別視点 とんでもなき大将
いつもお読みいただき、誠にありがとうございます。
楽しんでいただけると幸いです。
コンテストの応募状況について報告致します。
第3回一二三書房Web小説大賞→→→一次選考通過
第2回新人発掘コンテスト→→→→→最終選考入り
これは皆様が読んで応援していただいているから
モチベーションを維持して書けた結構だと思ってます。
本当にありがとうございます♪
また、いつも誤字報告をしてくださる皆様、とても助かっております。自身でも確認はしておりますが、また間違うこともあるかと思います。その時はよろしくお願い致します。(ただし、誤字報告だけで、お願いします。)
なお、送り仮名は、どちらでも良い場合は、分かりやすくする為、多めになっている事がありますが、誤字では無い事もあります。誤字の場合は修正し、誤字じゃない場合は、ルビで対応しようと思います。
〜山科内蔵頭side〜
いつもながら坊丸殿には驚かされる。初めて会ったのは、坊丸殿が三河守になった頃。三河に病院なる医療専門の施設を作り、上野の足利学校から田代三喜殿と弟子十数人を招聘したと聞き、三河に下向した折のこと。三河と尾張国境で、公家服では目立つからと服を引き剥がされ、平民服を着たのもこれが初めてのことで、子どものやることとは言え、公家に対する態度でないことも含め、面白い御仁と思ったものだ。
それからたった五年で十一ヶ国の太守である。昨年に五ヶ国の太守となった時も驚いたが、数ヶ月でさらに六国増やした。四年前に死んだ尼子民部少輔と並んでおる。さらに歴史を紐解けば、六分一殿と呼ばれた宗鑑寺古鑑衛公大居士とも同じであったな。
関東征伐の前に噂になった、北条氏の臣従も本当なら、十四ヶ国の太守ではないか。公方御料も一番多い時で二百ヶ所だったと聞くが、あれは荘園の数なので、それほど高い石高にはならなかったと聞く。次の天下人は織田かもしれぬ。甥の菊幢丸も足利の未来が幸薄いと感じ、足利姓を捨てるのも頷ける。しかし、坊丸殿は三郎殿に何もなければ、天下人にはなるまい。惜しいことよ。おっと、これは坊丸殿に悟られてはまずい考えよ。戦国の世に珍しいくらいの家族好きなお方ゆえ、この考えが三郎殿を排除したいと誤解されたら、公家はもちろん朝廷をも解体しかねぬ。まぁ、今までの朝廷への献身ぶりからすればあり得ぬかもしれぬが、坊丸殿が三河守になった頃に言っておったわ。「有り得ぬなぞ、有り得ぬ」と。世の中、何が起こるか分からぬことを言いたかったに違いない。
しかし、坊丸殿も凄いことを考えておるものよ。大内裏の復元とは。それに対して五万貫もの献金というのも途方もない。三年前の弾正大忠の一千貫が霞んでしまう。しかし、人手が送れないからと八千貫も上乗せしたと言う。それでも四万二千貫か。途方もない途方もない。
今は官位は不要と言うが、いずれ必要となるだろう。甥らに聞こえないように征夷大将軍かと聞けば違うと言う。今は藤原北家魚名流との交流をと言う。つまり、いずれ欲する官位は俵藤太と同じもの。ならば、官位は徐々に上げていったほうが良かろう。弾正大忠殿には正五位下弾正少弼を、三郎殿には正六位上弾正大忠を、坊丸殿には正六位下民部大丞を推薦しておくとしよう。嫌がられたらどうしようかの。本当は、民部少輔が良かったが、官位が従五位下じゃからのぉ。三郎殿を超えると嫌がられるじゃろうし。ん?官位だけを上げれば良いか?ふむ。三郎殿に従五位上弾正大忠を送れば、或いは?
〜細川万吉side〜
六年ほど前から若殿と当時の三河守殿、現在の東海探題殿に交流があったのは知っておった。若殿の先見の明かと思いきや、そうではなかった。どうやったかは分からぬが天下の大剣豪塚原土佐守殿を傅役兼家老とした東海探題殿に、無理を承知で剣術指南役に土佐守殿をお願いして、承知頂いてからの縁だという。北畠左近衛中将殿が、兄弟子なのは納得がいくが、若殿と同い年の東海探題殿が、兄弟子というのは、ややおかしな話である。ちなみに、某ら家臣も全員若殿と同じ時に弟子入りしたので、歳下の兄弟子である。
それはさておき、若殿が本気かどうかは分からぬが、大樹にはならぬという。家臣全員や今代の大樹とともにお止めしたかったが、室町を出る時には、「最後の武者修行に行く。父らには内密にしたい。」と言われて、秘密裏に太閤殿下らに合流し、堺湊から船に乗った。尾張を過ぎて三河湾に入ったら、別世界で年甲斐もなくはしゃいでおった。それだのに、屋敷を借りたあと、随行者一同を集めて、大樹にはならぬと告げられた。冷や水を浴びせられた気分というのは、こういうことを言うのだろう。
若殿に心酔しておる進士や彦部や高などの身分の軽妙な者は、どこまでもついてゆくと宣い、兄や某などの譜代の者はどうしたものかと思案中だ。若殿は若殿で、「不服の者は去れ」などと言うし、困ったものよ。まぁ、一度決めたら譲れない方でもあるから、おそらく、翻意は難しいのではとも思うが、このままでは、足利の世が終わってしまうだろう。三年前に南都興福寺一乗院に入室された千歳丸様は、なんというか我儘なお方であった。思い通りにならないと癇癪を起こすというか、そういうところのある人だった。まぁ、子は親の姿を見て育つと言うし、そう言う意味では若殿は不肖の子であろうし、弟君は瓜二つな子と言うべき方でもあった。
それから数日が経ち、驚くべきことが起こった。若殿が遠江に滞在していることを知ったのであろう、東海探題殿から館が当てがわれたのだ。常陸にいるはずの東海探題殿は千里眼の持ち主か、はたまた小角衆に四六時中監視されているのか。いや、千賀地新蔵と名乗った小角衆の若き棟梁殿は、「我々には意味が分からぬのですが、一行に館を当てがえと命が降りましたので」と言っていたので、監視はしていても、そのことまでは理解していなかったことになる。となると、一度お会いして見極めねばなるまい。ちょうど、若殿が常陸に行こうと言っておるし、兄とともについて行こう。
また、若殿が変なことを言い出した。足利姓を捨てるぅ?!いやいや、待って待って、それはダメ。東海探題殿の間髪入れずに言った「淵名」はそれはもっとダメなやつ!
「兄上、あの名は」
「まずいぞ」
「「「ひぃっ」」」
東海探題様に睨まれた。近くにおった美作守殿も巻き込まれてしもうたわい。武術の心得があるからこそ分かる。あれは途方もない使い手だと。睨まれただけで、震えが止まらぬ。見よ、美作守殿が産まれたての子鹿のようぞ。兄も私も拳を固く握り、震えておらんように見せねば、武家には見栄も大事じゃからの。
それにしても、若殿は肩を掴んで、稽古を頼みたいようじゃが、体捌きだけで躱されておる。あれは剣術のみならず、体術も、もしかしたら槍術も相当なものかもしれん。私も手合わせしてもらえると嬉しいが。