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短編

伯爵令嬢の苦悩

作者: 夕鈴

伯爵令嬢のライラには8歳の時に決められた婚約者がいる。

婚約者の伯爵家嫡男のトナーの趣味は婚約破棄。


ライラは婚約してから定期的にトナーと一緒にお茶を飲んでいた。共に出かけることもあり、喧嘩も一度もしたことがない。はたから見れば仲睦まじく過ごしていた。


トナーの趣味を知ったのは9歳の時だった。


「僕はライラに相応しくないから婚約破棄してほしい」


ライラは眉を下げ、小さな声で言われた言葉にため息を我慢した。

嫡男のトナーに嫁ぐライラが相応しくないのはわかるが、立場的に逆はない。嫡男に嫁ぐのは令嬢の憧れである。そして伯爵令嬢のライラの世界には嫁ぐという選択肢しか存在しなかった。おどおどと自分を見つめるトナーを眺めカップに手を伸ばしてお茶を口に運ぶ。ほのかに頬を染めて唇を結んで何も言わないトナーを見ながらゆっくりと口を開いた。


「でしたら相応しくなるように努力なさいませ」

「わかった」


不安そうな顔が嘘のように満足そうに笑いお茶を飲もうとするトナーに首を傾げながらライラはお茶のお代わりを用意させた。婚約破棄を願うのに上機嫌で自分の側にいるトナー。翌日も上機嫌で会いに来たトナーにライラは意味がわからなかったが気にしないことにした。



二度目は10歳の時だった。


「僕は好きな人ができたんだ。だから婚約破棄したい」

「トナー様、私は礼節を守っていただければ愛人を迎えてかまいません」

「そっか」


はにかみながら婚約破棄を告げるトナーはいつも嬉しそうに笑って帰っていく。

ライラはトナーの意味のわからない行動にため息を呑み込む。そしてトナーがいなくなると長いため息をつく。

それからもトナーとライラは変わらずに過ごしていた。そして何度もトナーから婚約破棄してほしいと言われる日々が続き片手の数を超えた時点でライラは婚約破棄が趣味なのかと結論を出した。


ライラは伯爵令嬢として厳しい教育を受けながらどんな時も婚約者としての役割を果たしてきた。そんなライラが魔がさしたのは11歳の時だった。


「ライラ」


ライラは婚約者として頼りないトナーの世話を甲斐甲斐しくやいていた。弱った目で言いづらそうに言われる言葉はわかっていた。ライラは理由を聞くのさえも面倒だった。


「トナー様、婚約破棄したいなら書類を用意してください」

「わかった」


そしてまた嬉しそうに笑い帰っていくトナーの背中を見送った。婚約はトナーとライラだけの問題ではないのでライラは両親に相談することにした。


「トナー様が婚約破棄を希望されたら承諾してもいいですか?」

「どうしたんだい?」

「もう疲れました。トナー様より利のある縁談相手を見つければ、お許しいただけますか?」

「トナーも本気じゃないだろう」

「興味ありません。ですが、私はできれば望まれて嫁ぎたいと思います」


トナーの趣味は伯爵夫妻も知っていた。トナーとライラははたから見れば仲睦まじい。定期訪問をトナーが断ることは一度もなく年々逢瀬の数は増えていた。トナーが婚約破棄を望んでいるようには見えなかったが、ライラの無関心な顔を見れば伯爵の答えは一つだった。


「ライラの目は信じているよ。学園を卒業するまでには新しいご縁を見つけてくるんだよ」

「かしこまりました」


昔からライラは婚約は伯爵の命に従うと言っていたため領地も近く善良そうな伯爵家嫡男を選んだ。

利益の大きい縁談ではないので伯爵は当事者同士が納得をするなら破棄してもいいと思っている。

そして愛娘が自分で動きたいと初めて言ったので迷うことなく好きにさせることにした。

ライラは来年貴族子女の出会いの場である学園に入学を控えている。どこであっても優秀な娘なら家に利のある決断をすると信じていた。


ライラは伯爵から了承を得たので笑みを浮かべて退室した。それでもトナーとライラの関係は変わらない。

ライラは学園に入学した。場所が変わっただけで相変わらずトナーの世話をやき、時々友人との談笑を楽しみながら過ごしていた。


放課後に図書室でトナーと待ち合わせをしていたライラは不安そうな顔で見つめて、恐る恐る口を開こうとするトナーの様子に察した。ライラも暇ではなくトナーの趣味に付き合うのは面倒だった。


