第十三話 佐竹を威す(ついで関東公方家も絶えさせよう)
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なお、送り仮名は、どちらでも良い場合は、分かりやすくする為、多めになっている事がありますが、誤字では無い事もあります。誤字の場合は修正し、誤字じゃない場合は、ルビで対応しようと思います。
鹿島を焼き払うまでは、常陸国の石高は三十六万五千五百二十二石あった。現在、再計算中という表示と読み込み中のように何かがグルグル回っている。こういうところはゲームチックなんだよなぁ。と思いながら、佐竹氏の居城太田城を眺めている。いつものように、新左衛門を使者に出し、一両日中に返答するという回答を携えて新左衛門は帰ってきた。当然、内容は降伏か死かの二択。降伏すれば佐竹家は解体されて、全員家臣化する。その上で、貫高制の適応だ。どこぞのなんちゃって源氏とは違い、使者に斬りかかったりはしなかったようだ。
※木曽家のことです。当時、木曽義仲流を自称しておりましたが、実際の本姓は上野国沼田を拠点とした秀郷流の藤原氏です。
佐竹氏の興りは、新羅三郎義光の嫡男の長子(嫡孫ではない)、源昌義(歴史書には「源」ともなっていないが、説明する上で、こう書かせてもらう)が、父の刑部太郎義業から常陸久慈郡佐竹郷を継承し、妙福山明音院佐竹寺で発見した節が一つしかない竹を吉兆と言って、佐竹を名乗り出して四百五年である。
ずっと、常陸を治めていたわけではなく、治承・寿永の乱で平家方につき、そこから十年ほどは反頼朝勢力の一角であり、頼朝の奥州征伐直前に和睦し、その奥州合戦にて武功を挙げ、ようやく御家人の仲間入りを果たした。それでも、常陸への復権は鎌倉時代ではなく、室町時代まで待たなければならない。
坊丸は勘違いをしていたが、足利氏に恩があるのだ、佐竹氏は。だから、同格云々ではなく、足利氏が号令をかければ、馳せ参ずる。それに佐竹義昭にとって、父方は関東管領家の血筋で、母方が源氏の血筋なのだ。古河公方に呼ばれれば、ホイホイ行ってしまうだろう。
ただし、時機というものがある。父親の病が篤い状態で、ホイホイ領国を離れたら、そらぁ、ダメだろうよ。今、太田城では、連枝衆と家臣団が降伏か死かを話し合っているのだろうが、当主不在の状態では決まらぬであろうな。まぁ、佐竹に使者を出す時機については、これを逃すわけにはいかないという好機に出したのだ。当然、明日には河越城の戦いの結果が、太田城にも届く。
去る五月二十八日、河越城に集結した関東軍は散り散りになる農民兵を除き、全滅した。まぁ、全滅と言っても全て死んだわけではない。だいたい八割の死亡。普通の戦は三割減ったら負けだ。五割切ったら滅亡覚悟だろう。なら、八割なら?
「三郎大夫、次郎太郎、古河城より芳(氏綱女)様と梅千代王丸殿を救い出せ。」
「「はっ」」
「それと、亀千代王丸と萬千代王丸と鶴千代王丸の三子は養童院(児童養護施設)に孤児として放り込め。ただし、監視は怠るな。接触・干渉する者は誰であろうと報告せよ。名は亀・萬・鶴で良い。」
「「ははっ」」
と言うことだ。滅亡させても問題無かろう?(暴論)残りの二割は五体満足かといえば、そうでもない。まず夜明けより一刻半前に、河越城に当たらない角度からの殺し間(射撃線が対象部隊全てを死角なく殺すため、網羅するように配置した、射撃武器用の殺戮空間)を作り、多段撃ちで、鉄砲隊二千(百六十六・百六十六・百六十七をひと組とした四隊)が五周撃ったあと、朝靄の中を騎馬隊が先ほどの殺し間に沿うように、突撃往復を繰り返した。
そんな戦場に五体満足の者がいるのだろうか?生き残っても片足か両足か片手か両手かは分からないが、虜囚となった者は全て欠損者だと報告を受けた。この状態では、各国への報告も遅くなろう。だが、残念なことに佐竹次郎は死ななかったらしい。しぶといものだ。ただ、側近全員と腕一本失って虜囚となっているようだ。史実では三十五歳で死んでいる。病弱という説もあったが、戦に出かける元気さを見れば、他の説が濃厚だ。さすがは北の謀将と言ったところか。岩城め。まぁ、次郎を鑑てから判断しよう。
翌日、朝方に情報が届いたようで、うるさくなったりお通夜みたいな空気を纏ったりと忙しい太田城であったが、昼頃に、城門が開き、数名の男どもが出てきた。少なくとも六人いる事から、佐竹連枝の東西南北と次郎の異母兄弟か。あとは、元服前の子どもたちかな?まぁ、いつもの流れなら、あ、やっぱりいるな。八歳くらいかね。なら、史実の岩城孫次郎の正室桂姫かね。良かったわぁ、宇都宮広綱に嫁いだ楠姫零歳じゃなくて。