第三話 こいつらどうしようか。
いつもお読みいただき、誠にありがとうございます。
楽しんでいただけると幸いです。
また、いつも誤字報告をしてくださる皆様、とても助かっております。自身でも確認はしておりますが、また間違うこともあるかと思います。その時はよろしくお願い致します。(ただし、誤字報告だけで、お願いします。)
なお、送り仮名は、どちらでも良い場合は、分かりやすくする為、多めになっている事がありますが、誤字では無い事もあります。誤字の場合は修正し、誤字じゃない場合は、ルビで対応しようと思います。
元服式も終わり・・・、いや、目をキラキラさせている菊幢丸がいるな。こいつらまだ研修中なのに元服したいのか。来年じゃダメか?ダメだろうな。
なお、将軍家ではあれから大捜索が実行中である。とは言え、半年以上も見つかっていないので、半ば諦められている。一緒についてきた慶子様(義晴嫁)には、戻ってきて欲しい旨のお手紙が届いているが、慶子様のお返事は帰らない旨を記した和歌で、けんもほろろらしい。だいぶ、東海探題家が人質として止めているのではと疑われているようだ。これは、近衛家からの情報だ。慶子様は近衛家について行って、遠江が気に入ったから、ここに居座ると言って残られた。長勝にはそんな意図はないのだが、将軍家ならびに幕臣からするとそうなのだろう。ただ、それならなぜ?と不思議でならないことが多い。
ただでさえ、古河公方を滅ぼして、幕敵にはならなかった(黒田和泉守のせいと小角衆の働きの成果)けれども、敵対者とは見られているはずだから、慶子様がこちらにいるのは気が気じゃなかろう。長勝にそんなつもりはないが、人質にされているとでも思っているのか、今のところお咎めはきていない。それどころか、司笆や富城らは、黒田討伐の御教書をしっかりと手に入れている。ゲーム的には全く使えないと思っていたけれども、大名としての枷がなくなっただけで有能な外交官になってくれているのは、ありがたい。
そもそも、幕府にもう情報収集能力はない。菊幢丸は、幕府の忍び衆は全員連れてきていた。和田とか静原とか八瀬童子とか。せっかく、土佐守に連れて行ってもらったのに、何年か越しに帰ってきた。だから、家臣に出来ないっての!家臣にする方法がないわけではないが、口には出さない。畏れ多い。
一応、近衛家を通して、菊幢丸の名前候補はもらっている。史実通りの文字が来ている。二文字とも。それをそのまま使うつもりだ。なお、近衛の太閤殿下から、覚慶を還俗させる動きが伝わっており、名前について諮問された。「何故、こっちに聞く」とか思ってはいけない。おそらく、二文字のどちらかは、覚慶のためのものだったのだろうが、気に入らない孫のために与えたくはないらしい。どうも太閤殿下とは性格的にそりが合わないそうだ。だから、「終わりという意味の『冬』か、終わりに近いという意味の『秋』が良いのですが、それだと縁起が悪いとか言い出しそうなので、『秋』と同訓の『昭』で良いのでは?」と御所言葉を使って答えておいた。「おほほほ」と笑っていたので、それでいくのだろう。こちらとしても最初から義昭ならわかりやすい。
閑話休題
菊幢丸の元服だが、研修卒業後に名乗るようにと念を押した上で、名を与える。菊幢丸は淵名壱岐守旭太郎藤輝となった。一応、三人に由来の説明をしておく。
淵名はもちろん、藤姓足利氏の初代足利成行の父親からとっている。淵名兼行は俵藤太こと藤原秀郷の四代あとの孫だ。壱岐守は、怪力士家綱(成行の次男)の官職で、剣豪を目指す菊幢丸には相応しいと言っておいた。通称の旭太郎は家綱が建立した朝日森天満宮や孫太郎神社を繋げただけだが、その辺は誤魔化した。名前については、近衛家を通して、朝廷から賜ったと伝えておく。
