第69話「カーテンの向こう側」
わいわいと騒ぎながらカレーを食べ終わって、時間がないと焦りながら片付けたのなんて、遠く別の日の出来事だったみたい。そんな心地よい脱力感。まるで休息のひとときを味わえるほどに、放課後の部室は穏やかな静けさをまとっていた。
一方で、口移しハイチューを迫ってきた仄香は怖いくらいにいつも通りだ。いつの間にやら僕のことを好きになってくれたのか。出会った当初からそのケのあったレズッ子だから分からないけど、もし好意があるなら嬉しいものだ。
部室では音楽を掛けるのが当たり前になったのか、部室で見つけた例のスピーカーで仄香がどこかで聴いたことのあるロックを流していた。頭に残るメロディーラインのお陰で、眠くなるようでも気まずくなる空気でも無い。明るいアップテンポで聞きやすい曲調が多いからかだろう。実は仄香なりに僕と気まずくならないように気を使っているのかもしれない。おそらく、彼女にとってもこのメンバーでの空間が大事なのだ。
そんな僕らは何をしているかというと、蘭子だけは図書委員での担当で不在。仄香と譲羽は先週からちまちま撮りだしたカメラの写真データをパソコンでチェックしている。案外、校内の写真とか僕らがワイワイやってる写真とか溜まってきているみたい。
使ったことのない専門のソフトウェアを、直感任せに教えたものだけど、譲羽はちゃんと理解してくれたみたいだ。トイレから帰ってきても、仄香と並んで自分たちで撮った写真を整理していた。
そうやって夢中になっている二人とは別に、咲姫は窓から顔を出し、夕日が薄ら雲をまといぼんやりと滲み始める空を、一人眺めていたという具合であった。アンニュイ? センチメンタル? どんなに暗い顔でもサマになるから、美少女はちょっとズルいもの。
「さーきっ」
「なぁに? 百合ちゃん」
その声はどこか元気が無い――というか無気力? カレー食べさせ合いの件があったから、嫉妬でもされてるかと思ったけど、違うのだろうか。それとも仄香との件だろうか……。
しかし、怒っていようとそうでなくとも、ここでフォローのひとつでもしておきたいなと。僕もその横に立ち、窓から顔を出して夕方の空気に身をさらす。
「風、気持ちいいね」
「……そうね」
ワンテンポ遅れる返事はやはり素っ気ない。でも、一度僕を見やったその目は、何か考え事をしていてどこか迷っているように見えた。どうにも僕に焦点が合ってくれない。そんな彼女を眺める僕。
「そういえば、ポニーテールはほどいちゃったんだ」
「ポニーテールの咲姫もかわいかったのになぁ」と僕がしみじみ呟けば、「そ、そう?」と不意打ちを食らったように照れる彼女。
「髪型少しずつ変えてるんだね。どれも咲姫に似合っててかわいくていいよ」
「見て……くれてたの」
「そりゃあそうだよー。だってこんなにかわいいんだから」
「そ、そうよぉ、わたしはかわいいんだから」
咲姫の手を握って瞳を見つめて。彼女の様子を伺いながら首をかしげ微笑んでみると、照れくさくなったのか、頬を赤らめぷいとそっぽを向く。前は前ですぐデレッデレになったものだけれど、これはこれ。新鮮で可愛いなぁ。
僕が他の娘とイチャイチャしてたからふてくされてるのか、ただアンニュイなだけなのか分からない。けれど、相変わらず褒められるのが満更でもなく照れちゃう、というのが彼女の魅力のひとつだ。
春の横風をあびながら。髪を押さえる彼女の心を少しでも僕に向けられることは出来ただろうか。
でも、これだけじゃあ足りないなと、彼女の気を引く話題を脳内で練り上げる。
「今日はありがとね」
「ん……ん~? なにがぁ?」
突然変わる僕の切り出しにふとこちらに向く咲姫。頬がほんのりと赤いのは、僕を意識している証拠で良いはずだ。
「だって、テキパキ料理を進めてくれたからね。咲姫が居なかったら終わらなかったもしれないよ」
「そんなぁ。それなら百合ちゃんだって……」