「ライラ、あの」

「わかりました。書類を出してください」

「え?」

「貴方の望みを叶えましょう」


ライラは固まっているトナーの持っていた婚約破棄の書類を強引に手に取り、スラスラとサインをして荷物を片付けて礼をして立ち去った。

トナーはライラの風のように早く迷いもない行動に目を丸くして驚いた。机の上にはライラのサインがされた書類が置かれていた。


ライラは父にトナーと婚約破棄したことを手紙で送った。書類にサインはしてあるので、手続きはトナーが勝手にすると思っていた。トナーの希望なのでそれくらいはライラが手伝わなくてもできるだろうと思い図書室から借りてきた本に手を伸ばした。


***


レベアはいつも放課後は婚約者の世話をしている友人が自分の隣にいることに首を傾げた。


「ライラ、トナー様のところに行かなくていいの?」

「うん。婚約破棄したからもういいの」

「え?」

「ずっと婚約破棄してほしいって言われてたの。説得するよりも新しい婚約者を探したほうがいいでしょ?」

「あんなに甲斐甲斐しく世話をやいていたのに、あっさりしすぎてない?」

「婚約者の世話をするのは当然よ。念願の婚約破棄ができて喜んでるんじゃないの。もうどうでもいいわ」


ライラは切り替えの早い人間だった。そしてライラの世界には白と黒しかない。

レベアの目にはライラ達は相思相愛の婚約者に見えていた。ライラからトナーの悪口を聞いたことは一度もない。美人で優秀なライラに冴えないトナーが不釣り合いと言われても笑顔で首を横に振る。ライラはトナーの欠点さえも好きで何も不満を持ってないとレベアは思っていた。

婚約破棄したにしてはライラに傷ついた様子はない。美味しそうにお茶を飲んでいる友人が傷ついていないなら詳しく聞くのはやめて気にしないことにした。それでもレベアはどんな理由があれ、あんなに友人に尽くされていたのに婚約破棄を願い出るトナーなんて不幸になれと心の中で願いながらお茶の誘いを笑顔で受けた。



***



レベアの願いは天に届いていた。

セオリは明らかに落ち込んでいる友人のトナーにどうしたらいいかわからなかった。いつも落ち込むトナーを励ますライラの姿もない。思い返せばここ数日はライラがトナーを訪ねていなかった。


「トナー、大丈夫か?」


席に座ったまま何度声をかけてもトナーは反応しない。


「ライラ嬢は、」


放課後は一緒に宿題をして、夕食を共にするのがトナーとライラの日課だった。トナーはセオリの言葉に顔を上げ教室をキョロキョロと見渡し情けない顔のまま下を向いた。


「ライラ……」


「喧嘩したのか?」


「ライラが婚約破棄するって」


トナーの呟きにセオリは驚いた。

ライラとトナーは仲が良く言い争う姿を見たことはない。ライラはいつも笑顔でトナーの世話をしていた。どんなことがあっても「仕方ないわ」と苦笑するだけで、弱気なトナーをいつも優しく慰めていた。ライラがトナーに怒る姿は想像もつかなかった。


「何したんだ?」

「僕の願いを叶えるって」

「は?」

「今までいつも断ってくれてたのに」


セオリはトナーの言葉に首を傾げる。


「お前が婚約破棄したいって言ったのか?」

「うん。婚約破棄を申し出て、お互いの気持ちを確認するんでしょ?」

「は?誰から聞いた?」

「姉上」

「お前、それ何回やった?」


否定して欲しかったセオリは指を折り数え始めたトナーを殴ろうかと悩んだ。


「10回」


セオリは落ち込んでいる友人よりもライラに同情し呆れた声を出した。


「ライラ嬢が怒っても当然だ。むしろそこまで許した彼女を讃えたい」

「え?」


セオリはいつも軌道修正してくれる存在がいないので、時々訳のわからないことを言う友人にゆっくりと言葉をかけた。トナーは伯爵家嫡男なのに非常識な所があった。


「婚約破棄は縁を切るためにやることだ。愛を失った時にやるものなんだよ。婚約破棄で深まる絆なんてない。ライラ嬢はお前が自分のことを嫌いだから婚約破棄を願ったと思っているよ」


