ああ、苦しいな
私が愛した彼はこの世を去った。
まさに昨日の、ちょうど今頃。
瞼を閉じれば、家の前にパトカーが何台も止まっていたあの光景が帰ってくる。
警察官や野次馬達の騒がしい声も鮮明に聞こえてきて……
私はその日残業で帰りが遅かった。
だから、家に着いた頃には彼はもう『処分』されてしまっていて。
さようならすら言えなかった。
私の支えとなってくれた人。
私がようやく出会えたまともな恋愛。
それが、一瞬にして無くなった。
私の幸せは消えてしまった。
寂しいとか悲しいとか、そんな生優しいものではない。
ただただ虚しさがあるだけだった。
ふいに鞄から短く弱い振動を感じた。
それも間隔を数秒開けて三回。
携帯のバイブが鳴っているようだ。
頻繁によく鳴るから、普段から音が出ないようにしているのだ。
電話にしては短いから、おそらくLINEの通知。
これはあの人からだ。その連投具合からして、そう。
内容は見ずとも分かる。
今日、私は休みだけどあの人は仕事。
だから彼がいない間に、私は妹の家へ遊びに行っていた。
それがバレたのだ。LINEはおそらくその話。
バレた、といっても……隠してるつもりはなかったのだけど。
言うと余計に大事になるから、聞かれない限り黙っていようと思っていただけであって。
彼は相変わらず私の予定を全て把握したがる。
もう付き合っていないのに。
あの人。それは私の前の恋人の事。
マメで気が利くところが好きだったのだけれど、それは過剰な独占欲の裏返しだった。
連絡は一日中ひっきりなしにくる。
LINEなんて何度もスクロールするほどの超長文が何度も飛んでくる。
それでも仕事の方はきちんとこなしているようだが。
一人で外出なんてもってのほか、行けるのは勤務先の保育園か婦人科くらい。
病院や近所のスーパーですら彼が必ずついてくる。
その月の予定は逐一報告しなければならないし、飲み会は参加禁止。
友達と遊びに行くのだって、全員の情報や行き先を全て伝えなければならない。
メンバー内に若い男がいる気配が少しでもすればアウト。
妻子がいたり彼女持ちであっても関係なく、嫉妬に狂って怒り出してしまう。
そんな、かなり重い人だ。
いつも違う意味でドキドキしながら、必死に機嫌を伺ってなんとかやり過ごしているけど……なかなか気が休まらないのもつらい、というのが本音だ。
しかし、これで全てでは無かった。
彼にはそれ以上に厄介な事があった……それは、怒り。
怒りの感情が、彼はあまりに強すぎたのだ。
穏やかなときももちろんある。
お互い笑い合って、楽しい時間ももちろんあった。
しかし。
その平和なひとときを忘れてしまいそうなくらい、とてつもない怒りが突然爆発するのだ。
私には手に負えないくらいの勢いで。
怒鳴って、殴って、蹴って。
私の髪は乱暴に引っ張られ、頭から壁に叩きつけられて。
そんな痛みにはもう慣れた。
体は痣まみれだけど、それが普通に思えるようになってきていた……心は傷つき続けていたけど。
そして、毎回あの人は何かの途端にふっと我に帰り、途中で態度がころっと変わる。
怒りの表情は一瞬で悲しみの色に染まり、今度は泣きながら謝ってくるのだ。
これでもかってくらい謝って、頭擦り付けて土下座して。
俺から離れていかないでくれと声を枯らして……
そんな姿があまりに哀れで。
そう言われてしまうと変に情が湧いてしまう。
あれほどひどい事をされていても、だ。
元々とてつもなく寂しがり屋で、常に愛に飢えている……だから、ついそうなってしまう。
あの人自身も自分を止めたい。でも止められない。
本人も前にそんな内容の話をポツリと溢していた。
それは分かっていた。理解していた。
だから、私はなかなか強く言えずにいた。
心が離れてしまっていても、どうしても別れが言えなかった。
そんな中で相談に乗ってくれたのが高校で同じクラスだった同級生であり、今の恋人……樹君だった。
私の友達や同僚達はみな口を揃えて、ろくでもないやつだとか頭がおかしいだとか、散々あの人を貶すのだけど……彼だけは絶対にそうは言わなかった。
危ないから逃げてとはよく言われたけれど。キレやすい男だとは言っていたけれど。
それでもあの人自身の人格を否定はしなかった。
私は次第にそんな彼に惹かれていった。
あの人の事は十分理解していたが、とにかく苦しかった。
彼を助けようとして、支えようとして……でもズブズブと一緒に沈んでいってしまった。『救いの女神』は私には荷が重すぎたのだ。
苦しくて苦しくて、今すぐに助けてほしかった。
そんな私にとってまさに救世主だった。
私は彼に気持ちを全て打ち明けた。
彼も全て受け止めてくれた。
やがて私達は恋に落ち、付き合う事になった。
もちろん、あの人にも言った。
それでもはっきりとは言えずに、さりげなくぼかすようにだったけど。
でも、あの人は聞こうとしなかった。
私の別れようという言葉は、声に出すたびに無かったことにされて。すぐに話を変えられてしまった。
私はそれ以上言えなかった。
怖かったというのもある。
今まで以上に殴られるんじゃないかって。
かといって、恋人に助けを求めるのは嫌だった。
この歪んだ関係に自分以外の他の人……それも大切な人を巻き込んで、危険な目に遭わせたく無かった。
だから、私は宙ぶらりんになった。
あの人と同棲を続けながら、今の彼と付き合う。
そんな変な関係が出来上がってしまった。
今の私を蝕む、この地獄のような苦しみは……そうやってそこから始まった。