第十七話 九州からの亡命者
いつもお読みいただき、誠にありがとうございます。
楽しんでいただけると幸いです。
また、いつも誤字報告をしてくださる皆様、とても助かっております。自身でも確認はしておりますが、また間違うこともあるかと思います。その時はよろしくお願い致します。(ただし、誤字報告だけで、お願いします。)
なお、送り仮名は、どちらでも良い場合は、分かりやすくする為、多めになっている事がありますが、誤字では無い事もあります。誤字の場合は修正し、誤字じゃない場合は、ルビで対応しようと思います。
以前、九州からの流民が多くなっていることについては触れた。これは、東海探題家海軍を使った訓練の一環として、奴隷貿易をしている南蛮船だけを私掠していたのだが、最初から訓練に出したわけではない。関東攻めで鹿島上陸後、暇になった海軍が仕事をしたがって困った長勝(当時はまだ坊丸)が各湊などを留守番する者たちを除いた海軍の一部に任務を与えたのだ(丸投げとも言う)。任務の内容は、
一、琉球・佐渡・隠岐・壱岐・対馬などの国として成立している島を除く、島を占拠し、その地の海賊衆を配下に治めること。
一、九州に派遣している小角衆と協力して、奴隷の乗る南蛮船を私掠すること。
一、指定する地域で、内乱や粛正が起こっていた場合、小角衆と協力して出来る限りの武将・領民を連れて帰ること。
この三つを任務としていた。海軍の誰が行くかは、各湊の大将に一任し、裁量も任せたのだ。
さて、この時期の九州は群雄割拠の真っ只中にあり、あちこちで戦国時代を代表する武将・大名が台頭・雌伏を繰り返している時代でもある。
長勝が意図して亡命させた者もいれば、意図せず連れてきた者もいる。意図して連れてきた者の代表は龍造寺一門。史実さえ知っていれば、翌年には再興することも分かっているが、自重はしない。龍造寺一門や郎党には綺羅星が多い。嫡子も嫡孫も失い、失意の龍造寺山城守が気弱になっているところに付け込んで、遠江に一族郎党領民もろとも連れてきた。その中には、ひ孫の円月もいる。家臣団には鍋島駿河守、小河筑前守、木下伊予守、納富但馬守、犬塚播磨守、成富甲斐守、石井和泉守、石井石見守、石井三河守、石井駿河守、石井尾張守など。子どもらの中にも綺羅星がいる。鍋島彦法師丸、戸田六郎(史実の百武賢兼)や成富千代法師丸(史実の成富茂安)、江里口次郎丸(史実の江里口信常)、成松三郎之丞(史実の成松信勝)、円城寺萬千代丸(史実の円城寺信胤)などだ。
石井多過ぎという異見は受け付けない。肥前の石井五家または石井党と言えば、知る人ぞ知る武家集団だろう。石井氏は佐賀藩に伝わる武士道論書『葉隠』にもしばしば登場する一族で、明治に至るまで戦国時代の武家の気質・家風を伝えた一方、俳人・歌人や学者などの人物も輩出し、文武両道の家門である。明治以降も日本の電話創始者石井忠亮、日本の知的障害者教育・福祉の創始者石井亮一ら偉人も多い。逆に時代を遡ると十三〜十四代前の藤原因幡守顕忠には二人の男子がおり、ひとりは右近衛中将忠通でこれが石井氏の祖先であるが、もうひとりの右馬允兼家の家系は三河本多氏に繋がる一族でもある。
---石井党がごっそりついてくるとか
---想像してねーわ
まさにその心境である。さて、九州からの亡命者は他にもいる。これは意図していない。確かにこの時期に台頭した武家だし、近衛家と因縁深い家柄で、鎌倉時代にこそ対立していたものの、困窮する今では、朝廷内では近衛家の被官に近い待遇である。まぁ、実際のところ、島津家がそれを知っているかは不明だが。
そう島津家から数名の亡命者がいる。さすがに元服済みの又三郎・又四郎兄弟は来なかったが、三男長千代と身重の側室本田殿が来ている。天文十四年に朝廷から上使が来て、又四郎らの父島津三郎左衛門尉は官位「従五位下」官職「修理大夫」を賜り、薩摩国守として朝廷に認められている。しかし、天文十年から続く、薩摩・大隈での内乱で合戦が続き、だいぶ困窮していたようだ。
天文八年には薩摩統一を果たした島津伊作家(忠良・貴久親子)であったが、急激な台頭に豊州家の二郎三郎や大隈加治木の肝付三郎五郎、薩摩姶良清水城の本田紀伊守らが結託して内乱を起こした。天文十年に、豊州家は忠良らの味方であった渋谷氏をも寝返らせ、豊州家以下十三家で島津益房を擁し、大隈生別府の樺山助太郎を攻める。忠良らは数少ない味方の力を借りて、辛くも豊州家の撃退はできたものの、樺山の領地を本田紀伊守に渡すことで和睦・十三家の結束を切り崩すことに成功した。だが、それで終わったわけではなく、内乱は続いている。史実では結局、天文二十二年に薩州家の八郎左衛門尉が死ぬまで続く。しかし、この世界ではどうなるか分からない。
天文十四年に龍造寺一門を拾った東海探題家海軍が薩摩に立ち寄った。正確には、先に述べた任務の過程で、薩摩海域の海賊を降伏させたら、是非伊作家を助けてやってくれないかという話になったらしい。
まぁ、そんな状況で内乱中の薩摩に寄ったわけだが、すわ!外敵かと、内乱は一時中断、伊作家に幾つかの船が寄ると、敵対していた豊州・薩州家には動揺が走ったが、そんなの関係ねー。とばかりに、海軍と小角衆は何人かの亡命者を連れて遠江に戻って行った。
先に述べた長千代は元服前だからという理由、側室の本田殿は父丹波守が紀伊守の分家の為、紀伊守に遠慮してという形で亡命する。他にも亡命者はいる本田紀伊守に領地を譲ることになって、薩摩谷山に領地を与えたという名目で蟄居していた樺山助太郎・千代鍋丸・剣千代丸・お妙親子も亡命者だ。ほかにも、貧困した諸豪族に東海探題家領に行けば、豊かな土地で暮らせると持ちかけ、一族郎党領民を連れ帰ってきた。
---島津歳久が来るとか聞いてねー
---あと、お腹の中にいる家久も!!
関東一円作事の旅から戻った長勝(しつこいが、当時は坊丸)が頭を抱えたのは言うまでもない。