第71話「夕暮れのピーチ」
蘭子と別れた僕らは、電車を降りて帰路につく。
何がどうなっているのか。相変わらず咲姫は蘭子に構ってばかりで……その蘭子も困り顔だったけど。僕も無視されるわけでは無かったけれど……。咲姫を振り向かせたくて頑張っているけれど、ずっとこんな調子が続くのはなんだか嫌だなぁと、心の中でムズムズしていた。
部室でのカーテン事件の後なら尚更だ。彼女の蘭子への構いっぷりは、目に余るというか……もはや違和感があるなと、咲姫の様子を伺ってあれこれ考えてみる。
「蘭子をどうしたいの?」
「どうもなにも、仲良く、なりたいだけよぉ?」
「ふーん」
最初は仲良くしたがらなかったのになぁ。その言葉の裏に何が隠れているのだろうかと、つい素っ気なく返事をしてしまう。そんな僕を見て咲姫は微笑みを向ける。
「どうしたの? 百合ちゃん。せっかくの王子さまスマイルが消えちゃってるよぉ~?」
「ああ、僕はずっと"王子"なのね……」
「そうよぉ~? わたしと一緒にいる限りは王子さまをやってもらわないと」
「ずっとはないでしょー」
咲姫の肩をとーんと揺らす。咲姫も「えへへぇ」と顔をほころばせる。
でもそれで、"王子さま"という単語で。せっかく意識しないようにしていた部室での出来事が、ありありと脳裏に蘇ってしまった。
確かに、キザな先手を打ったのは僕からだ。彼女の気を引きたくて。でも、その後のあれは……。この迷いは解決したほうがいいのだろうか。
と思っていれば、咲姫が口を開く。
「ねぇ、夕方って……特別な匂いがしない?」
「に、匂い?」
「そうよぉ? 特別な……ね?」
僕の顔にグッと近付いて言う彼女。絹のように滑らかで暖かな指先が伸びてきて、僕のうなじをそろりと撫でる。ふわりとまた、桃の香り。先ほどのカーテン裏での出来事を思い出してしまう。
何にも考えられないでいると、彼女の唇が僕の口元にそっと近付いてきて、十センチ手前ほどで止まる。
つい、恥ずかしくなって目を逸らす。その視線の先。夕方の密な空気に溶け込んで、僕らの重なった影が静かに燃えていた。
斜めに伸びた僕たちは、まるで恋人たちが口付けているようで、幻想的な情景。ゆらゆらと燃えているのは影だけではなくて。
もう一度、僕は目を向け直す。少し前に出ればキスしてしまうような近さは変わらない。視線がぶつかって絡み合う。
恋人同士が初めて口づけを交わす瞬間は、このような曖昧な距離感とぎこちなさで見つめ合うのかもしれないなんて、思ってしまった。
それは甘酸っぱいはずなのに、優しい橙色のデッサン画みたいな、暖かな一枚絵として焼き付いていく。脳裏の全てが彼女で埋め尽くされていく。
「この距離は、わたしだけの特等席よね……?」
「え……ああ……」
突然の質問に曖昧な返事をしてしまった。それを見て、少し膨れる彼女。
今……すべきタイミングなのだろうか。
でも、ここでまたキスするのは違うと気がして。それよりも、それよりもだ。先ほどの部室での出来事を咲姫がどう思っているのか、そこをはっきりさせておかないと。百合ハーレムから遠ざかってしまうような不安に駆られて落ち着かない。両想い確定で彼女とのカップリングが公となってはいけない。夕日のせいか、はたまた恥ずかしさのせいかわからない高揚感のまま、僕は頭を働かせる。
「さっきさ。部室出る前に……。僕に何かしなかった?」
単刀直入に訊く僕。近かった彼女は少し距離を取って、白妙の綺麗な指を唇に添えて考える素振り。多分本人も分かっててやっているなぁとは思うけれど。
少しの緊張感が吹き抜ける。そうして、唇を結ぶ僕に反して、咲姫は微笑み口を開く。
「変わったことは何もしてないわよぉ?」
「そっかー。何もしてないのかー」
って納得するわけ無いじゃん! 咲姫以外に近くに居ないのに、唇に指でも頬とかでもない感触なんて……。どういうわけか、桃の味までしたし……ああ、思い出したらなんだか頭が沸騰しそうだ。
思い返してカァッと体温が上がる自分に恥じていると、そんな僕の様子を見てやはり嬉しそうに。
「んふふっ」
「な、なに……」
「いやぁ~? なんでもぉ~?」
もてあそばれてるんじゃないのこれ……。
「ねえ、答え……。教えてあげよっか?」
「答え……?」
ふいに耳元で囁かれゴクリと喉を鳴らす。駄目だ、答えは分かっているのに、動揺しているのがバレバレだ。
僕の顔色を伺うように彼女は下から覗き込む。
何度も何度も思わせぶりに唇を薄く開いて。その度に僕の顔が強ばるものだから、その都度彼女はニヤけて。あざ笑うように何度か繰り返されて。
ようやく、僕がふぅっとため息をついたところ、彼女はふふっと笑って。
「わたしは百合ちゃんにちゅ~しちゃったのでしたぁ~」
「あっ、えっ……、や、やっぱり?」
「そうよぉ~? びっくりした?」
「色んな意味でびっくりだよ……」
やっとの答え合わせ。ひと息つけたとばかりに身体を弛緩させる僕。やはり遊ばれていたみたいで、僕の様子を見ながら咲姫は楽しそうである。
「どう思ったぁ?」
「まあ、女子校だし、女子同士のキスも普通にあるかなって」
「そっかぁ~」
妙な納得の相づち。
「でも、百合ちゃん。キス初めてなんでしょ?」
「さ、咲姫は……?」
まずい、今否定すればよかった。どもったのが余計に初めてだと裏付けるじゃないか。これじゃあまるで童貞丸出しだ。いや、レズ的には童貞なんだけど。
僕の訊ねにすぐ返事は来ない。またしても、グッと顔色を変えて、溜め込んでから、
「ひみつっ」
なんて。唇に指を当て、妖艶に微笑むのだ。
「盛り上がってたのに、百合ちゃんはしてくれないみたいだったからぁつい、わたしからしちゃった……っ。"王子様"は最後まで演じてくれないとぉ~」
そうして、てへっなんて可愛らしく。恥ずかしそうにしてるけど、この子結構、したたかだぞ……?
耳まで熱くなる思いで、彼女の一挙一動を見ていると、ニマニマと咲姫。
「百合ちゃん意識しちゃってるぅ~」
「い、意識してないっ。ちょっと……驚いただけっ!」
「でも女同士だったら……普通なんでしょ?」
「そ、そうだよ……」
そうだ。普通……普通なのだ。なのに、なんでこんなにもドキドキさせられるのか。唇に残ってなんかいないはずのピーチ味が、ざわざわと問いを発し続けていて。心を摘ままれるような気持ちで彼女を見つめるしかなかった。
「そう、変なことは何もしてない。ただ、ちょっぴりトクベツなだけ……」
続ける彼女。そうだ、ただファーストキスを交わしただけじゃない。
夕焼けに染まるカーテンの裏。視界を奪われているうちのピーチ味。みんなには内緒の一瞬。
あの情景は、あのキスは……あまりにも特別だったのだ。
「あなたの初めては、わたしがもらったから」
「い、意味深な言い方するなぁ」
「でも本当のことでしょ? "友だち"であったとしても……」
そこで彼女は一呼吸。真剣な瞳で僕をしっかりと見据えて、次を告げる。
「これの意味、覚えておいてね?」