トナーの顔から血の気が引き真っ青になった。トナーはライラと婚約破棄したいなんて望んでなかった。優しいライラとずっと一緒にいたかった。いつも傍にいてくれて、自分に笑顔を向けてくれるライラが大好きだった。

セオリはトナーにかける言葉が思い当たらなかった。取り乱したトナーを落ち着かせてくれるライラはいない。呼びに行くこともできないとわかっていた。セオリは救世主が現れることを願いながら真っ青な顔で腕を枕に机に伏せっている生気の抜けていく友人に付き添った。



***


侯爵子息のマカオは図書室に一人でいる珍しい人物を見つけて声をかけた。


「ライラ、珍しいな。トナーはいいのか?」


従妹のライラは放課後はいつも婚約者のトナーと過ごしていた。


「うん。もういいの。マカオ、卒業するまでに婚約者が見つからなかったら私と結婚してくれる?」

「は?」

「籍だけいれて。好きな人がいるなら愛人にしてもいいし、正妻にできる身分なら私は病死したことにしてくれていいわ」

「トナーはどうした?」

「婚約破棄したいって言うから望み通りにしたわ。私は平民になってもいいわ。マカオと婚姻して途中で病死したことにしてもらうのも魅力的。もう色々疲れたわ」

「後始末を全部押し付ける気満々だな。叔父上が聞いたら許さないだろうな」

「婚姻に伴ううちへのマカオの家からの援助は私が稼ぐわ。いくつか考えていることがあるの。決して損はさせない」


マカオの優秀な従妹は市井に降りてもたくましく生きていけそうだった。

マカオは自信満々に笑うライラの頭を軽く叩いた。


「誰が離縁を承知で受け入れるか。婚姻するならちゃんと俺に仕えろ」

「まぁ、可能性の一つとして考えてよ。答えは早めにお願い。駄目なら次の相手を見つけないといけないから」


明らかにやる気のないライラにマカオは苦笑した。


「なんでそんなに、だらけてるんだ?」

「今までトナーの婚約者らしく気を遣っていたのよ。上位伯爵家の嫡男だもの。本人が頼りないなら、尚更私がしっかりしないとでしょ?」


トナーは伯爵家嫡男なのに頼りなく婚約者のライラが一緒にいてフォローすることで、今後も伯爵家の未来は明るいと思わせていた。ライラーは外面もよく社交も得意だった。

トナーの陰からライラが伯爵家を動かすと陰口を言われていたがライラは堂々と自分が動かす気満々だったので、笑って流していた。


「我が従妹は優秀だ」

「でしょ?私はこれで」

「一度トナーと話してみろよ」

「嫌よ。婚約破棄した男に使う時間が勿体ないわ。時間は有限よ。それに破棄したいほど煩わしい相手の顔なんて見たくないはずよ。会わない方がお互い有意義よ」

「そうか。母上が会いたいと」

「今度の休みに伺うわ。またね」


ライラは本を持ち手を振って立ち去った。従兄は口は悪いが根は優しいのできっと保険になってくれると思いながら。ライラにとってマカオは大事な存在なので、マカオのために伯母のご機嫌取りを引き受けた。ライラは懐に入れた存在には献身的な令嬢だった。 



