別視点 時代が変わる時
いつもお読みいただき、誠にありがとうございます。
楽しんでいただけると幸いです。
また、いつも誤字報告をしてくださる皆様、とても助かっております。自身でも確認はしておりますが、また間違うこともあるかと思います。その時はよろしくお願い致します。(ただし、誤字報告だけで、お願いします。)
なお、送り仮名は、どちらでも良い場合は、分かりやすくする為、多めになっている事がありますが、誤字では無い事もあります。誤字の場合は修正し、誤字じゃない場合は、ルビで対応しようと思います。
〜簗田近江守side〜
信濃守殿に無理を言ってでも着いてきて良かったわい。遠目にだが、実兄の最期が見られた。あれでは生きていまい。時代が変わる時なのかもな。でなければ、あんなに死者の出る戦は知らぬぞ。
まぁ、実兄は死ぬだろうなという予感はあった。河内守家を継いだ実兄だし、正室に女を出しもした。姪がまだ生きておれば、公方様に愛想を尽かすこともなかったろうに。そんな折、関東での情報売買を請け負っていた、三河の小角衆が今後、情報は売れないと言ってきた。大変に困って、実兄に相談したら、何かあると、おそらく織田三河守が関東を見据えているのではと言っていた。
案の定、室町の莫迦将軍が、関東公方よりも権限の高そうな東海探題なるものに三河守を任じたと御教書が来て、大いに慌てたものよ。バ・・・げふん。公方様は、「足利が上よ」とか根拠の無い馬鹿げた・・・、あ言葉だから良いか。バカが馬鹿げたことをと、実兄やほかの重臣様たちも呆れておったわ。
本当は、簗田家の総意は、公方様を戦に出させず、山内の上杉か扇谷の上杉あたりを総大将に、軽く北条を牽制して、東海探題家の出方を見る程度じゃったんじゃ。下野守家の基助殿もそのように動いてくれておった。
そうしたら、凄い勢いで、関東中に北条家が東海探題家に臣従したと、噂が流れていった。あの伝達の速さは間違いなく小角衆が動いておる。だから、下野守殿もわしも、もちろん実兄も公方様を止める方向に持っていくはずじゃった。
しかし、そうはいかなかった。よりにもよって、全ての上杉を鳩合させるとは、思いもせなんだわ。実兄も下野守殿も、今回死ぬつもりじゃった。実兄にも下野守殿にも簗田を残すためにも、わしは残らざるをえず、今に至る。
出来れば、実兄の子どもたちは生かしたかったが、あの聞かん坊らは着いて行きおった。全員着いて行かんでも良かろうに八郎も民部も左近も蔵人も、あゝ河内守家は断絶じゃ。今度は、うちの次男坊を出すかのぉ。下野守家の次男坊でも良いか。
〜菊幢丸side〜
もう、足利はダメかもしれんな。実は同い年の織田三河守殿とは、五歳の頃から手紙のやり取りをしておる。ああ、今は東海探題殿だったの。あの莫迦父がお金欲しさに役職を捻り出しおって、しかも何も考えておらん重大な役職を。これ、大義名分を求めている坊丸殿みたいな武家には、関東公方を討伐せよと言っとるようなもんじゃからな。実際にそうなったようじゃし。
なんで知っておるかって?塚原土佐守殿が連れてきた、小角衆になれなかった帝の忍びが教えてくれるのよ。一応、帝には許可をもらっておるらしいよ?こちらからも書を認めてお伺いは立てておるから間違い無さそうじゃし。どちらかと言えば、某が将軍になった時の重しにしたいような感じだったし、はぁ。将軍になりたくないんじゃよな。将軍になったら、坊丸殿を足利家としては潰さんといかんのだろうな。嫌だのう、兄弟子と敵対するのは。
そう、坊丸殿は兄弟子なのじゃ。坊丸殿はたまに、土佐守殿を派遣して下さり、兄弟弟子ともなった。あちらは三歳からだから兄弟子じゃ。土佐守殿は傅役で家老であるにも関わらず、武芸者として、他国に行って指南役をすることを認められておるらしい。普通は、家老が他国に外交以外で出るなぞ有り得んが、坊丸殿のような柔軟な思考を持つ方には、常識では考えられないような何かがあるのじゃろう。まぁ、小角衆を連れて行っている事から、剣の才能がありそうな若子を引き取る役割もしておるようだ。
良いのぉ。足利に生まれなければ、某も・・・?足利として生きなければならぬと誰が決めたのじゃ?僧籍ではあるが同腹の弟もおるではないか。ふむ。確か、太閤殿下が嫡男(同い年で某の甥)を伴って遠江に下向される予定と聞く。何人か連れてその集団に混ざってみようか。うむ。そうしよう。
〜近衛権中納言兼左近衛権中将side〜
同い年の叔父上が、遠江下向に付いて行きたいと、父上に頼み込んでおる。しかも、内密じゃと?!無茶を言う。
われらは、内蔵頭の遠江下向に着いて行き、しばらく遊んだら帰る予定の物見遊山でしかないのだぞ?!三条の前右大臣様の帰洛後に向かう予定じゃ。
※現在、守護朝倉弾正左衛門尉を頼って、越前に下向中。三条公頼が右大臣を辞したのが六月二日で、帰洛が七月九日なので、その間と思ってください。
その前右大臣様も、三河守殿(公家に幕府役職は関係ない)に会えなくても良いと仰せじゃ。娘に会って、遠江を堪能して、年末には京に帰れば良いくらいに聞いておる。
ちなみに、内蔵頭は仕事じゃ。天文二年に今川家から取り付けた毎年の献金は、三河守殿が引き継いでくれるのか、交渉するそうじゃ。ほかにも内裏の修繕費用も引き出したいらしい。関東公方を滅ぼしたら、幕府から官位の融通は今後無理であろうからの。その後は、遠江を楽しむらしい。三河と同じのはずだから、いろいろ案内すると意味のわからんことを言われた。
ふむ。脳内で語っておったら、父と叔父の話し合いも終わったらしい。どうなったかの?
【御所言葉について】
麿や〜でおじゃるなどの通称「御所言葉」は室町時代から江戸時代にかけて、京都の庶民に流行った公家をイメージした言葉遣いという学説を採用しております。
【一乗院覚慶(のちの足利義昭)について】
覚慶の一乗院入室が天文11年のため、「僧籍にはあるが」となっております。