絶望者の王国
女王は入ってきた三人に対し、いかにも君主らしい一瞥を投げた。少女達は慎ましやかに目を伏せた。
「絶望した者よ」
女王が厳かに口を開いた。口調は荘厳だった。
「この者達のいずれかと結婚し、わらわの王国で安住するがいい」
女王は、私を連れてきた二人の少女を指した。目が合うと少女は顔を赤らめ、微笑んだ。私の心を揺るがせるにたる清潔な笑いだった。
「お言葉の意味がよく分かりかねます」
女王は冷たい眼差しで、じっと私の顔を覗き込んだ。
「わらわの侍女の一人と結婚し、わらわの王国で暮らせ、と言ったのだ」
女王は一語一語はっきりと区切りながら、ゆっくりと話した。
「お言葉ですが、女王陛下。私には心に決めた人がいます」
どこの国の女王なのか、そもそも本当に女王なのか証明するものは何もなかったが、女王の威厳は本物であることを私に教えていた。女王に敬意を払うことは忘れなかったが、主張すべきことは主張した。羅美に嫌われたとしても、他の人と結婚することは考えられなかった。
「そなたはその恋に破れ、わらわの絶望者の王国Kingdom of the Despairに辿り着いたのであろう」
哀れむような、宥めるような、不思議な口調だった。ぶつかりあった二人の視線がどれくらい長い間、そこに凝固していたのか、私には思い出せない。女王の目からは、どこか悲しげな輝きがゆっくりと広がっていった。やがて女王は黒くて美しい瞳を閉じて溜め息をつき、再び目を開いた。
「仕方がない。森の小屋を与える故、そこに一人で住むがいい。今日はもう下がって宜しい」
許可を与える形での命令であった。こうして私は絶望者の王国の森にある小さな小屋に住むことになった。
私は二人の少女に案内されて森に入り、小屋に着いた。小屋の中は、目に見えない守護神が新たに迎える住人の必要や望みを察していたかのように全ての用意が整えられていた。棚の上には飲み物、花瓶には花がいけてあった。この世界の衣服も用意されていた。
私は花の香りを吸いながら腰を下ろした。お茶は湯呑みに注ぐと、爽やかな香りを含んだ湯気をあげる。喉を流れ落ちると共に疲れが抜けていった。
静かであった。喧騒に溢れた都会の夜と違い、ここの夜は原始の静寂に満ちている。木々から放出される葉緑素の海を精霊達が密やかに泳ぎまわっているように思われる。夜空には星が瞬いている。そのうち、一つの星が細くなったかと思うとスーッと弧を描くように流れていった。そのような星の数が増えてきて、ポッと現れたかと思うと、スーッと流れていく。光の雨が降っているようであった。感動的である。
横になった私は深い夢想に落ちていき、そのまま寝てしまった。翌日、私は質素な自室でひんやりとした朝を迎えた。木造の小屋は薄暗く湿っていた。
私は小屋の外に出て周囲を見回した。ここでは色とりどりの草花が生い茂っていた。都会生活に疲れた心身を柔らかく包んでくれるような穏やかな自然に囲まれていた。しっとりした新鮮な空気を胸いっぱい吸い込むと、びっくりするほど多種多様な香りが鼻腔をくすぐる。ありとあらゆる香水と料理用ハーブを一つ残らず混ぜ合わせたような複雑な香りである。
ここには食用となる草や木の実も豊富である。これは二人の少女から教えてもらったことである。私は草や木の実を食べて生命をつないだ。ミカンはジューシーで風味豊かな品のある甘さがあった。果実本来の味と香りを味わえた。
私は二人の少女からスイカの種をもらい、スイカの栽培を始めた。スイカの種を植えたところ、発芽して双葉になった。ここまでは順調であったが、他の植物に比べてスイカだけは元気がない。他の植物は太陽に向かって真っ直ぐ伸びているが、スイカはヘニャとしていた。
どうしたものかと悩んでいたが、調べるうちに問題ないことが判明した。そもそもスイカは地面を這うように蔓を伸ばして育つものである。だから他の植物のように丈夫な茎がなくても問題ない。
スイカを育てる場合、間引きが重要になる。蔓が延びたら、数本を残して他のものは切断する。実ができたら、形の悪いものや育ちの悪い実を淘汰する。もったいない感覚があるが、甘くて大きいスイカの実を得るために必要な作業である。自分で作ったスイカの味は格別なものである。
小屋には書棚があり、沢山の小説があった。不思議なことに私の趣味に合う小説ばかりであった。この世界は中世ヨーロッパ風であるが、話し言葉も読み言葉も現代日本語であった。小説に没頭することで心と頭を悩みから解放できた。飽きるほど読書する夢のような生活である。
私は現代でも気を紛らわすために読書していた。何らかの不安を抱えている。しかし、何かアクションをすれば、その不安が解消されるというものではないということがある。そのような場合に読書が良い。私は特に漫画が入り込みやすい。小説では歴史小説やSFが現実社会と離れるために向いている。ファンタジーは逆に離れすぎて作品に没入しにくいことがある。
人によっては読書の代わりにテレビや映画が解決策になるだろう。そのような人の方が多いかもしれない。私にとって映像を観ることは受動的過ぎて世界に入り込みにくい。自分のペースで読み進める主体性が読書の良さである。
時には散歩した。森の中を一歩ずつ味わい楽しみながら歩いた。鳴き声から鳥の種類を推測した。近くには温泉があった。ミネラルが豊富な天然温泉に浸かると、デトックス効果がある。お湯に浸かりながら、腕や体をこすると、スベスベ感が気持ち良い。温泉は心の栄養である。温泉に入ると、服を着た後も体がポカポカする。温泉がなければ、この世界は殺伐としたものになるだろう。
文明人が前近代社会の生活にナイーブな憧れを持つことはあるが、毎日お風呂に入れない生活は耐えられそうにない。私は現実世界では帰宅するとまず入力し、俗世の塵を洗い落としていた。そうしなければ不潔感を拭い去ることができなかった。ここの生活は一日に何度も温泉に入ることができる。読書をして温泉に入ってと気楽な生活を送ることができた。