マカオはずっとライラに話しかけようとしていた人物に気づいていた。ライラが気づいていないのか気にしてないのかはマカオにはわからない。


「トナー、生きてるか?」

「ライラが…」

「どうせ誤解があるんだろう。お前、ずっとライラが好きだったよな」

「会わない方がお互い有意義って…。僕、もうどうすればいいかわからない」

「本当に婚約破棄したのか?」

「してない。書類にサインしたのはライラだけ」


マカオは放っておいたら死にそうなトナーを慰めることにした。

マカオにとってトナーは義理の弟。マカオの兄とトナーの姉が結婚していた。

そしてトナーの不幸は愚兄夫婦が絡んでいると知って長いため息をついた。そしてライラが素でだらけていた理由も納得した。



***


ライラはマカオとの約束通りに伯母である侯爵夫人に会いにきていた。


「ライラ、久しぶりね」

「伯母様、お久しぶりです」

「トナーから貴方を借りて申しわけないわ。あの子、拗ねてなかった?」

「ええ。有意義に過ごしてますわ」


ライラは伯母の言葉に驚きを隠して微笑みながらお茶に手を伸ばした。婚約破棄のことを情報通の伯母が知らないことが意外だった。婚約破棄には準備があり父が公表してない可能性に思い当たり余計なことは言わない方がいいと判断した。微笑みを浮かべいつも通り伯母の話に相づちをうち時が過ぎるのを待つことにした。伯母の話はいつも通り嫁への苦言だった。


マカオの兄のロマンスは有名である。ライラもよく知っていた。

マカオの兄の妻は当時は名ばかりの弱小伯爵家の令嬢。二人は幼い頃に恋に落ち婚約した。ただ令嬢は侯爵家嫡男である婚約者に自分が釣り合ってないことを気にして、何度も婚約破棄を提案する。その度にマカオの兄は愛の言葉を捧げ令嬢の心を包みこむ。そして二人は絆を深め婚姻して幸せになった。貴族に伝わっている話はここまで。弱小伯爵令嬢が侯爵家に嫁いだ令嬢の憧れの成り上がりの物語である。

ただ続きがあった。

侯爵家嫡男であるマカオの兄は令嬢と一緒になるために継承権を放棄している。成人後も侯爵家で働いているが、嫡男は次男のマカオである。次男のマカオは煩わしいのを嫌がり、周囲の勘違いを利用している。あえて兄が嫡男であるように振る舞っているため侯爵をマカオが継いだ時に多くの貴族は騒然とするだろうとライラは他人事のように考えている。

今は伯爵家は事業が成功して上位伯爵家となった。事業の成功の裏で誰が動いていたのかはライラは気づいているが口にしない。運が良かったと事業の成功の秘訣を意気揚々と話す姿を笑顔を浮かべて流すだけである。

伯母をはじめ侯爵家は優秀な嫡男が選んだ令嬢なので迎え入れる努力はしていた。ただ伯爵令嬢は社交ができず、空気も読まず人の心を逆なでするという欠点があったため侯爵夫人は務まらないと失格の烙印を押されていた。

愛人や妾という案を二人は受け入れず、マカオの兄は継承権を放棄。姓を捨てようとしたのをマカオが止めた。マカオが止めなければ廃嫡で市井に降ろされた。名門侯爵家の嫡男が伯爵家に婿入りは認められなかった。利のない力もない伯爵家に嫡男を婿入りさせるなら病死のほうが世間体が良かった。


ライラは名門伯爵家令嬢である。厳しい教育も受け、王族に嫁いでも申し分ない教養を身に付けていると自負しているのでマカオさえその気になれば婚姻できる。ライラは伯父夫婦のお気に入りなので説得も簡単だった。ライラは窓の外で庭師と同じ服を着て汚れてながら花の世話をしているマカオの義姉を見て、手のかかるところは弟のトナーそっくりだと思った。

マカオの兄は優秀だったので、家よりも女性を選んだことは非常に残念だと思っている。ライラは婚約したのに身分が低い伯爵令嬢が何度も破棄を提案するのも、すぐに決意を変えるのも理解できない。そして当時から何一つ魅力を感じずうっとりと語られるロマンスに興醒めしながら社交の笑みを浮かべて頷いていた。トナーの家族にライラは社交の笑みは一度も見抜かれたことはない。


