は、伊作島津家三男の長千代と申す。先程は薩摩のお国ことばで喋ってしまい誠に申し訳ない。こちらのことばで喋らねば誰にも伝わらないというのに。


 遠江に連れてこられたのは、もう二年も前のこと。なれど、遥か昔のことのように思うでござる。父や兄とともに戦いとうござったが、足手まといでござった。致し方なく遠江に来たのでござる。父の側室本田殿も身重でござったし、助太郎殿や肥前の方々も助けてくださり、今に至ってござる。


 今となっては、こちらに来てようござった。異母弟又七郎もすくすく育ってござる。あのままでは、又七郎を諦めねばならなかったでござろう。爺様じさまはなんとしてでも産めと、穀物をかき集めておったが、あの重圧の中で、まともに産めたかどうかわからんでござるよ。それに、某の子どもの頃と同じようにガリガリで育ったはずでござる。今ん又七郎のごつ、ふとかぁ子にはならんやったで・・・しもた。気ば緩むっと薩摩こっばが出るもんそ。


 さて、気を取り直して、薩摩のことでござるが、戻りたいかと聞かれたら戻れなくなったと言うしかござらん。おそらく、まだまだ戦さは終わっておらんでござろし、東海探題家からの支援も領民に配る兵糧だけで留めたと聞くでござるよ。


 なぜ知っておるか、なぜ戻れなくなったかって?今某は基礎学校を経て修練場に通う身でござる故、稀に探題様とお会いできるでござる。こちらに来た経緯が経緯なだけに、探題様はよく気にかけてくださりまする。そのときに、このような支援をしたが、お主ならどう思うと聞かれたでござる。おそらく、感想を求めてのことではござるまいと思い、受け答えをしたでござる。


「某なら最低限の支援でなく、薩摩全土を賄えるほどの米を求めまする。」

「その心は?」


 やはり、感想ではなかったと安堵したでござる。


「薩摩にとって米は金より重うござる。それ故、豊州・薩州家は無理でもそれ以外を調略しまする。」

「それで伊作家が属国となっても?」


 ここが自身の見せどころではないかと思い、策略だけではないところを見せたいと気合いを入れる。


「おそらく、属国にはできないと存じます。確かに海軍に見張られては、属国のような状態からしばらくは抜け出せぬでしょうが、四六時中海軍がおるわけではござらぬ。それにその間に大隈日向を落とせば、織田家が九州に辿り着く頃には薩摩のみならず、九州全土を席巻しているかと存じまする。」

「気に入った。さすがは伊作きっての智将となる者よ。修練場を卒業したのち、片諱を与え近臣とする。」

「ははーっ。有難き幸せ!」


 そんな経緯で、某は薩摩には帰れ申さぬ。兄も二人おるのだ、薩摩で分家は興せても、遠江か関東での本家は興せない。元服前の童の話も聞いてくれる君主になど、ほかにはおるまいて。


 そして、探題様の「そちを欠いた伊作が続くかどうか」という呟きは心にしまっておこう。又四郎兄上は脳筋ではあるが、又三郎兄上は知性のある方、大丈夫だと信じたい。



〜石井和泉守side〜


 某は石井孫七郎忠清と申す。肥前佐嘉郡の生まれにござる。肥前の者がなぜ遠江にと聞かれるであろうが、某もよく分からんでござる。ただ、ここは某の理想郷にござる。


 元々は、水ヶ江の山城守孫九郎様を助けたく筑後柳川に馳せ参じた者の一人でござった。龍造寺一門で村中の宮内大輔次郎様、越前守新次郎様、水ヶ江の宝林院豪覚殿、播磨守様、伊賀守様に加え、家臣団から四十八士が集まり申した。


 そこに、東海探題様の海軍大将が現れたのでござる。山城守様をおおいに励まされ、「龍造寺を再興するにしてもしないにしても、どこかで心身ともに癒されては?」とのことばに山城守様は快諾され、いつの間にか船の上でござった。


 最近の船は大きく揺れぬでござるな。数日で遠江に着き申した。そこから、館や長屋が準備され、肥前で住んでいたところが荒屋あばらやに感じるほど、快適にござる。


 東海探題家領内で生活するのに必要なものがあるとして、さまざまなことを修練場と学校とやらで見聞きしている最中にござる。しかし特に気に入ったのが、養童院や特支院にござる。常々、思っていたのでござる。孤児やなんらかの障がいを持つ子どもの扱いが酷すぎると。今は戦乱の世、今は戦乱の世と呪文のように自身に言い聞かせて、逃げてきたでござる。


 しかし、この東海探題家領内では、孤児だろうと聾だろうと盲だろうと知恵遅れだろうと人として扱ってござる。まさに理想郷!山城守様には悪いが、東海探題家領内に永住するでござる。


 おっと、水ヶ江の山城守孫九郎様は代替わりなされたのであったな。ご先代様と言わねばの。水ヶ江水ヶ江と言っておるが、村中も水ヶ江もない。一応水がつくという理由で遠江浜松の水窪村を東海探題様より賜ってござる。肥前とこちらでは村の規模が違いすぎて、亡命の者に良いのか?!と思い申した。村中の方々も動揺したのか、水窪村の西側を少し賜ったことにしており申した。


 そうそう、つい先日、ご先代様はお亡くなりになられて、宝林院円月様が還俗して水窪家をお継ぎになられた。円月殿は肥前では手のつけられないほどの猛虎でござったが、今はだいぶ丸くなってござる。


 それもこれも、遠江に来てから、ずーっと、東海探題様らにボコボコにされ続けている結果でござろう。というかでござるが、大人たる我らですら、東海探題家の家臣の方々に誰にも勝てんでごさるよ。ここにおられる方々は、どの武器を選んで相対させていただいても、一之槍本多殿にしても一之剣塚原殿にしてもお強うござる。それぞれの武器で、一之○○〜十之○○と位階がござるが、十でも厳しゅうござる。


 そして、その上に君臨される東海探題様は、果てしなく強うござる。睨まれただけで、震えが止まらんでござる。普段はあんなにお優しい方なのに、信じられん強さでござる。あの睨みも手加減されているとか。手加減無しだと死人が出るらしゅうござる。「さすがにそれは嘘だろう」と思っておったら、家老の武田陸奥守様から実際にあった例を幾つも挙げられ申した。


 東海探題様もお強うござるが、薙刀を握らせたら、東海探題様のご正室様もお強うござる。なんと言っても一之薙刀でござる。東海探題様も「惚れた弱みで本気は出せぬしの。」と笑っておられたわ。本気を出せば勝てるのだろう。


 その最強二人に毎日毎日懲りもせず、挑みかかっていた円月様はズタボロの状態で、「領民の心得」を唱和させられ、少し回復したら、東海探題様かご正室様のお相手を交互にさせられていたでござる。あれは性格の矯正であったのでござろうな。身の程をお知りになった円月殿は、ご先代様に付いてきた五十三人(自身を含む)とその家族、遅れて連れて来られた領民数万人に謝罪して回られていた。


 ご先代様の死後、円月様は、東海探題様に偏諱を賜り、姓も水窪に改め、水窪山城守孫九郎勝兼となられたのである。

薩摩弁は、ツールを使いました。隣の県なので、近いは近いんですが、もはや外国語ばりにヒアリング出来ないので、ツールで。間違えてたら、ごめんなさい。


石井和泉守孫七郎忠清の最初の思考ですが

明治の偉人で「日本知的障害教育・福祉の父」石井亮一が、石井和泉守家の分家石井又左衛門家の流れを汲む為、こんな考えがあったかもと思ってください。

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