で、だ。万吉と与四郎が藤輝と同じ目をして見ている。出来れば、藤輝から名前を与えてほしかったが、どうも二人は脳筋な藤輝からよりも、自分につけて欲しいらしい。あれでも将軍を二十年くらいやってたのだ(史実では)。ずっと脳筋だったわけではないだろうに。なぜだろう?とってつけただけのつもりの藤輝の命名のどこかに琴線に触れるところがあったのだろうか?歴史に造詣が深い二人だ。前世歴史オタクの長勝に通ずる何かがあるのかもしれない。
仕方ないので、与四郎から名前つける。突然のことだし、なんの用意も推敲の時間もないから思いつきだ。なお、万吉も与四郎も苗字から変えてほしいらしい。
---また無理難題を
苗字も官職も通称も名前も与えたら、藤輝の直臣ではいられなくなるとは、思わんのかね。まぁ、直臣でいられるような名前にするけれども。
与四郎は、佐淵掃部助與四郎輝之とした。淵名を佐ける者という家名だ。掃部助は父親の三淵晴員が掃部頭だから。與四郎は「与」を旧字体にしただけ。輝之は元々、三淵藤英は三淵藤之からの改名であったからなのだが、そこは語らず、適当に理由をつけた。もちろん、輝は藤輝の片諱だとも伝える。こんな、今考えただけの名前なのに、もの凄く感動している。なんだろう、罪悪感が半端ない。
続いては、万吉だが、與四郎と万吉には研修後、藤輝と慶子様を養っていくために村一つ分の領主になってもらって、そこから上がる税収分の貫高を与えるつもりでいることを説明した。大変驚いてくれたが、東海探題家で生きるためには、働くことが前提となっている。どんな流民でも、戸籍を手に入れ、教育を受けたら、死ぬまで働いてもらう。(六十五歳以上になったら、家族が働き、本人は施設入りするが)だから、慶子様(内衆もいるので、一人ではない。もちろん、内衆は働いている)や藤輝を養うには収入がいるだろうから、少なくとも村一つ以上は与えるのが当たり前だ。うまく治められなかったら没収するが。
そういう理由で、與四郎には上岡村を、万吉には上岡に隣接する下岡村を与える。なぜ、この話を今したかといえば、これから名乗ってもらう名字に関係している。一般に万吉は、元服後の細川藤孝(幽斎)の名で知られているが、足利義昭が京を追放されて信長に従ったあと、初めてもらった領地が西岡だったと言われる。この西岡を信長に賜ったからと、長岡に改名し、そのまま自分の苗字にした。息子の忠興の代までは長岡姓である。孫の代から細川に復姓する。そう、下岡を与えて、○岡にしたろうという魂胆だ。まぁ、勝岡なんだが。
ちなみに、この細川という姓は、管領家の細川とは血縁的に関係が無いことが、平成二十一年に発表されている。昭和の頃は、細川和泉守護家(のちの細川刑部家)の養子に入って、細川姓を名乗ったとされていたが、どうも違ったようだ。養子に入ったのは本当らしいが、養父の細川某は、八代将軍足利義政が寵愛した喝食行者の寿文房に淡路守護細川家の養子として細川政誠と名乗らせた者の孫らしい。政誠は御部屋衆に取り立てた入名字ということだ。入名字とは、将軍が側近などに足利一門の苗字を与えて序列を引き上げるもので、寿文房は六角氏や京極氏と同族の宇多源氏佐々木大原氏の子だった。入名字は将軍との個人的な関係に基づくもので一代で終わる場合もあったが、細川一族からの異論がありながらも代を重ねたようだ。
つまり、万吉としては、足利氏を離れるのだから、細川でなくても良いらしい。それを聞いて、勝岡にすることは考えていた。研修後、細川万吉は、勝岡和泉守與一郎輝孝となることが決まった。