ライラは侯爵夫人と長いお茶会を終えて、学園に帰るとマカオに捕まった。


「ライラ、トナーは誤解していた」


伯母のトナーの姉への小言にずっと付き合ったライラは疲れていた。侯爵邸を訪問したときに明るかった空はすでに薄暗い。


「マカオ、もうどうでもいいわ。疲れたから休ませて」

「婚約破棄は絆を深めると思っていた」

「バカらしい。本当に興味がないの」


ライラは何を言われても興味がなかった。終わったことである。トナーのために貴重な時間を使うつもりはなかった。

マカオはライラが自分の話を一切聞く気がないと察して解放した。

寮に戻る道を歩くライラはトナーを見つけた。気にせず足を進めたかったが、男子生徒に囲まれているのを見て足を止めた。


「成り上がり貴族が」

「運が良くて、うらやましい。今日は一人なのか?」


ライラはため息をついた。トナーは気が弱い。

そして急速に成長したトナーの家を良く思わない者にやっかみを受けることが多かった。品のない笑みを浮かべている男子生徒にライラは近づいた。


「見苦しいですわ。いい加減になさいませ」

「これはライラ嬢」


自分を見る男子生徒にライラは冷笑を浮かべた。優しい顔は婚約者専用である。


「成り上がりだろうと陛下から爵位をいただいた時点で貴族にはかわりません。下位の者の無礼は許されません。礼儀をわきまえない者との交流は不要とお父様に進言しましょうか…」

