別視点 太田美濃守との繋がりで
いつもお読みいただき、誠にありがとうございます。
楽しんでいただけると幸いです。
また、いつも誤字報告をしてくださる皆様、とても助かっております。自身でも確認はしておりますが、また間違うこともあるかと思います。その時はよろしくお願い致します。(ただし、誤字報告だけで、お願いします。)
なお、送り仮名は、どちらでも良い場合は、分かりやすくする為、多めになっている事がありますが、誤字では無い事もあります。誤字の場合は修正し、誤字じゃない場合は、ルビで対応しようと思います。
〜難波田弾正少弼side〜
某の家は、武蔵七党と言って前武士時代後期から今の武士時代にかけて、武蔵国を中心として下野、上野、相模といった近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた同族的武士団である。その武蔵七党のひとつ村山党に属していた金子小太郎高範の流れを汲む一族である。
某の家は足利の御代において、もっと弱い立場にあるはずだった。観応の擾乱の折、某の祖先は大倉宮様方に付き、長寿院様に付いた高麗家の者に倒されている。今でこそ、高麗家は婿の太田美濃守殿の家臣と成り下がってはいるが、当時はこちらの方が下だったと聞く。
その時の御恩に報いる為、今までやってきた。今でこそ、扇谷上杉家の筆頭家老のような立場だが、もう良いのではないかとすら思える。某の難波田の家はもう次がいない。一応、もう一人の婿大森式部大輔の次子を預かり、後継に育ててはいるが、まだ幼い。悔やむべくは、北条左京大夫との八年前の戦よ。あの時、息子たち三人を失った。後継に婿の美濃守殿にとも思っていたが、美濃守殿の兄左京亮殿は元々病弱。左京亮殿にも男子はおらず、おそらく美濃守殿が継ぐのではなかろうか。
既に某も五十を超えた。次の戦、負けるだろうのぉ。関東諸侯を鳩合すると聞いているが、巷で聞く東海探題様の兵を考えておらん。武田も今川も為す術無くやられたのだ。婿殿にも聞いたが、三河だけで十五万動かせるらしい。十万と号しているがこちらはせいぜい七八万。甲斐信濃遠江駿河を合わせたらどれくらいになるのか。関東諸侯は知らぬのであろうな。
婿殿は東海探題様の関東入を待望しておるようだし、殿に伝えなくても良いか。大森にも伝えた方が良かろうが、あそこと北条家との因縁を考えると伝えるのはやめた方が良かろうのぉ。
〜三田弾正side〜
某、三田弾正と申す。武蔵の杣保・上奥富・三木・広瀬・鹿山・笹井などを領し約一万石ぐらいの領主でもある。そのほか、杣保の特産物である漆、木材などの雑収入もあり、我三田家はかなり豊かな暮らしをさせていただいておる。
某の家は、『続日本後記』に出てくる壬生吉志福正の末裔であり、平将門の子孫でもある。正確には、平将門の叔父である平良文の後裔の相馬弾正の子が、武州三田を領し、この杣保に移り住んだ後、壬生吉志氏の女を妻とし、土着して今に至るのだ。だから、父は「平将門の後裔」と称していたのである。
さて、某の家はこの杣保の土着の武家であるので、この度起ころうとしている大乱では、今仕えている山内上杉家に従って戦に参加するよりも、生き残る為に、ギリギリまで見極めて、勝つ方に付く方が良いのだが、さてどうしたものか。
兵数的には、古河公方が有利に見える。が見えるだけだ。本当に鎌倉御教書にある通り、河越が本当に油断しているのなら、北条家からの援軍を遮断できるのなら、確かに有利だろうが、それが本当に出来るものなのだろうか。あ、鎌倉御教書とは、古河公方が元々は鎌倉公方だった事に由来する、単なる形式だ。今は鎌倉公方ではなくなっているのだから、古河御教書とするか、両方合わせて関東御教書にすれば良かろうと思う。
閑話休題
我領地、杣保には多くの商人が来る。その商人の話では、三河がすごいらしい。また、岩槻の美濃守殿は昔から東海探題様と交流があるらしく、東海探題様の話をよく聞く。話を聞けば聞くほど、山内勢は勝てそうにない。
岩槻から杣保ではかなり遠いのだが、美濃守殿はうちの祭りでよく見かける。某も武家なので、それだけで来ているわけではないというのは、分かっておるが、それだけという事にしておる。
岩槻の美濃守殿の仕える扇谷と某らの山内とはたいそう仲が悪い。それも某の祖父弾正忠(父も弾正忠だが)が、扇谷を弱める為、美濃守殿の曽祖伯父を暗殺する策を献じた為である。美濃守殿の家は扇谷に残らざる得なかった家とはいえ、扇谷にも我三田家にも怨みがあろう。
それだのに、美濃守殿は良くしてくれるからの。その美濃守殿が心酔しておる東海探題様もさぞ、良い主君なのであろう。美濃守殿は東海探題様の関東入を待望しておいでだ。三田家としては、主君山内様にお伝えせねばいかんのだろうが、やめておくかのぉ。