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激怒

羅美は怒っていた。聖母のような表情を険しく一変させていた。彼女は誰もが思わず二度見してしまい、そのあとポカンと見とれてしまうような黒髪の美人であった。しかし、舞踏場のその他大勢のような整いすぎた作り物的美人ではなく、人間味を感じさせる美人であった。人当たりが良く、魅力的で誰からも愛される女性であった。だからこそ今の彼女があった。


その羅美が怒っていた。容貌が秀麗なだけに一度殺気を帯びると、表情は凄絶なものになる。怒気の顕わになった眼光は、ナイフより鋭く心の奥まで刺し通す。雷さえ尻尾を巻いて逃げ出し、軟弱な人ならば簡単に打ち据えられてしまうだろう。魂さえ持っていかれかねない。


「ふくれ面をするものじゃない。折角の美貌が形無しだよ」


しかし、一旦、怒りに強張った頬は容易には元に戻らなかった。最初、私は事態の重大性を認識しておらず、すさまじい圧迫感に耐えつつも、気楽に流していた。それでも唇を笑う形に動かすのにかなりの努力が必要だった。


「満月も敵わない、貴女の美しさが損なわれてしまう」


そのように言ったものの、どのような表情であっても羅美は美しかった。生気に満ち、怒りをたたえ、負けん気を溢れさせた羅美の何という美しさ。意地悪な表情をしていても、つい見とれてしまうほど美しい。私は羅美の目をじっと見つめながら、ありとあらゆる無言の言葉を連ねて情熱的に訴えた。この惑星で羅美以上に魅力的な女性は一人もいないと。


「それで、あなたは高潔な人物になるってわけ?それとも卑劣な人間になっちゃうのかしら」


羅美の声は蜜のようであった。しかし、その蜜は蜂の針を含んでいた。


「そうやって羅美は私に火をつけるんだ、愛しい人」


「そしてあなたは私の怒りに火をつけるのよ」


「今日の羅美は本当に美しいよ」


「毎日聞いているわ」


「それは君が毎日美しいからだよ」


「お世辞ばっかり」


「私達、こうして話しているのは何故だ。羅美は何を言いたいの。私は羅美の言ったどっちにもならないよ。私が何かを言うのは私がこういう人間だからさ」


私は立ち上がって羅美に歩み寄り、肩に手を置いた。私は香水の知識に長けているわけではないが、羅美の香水はテレビで謎めいたコマーシャルをしているエキゾチックな香りのものに違いないと検討をつけた。


羅美は、私の手を振り払ってしまった。


「もし羅美がありのままの私を好きでなくなったのならば、これは大変な問題だよ」


私は穏やかな声を出すように努めた。


「私はありのままの羅美が好きだ。羅美の考え方も行動も好きだ。私は羅美を愛している。愛する人を好きになるのはいいことだよ」


「……」


「ああ、胸が張り裂けそうだ」


「私が裂きたいものは、あなたの胸じゃありません」


「そう怒るな。怒らないでくれ」


「最低」


愚弄する言葉以上に残酷なものは羅美の美しさであった。


「そうさ。でも貴女は私を愛している」


「さあね」


「何が悪かった。私ら、相性が悪かったか。好きな映画が違ったから?君の好みが中華で私の好みが和食だったからか?何なんだ、一体?」


羅美は何か言いかけたが、無理に口をつぐんだ。そして、「その手には乗らないわ」とでも言うように顔をしかめて首を振った。


「羅美、私は君に話している」


「あら、それは失礼」


羅美はキッと振り向いて言い返した。


「私はあなたの召使いではないのよ。返事しろと命令されるいわれはないわ」


羅美は本気であった。苛烈なエネルギーが秀麗な表情を打ち消すように噴出し、美しい唇は、わなわなと震え、言葉の矢が次々と繰り出される。あの上品で落ち着いた羅美からは想像もつかない不敬語が美しい口から次々と飛び出す。矢は一ミリグラムの容赦もなく、私の心の奥底に突き刺さり、胸をかきむしる。


私は呆然とした。空気が音を立てて氷結したような気がした。砲兵の射撃のように正確に計算された猛攻に打ちひしがれた。今や答えるすべを知らず、頭がまるで働かなくなっていた。そして私が最も恐れていた言葉が遂に発せられた。


「出ていけ!」


音楽的なまでの美声は、この場合、落雷に等しかった。どうしてこんなに美しい唇から、これほど残酷な言葉が出されるのか不思議であったが、考えている余裕はなかった。私はすぐに羅美の足元にひれ伏して、叫んだ。


「許してください」


声は裏返り、涙声の哀願に近かった。そのような自分を卑しいとは思わなかった。自己の非を認めて相手の前に跪くなら、それは卑しい真似ではありえない。


「羅美は私の唯一の慰め、たった一つの憩いなのです」


私は最早懇願しているだけではなかった。泣いていた。その目には苦悩と恐怖が浮かんでいた。


「頼むよ」


私は繰り返した。


「すまないと思っている。それだけは分かって欲しい」


「当然よ」


「うん。本当に悪かった」


それでも羅美はいつものように笑って許してくれなかった。私の惨めな狼狽など気にもとめなかった。私は出て行きたくなかったが、何を言うべきか分からなかった。適当な言葉を探してみても何も思いつかない。


「本当に出て行って欲しいの?」


「だめよ」


「でも……」


「考え直すことはないよ。あなたに出て行って欲しいの」


羅美は私を引きずって家から追い出してしまった。二人の愛の巣から。



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