「申しわけありません。それだけは」

「でしたらこれ以上、見苦しいものは」

「はい。申しわけありません」


ライラに怯えて立ち去っていく生徒を見送った。そしてライラは寮に向かい足を進めた。

トナーは助けてくれたライラが自分に視線をむけないことが悲しかった。


「ライラ、待って」


ライラは呼ばれる声にため息をついた。名前を呼ばれれば無視できず厄日と思うことにした。


「トナー様、どうされました?」


振りかえるとトナーの目からポロポロと涙が流れていた。慌ててライラは駆け寄って顔を覗き込んだ。


「どこか怪我をしたんですか?」

「ライラ」


ライラにとってトナーはよく泣く少年だった。昔のようにライラはトナーを抱きしめて軽く背中を叩いた。


「怖かったんですね。もう大丈夫ですよ。貴方に危害を加える方はいません。ですから安心してください」

「ごめん。僕」

「貴方が優しくて言い返せないのは知ってます。次からはお逃げください」

「ごめん。ライラ、許して」

「何も怒ってません。泣き止んでください。いつまでも子供ではいられませんよ」

「婚約破棄しないで」

「はい?」

「僕、ライラとずっと一緒にいたい。ライラがいないと駄目なんだ」

「そんなことありません。私の代わりなどいくらでもいますわ。伯爵家に嫁ぎたい令嬢はたくさんいますので今度は自分の意思でお選びください」

「ライラがいい。お願いだから」


ライラは意味がわからなかった。トナーは男子生徒に絡まれて怖がって泣いていると思っていた。


「トナー様、念願が叶いましたのに何を言ってるんですか」

「僕はライラが婚約破棄したくないって言ってくれるのが嬉しくて、本当に破棄しようとするなんて思ってなくて」


ライラにとって理解不能な言葉が聞こえていた。トナーの考えには興味はないのでライラは大事な事実だけ確認をすることにした。


「破棄の書類どうしたんですか?」

「持ってる。サインしてない」


ライラは頭が痛くなってきた。婚約破棄の書類には有効期限がある。ライラはサインと日付を記入していた。

サインをして一月以内に提出しなければいけなかった。婚約破棄できていなかった。

父が何も動いていない理由もよくわかった。目の前にいるのは自分の婚約者。破棄した男ではない。そうすると事情が変わりライラはため息をこぼした。


「トナー様、もう少しよく考えて動いてください」

「ごめん」

「次があれば、本当に破棄しますよ」

「え?」

「よろしいですか?」

「ライラ」


ライラは自分の肩でさらに号泣する婚約者にどうすればいいかわからなかった。


「トナー様、泣き止んでください。人前で泣くものではありません」

「うん」


ライラは顔をあげたトナーの濡れた頬をハンカチで拭いた。


「ではお部屋で休んでください」

「え?」

「そのお顔で外を歩くのはいけません。目元を冷やしてお休みください」

「うん」


トナーと別れて寮に戻るとライラはニヤニヤしたレベアに迎えられた。


「ライラ、庭園で抱き合ってたんだって?」

「泣き止ませようとしただけ。本当に手がかかるわ。あれで将来伯爵になるなんて不安しかない」

「ライラはしっかりした人が好きって言ってみれば?頑張るんじゃないの?」

「私、好きとかよくわからない」

「なんでトナー様を抱きしめたのよ」

「泣いてたらあやすでしょ?昔からの習慣よ」


レベアはライラがトナーを誰よりも大事にしているのは知っていた。

トナーは苦労すればいいかと思い直して疲れた顔をしているライラとのお茶を楽しむことにした。レベアは珍しく疲労困憊の友人を労わることにした。


***


セオリは目を腫らしているのに嬉しそうな顔のトナーを見て驚愕した。



「トナー、お前どうしたんだよ」

「ライラが許してくれるって。もう次はないって」

「泣いて頼んだのかよ?」

「うん」

「トナー、それ情けないからな。ライラ嬢の心の広さに感服するわ」

「ライラは優しい」


上機嫌で笑う友人が色んな意味で心配だった。


「お前、このままだと一生男として見られないぞ」

「駄目なの?」

「もしライラ嬢に好きな男ができたらどうするんだよ」

「え?」

「婚約してるからって本当に結婚できるかはわからない。結婚したあとにうまくいくかもな。好きな女の前では格好よく見られたい、守りたいと思うものだろうが。もう少し頑張らないと本当に誰かに盗られるぜ」

「やだ。でも頼りない方が放っておけなくていいんじゃ」


セオリは気付いていた。トナーの非常識の陰には姉の存在があることを。


「お前の姉の意見は非常識だ。女なら百歩譲って許される。ただ男はない」

「強くて頼りになる方が好かれるのか…」


トナーはライラにとって頼りになる男を目指そうと決めた。


***


ライラは恐ろしい話を聞いて庭園の池に駆けこんだ。

案の定、池の中にトナーがいた。


「トナー様、何してるんですか!?」

「魚を獲ろうと」

「上がってください、早く!!」


ライラに睨まれてゆっくりと池から上がったトナーをライラはハンカチで拭く。


「学園の魚は獲ってはいけません。なんでそんなことしたんですか!?」

「頼りになる男になろうと」

「は?」

「魚を素手で取れたら頼りになるって」

「聞いたことありません」

「姉上が」


ライラの中で何かが切れる音がした。トナーの姉はライラにとって非常識の塊である。婚姻したらあれが義姉とかやめてほしいと本気で思った。


「トナー様、今度貴方のお姉様の言葉に従ったら婚約破棄します。私、非常識な人間って嫌いなの」


ライラは茫然とするトナーを置いて立ち去った。

トナーとの婚約はなんとも思っていなかった。ただもしかして本気で破棄した方がいいかもしれないとライラは思い始めた。


「ライラ、待って」

「早く寮に帰って着替えてください。風邪を引きます」


トナーの努力は空回りばかりしていた。ライラは本気でマカオに嫁ごうかと思ったが、それでもトナーの姉とは縁が切れないことに気付いた。最近はレベアの弟でも紹介してもらおうかとライラは悩んでいた。

ライラは放っておいても、トナーが一人で宿題をすることに気付いたので放課後トナーに会いにいくのはやめた。ただトナーがライラを追いかけるので結局一緒に過ごすことは変わらなかった。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 本来の貴族間の婚姻は狭く限られた世界で育成されるのでこんな感じなんだろうな~と思いました。 それでもライラ嬢は自分の未来をなんとか探そうと動いていて好感が持てました。 [気になる点] マカ…
[一言] トナーの姉、トナーにもライラにも嫁ぎ先の実家にも害にしかならないようですね。結婚すればいずれはトナーが当主になるですが、このままいけば姉に唆されて家レベルでもっとひどい事になりそう。ライラは…
[気になる点] ヘタレな可愛い男子は好きなのですが・・・。 トナーくんが好きなのはライラではなくお姉さんですね。 ライラの話は全く聞かないのに、姉の言うことばかりを聞きますし、ライラは他の婚約者を探…
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