第七話 法整備
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分国法を定めた戦国大名は滅びるという学説が存在する。理由は簡単で、伊達氏以外の分国法を定めた大名家が滅んだからである。あれ?結城は?と思う方もいるだろうが、結城の名を継いだ結城秀康の子孫も、時代を経ると松平氏を名乗ることになるので、大名としての結城家はなくなる。
そもそも、分国法とは何かと言われれば、戦国時代、戦国大名が分国内での訴訟の公平性を確保するために制定した法令である。
包括的な法律ではなく、特定の事項に関して独立して制定された単行法と並び、戦国時代の法律を構成するのが分国法と言える。分国とは中世における一国単位の知行権を指す言葉であり、古代・中世の日本において、有力貴族・寺社・武家が特定の国の知行権を認められ収益を得た制度、およびその国を指す知行国に始まる概念である。しかし室町時代中期以降に守護大名や国人一揆による一国単位の領国化が進み、分国支配が形成されていった。そうした分国支配の一環として、領国内の武士に分国法が定められたと言われている。
分国法には先行武家法である御成敗式目および建武式目の影響が見られるが、一方では自らの分国支配の実情を反映した内容となっている。分国法が規定する主な事項には、領民支配、家臣統制、寺社支配、所領相論、軍役、などがある。
また、分国法は戦国大名の家中を規律する家法と、守護公権に由来し国内一般を対象とする国法に区別される。このように、前世で学んだ。
一方で、織田・豊臣・徳川には分国法がなかったのか?という疑問もあると思う。徳川家康が定めた法は、武家諸法度や公家諸法度などがあるが、これは天下統一後の法令であるため、分国法に当たらない。ならば、織田・豊臣は?となるが、史料がないため、なかったという説が有力視されている。だが、決めつけられるわけではない。織田の史料は豊臣政権の礎となっていたはずだし、豊臣政権は年数が短いとはいえ、統一政権であるから、ある程度の法整備はあったのではないかと考えられる。
では、なぜ史料が無いかといえば、これも簡単だ。織田の史料を収集していたのが、豊臣家とすれば、豊臣家は滅亡時に、城が焼け落ちている。ここにあった膨大な史料は失われたと言って良い。ならば、家臣などの家にあるかもしれないと思われるだろうが、太平洋戦争後、そういった史料は、日本占領時の政策の邪魔になるとして焚書されている。そのため、戦国時代に滅びた武家と織田・豊臣に関する史料は極端に少ないのだ。
閑話休題
長勝は、東海探題家領内で、法を整備しようとしている。と言っても、今から作るわけではない。元々三河の頃から、学校を作ったり、病院を作ったりしている間から、評定衆とともに考えてきたものや民衆に通達してきたものを、三河だけではなく、ほかの十四国でも適応できるように、少し形を変えたり、文章化して周知しやすくしようとしているだけである。
分国法というほど堅苦しいものではなく、人として生きるための在り方だったり、年貢はどれくらいで、そのうち、積立がこれくらいでといった内容をまとめたものだったり、悪いことをしたらこんな罰を受けますよという内容なだけだ。天下統一したら、また変えればいいかと、簡単に定めている。ただ、名前は割ときっちり決まっていた。「東海探題家 領民法(通称:人民法)」「東海探題家 処罰法(通称:刑罰法)」「東海探題家 労働法」「東海探題家 納税法(通称:年貢法)」「東海探題家 教育法」である。
あくまで、こういう法律を混ぜて作ったよ〜という風にはこの後の話数で出てきていますが、まともに作ったのは人民法くらいで、他は作ってませんので、悪しからず。