「でも実際、包丁さばきはこなれてて丁寧だし、料理上手でしょ。咲姫と一緒でホントに良かったぁ」
「……ホントに、そんな風に思ってくれてるの?」
言うと、僕の瞳の奥を見据えるように視線を投げ返す咲姫。うん? おだてゼリフか何かかと思われたのかな……。
「当たり前じゃん。もはやずっとそばに置いておきたい……。お嫁さんに欲しいくらいだねー、なんてっ」
「もうっ! 冗談はやめてよぉ~」
照れ隠しにポカポカと叩いてくる彼女。あぁ~この感じたまらないぞぉ~。
「ふふっ、咲姫はお嫁さんじゃなくてお姫さまだったもんね。じゃあ僕は王子さまじゃないといけないね」
「そ、そうよぉっ。ちゃんと王子さまやってよね!」
「こんな風に?」
気持ちの高ぶりか、だんだんツンデレっぽくなってきたかなと思いつつ、僕は右手を伸ばし咲姫のあごを軽くクイと上向かせる。
そして、目をパチクリとさせる咲姫の瞳を見つめて。僕は彼女の唇をそっと撫でて顔を近付けると、ボンッと音でも鳴りそうなくらいに真っ赤に紅潮しだすのである。こういう素直な反応もまたたまらない。
「ああ、やっぱり咲姫はかわいいね」
「ゆ、百合ちゃん……」
オーケストラの壮大なフィナーレで締め終わった直後のように。咲姫の吐息と自分の鼓動しか聞こえない、静まり返った二人だけの空間。夕紅をまとった風を浴びて、二人は暖かな橙色に包まれていた。
「でも駄目かな。ボクにはこのキレイな唇を奪う資格なんて無いのさ」
なんて、キザ王子を装い冗談めかして、手をそっと離してみれば、キリッとした表情をいつもの顔に戻す。
「なんてね」
「わ、わぁ~っ! ドキドキしたぁ~!」
「満足いただけた?」
「そ、そりゃあ演技でも良いには良いんだけどぉ……」
「あっ」とか「その」とか言って、前髪で顔を隠しもじもじとする彼女。繋ぐ言葉はしどろもどろで、どこか満足していないのは明らか。それでいい。もっと僕を欲すればいい。じらされるのは僕じゃなくて、君なのだ。
「しっかりしてね。咲姫ヒメさま?」
銀色になびくウェーブを払い、隠された表情を覗き込んで明かす。でも、ぷいとまた顔を隠されるものだから、諦めて今度は彼女の頬から首筋に指先を落とす。「ひゃっ」なんてビクッとする反応。よし、意識は僕に向いている。下降気味かと思っていた好感度も上々みたいだ。だけど、今日はこのまま焦らしキープで、明日以降に取っておこう。
そうしてこのくらいが潮時だと思い始めた頃、後ろからガラッと扉を開ける音。
「みんな。早く帰らないと完全下校時刻だぞ?」
「おうおうっ!? もうそんな時間かぁー!」
蘭子の呼びかけと仄香の大きな声についビクッとする。いけない。すぐ後ろには仄香たちがいるのに油断しすぎたかな。委員の仕事を終えた様子の蘭子が部室に入ってきて「何やってるんだ」などと、譲羽のいじるパソコン画面を見ていた。うん、僕らにはそんなに気を向けて居ないようだ。
「ちょっと待ってて」
僕は振り向き蘭子に返事をすると、もう一度窓の外に顔を出し、大きく息を吸う。
「最後にこの空気を吸っておきたいと思ってさ」
「そうね……」
窓から顔を出したままの咲姫に言うと、僕はまた外に顔を出そうとする。
そのとき、
「うんっ?」
びゅうと一陣の風が校舎に吹き込んで、横によけていただけのカーテンがザッと音を立てながら、僕らの背を大きく包んだ。同時に、夕日を覆っていたそぞろ雲が晴れて、強い光が僕の目に差さる。
「わっ、まぶしっ」
いけない。油断して直接見てしまった。痛みに目をやられぎゅっとつぶる。
その、大きく顔を歪めたときだった。
「いつつ……。んん……っ?」
突くような痛みに苦い想いをしていると、唇にしっとりと触れる柔らかな温もり。視界がひらけていないうちの、そのほんの一瞬の出来事が脳裏に甘く焼き付く。
「さ、咲姫?」
その感触が離れ、不思議に思い声を掛けても返答はない。横に手を伸ばしても、触れられない。痛みが引き目を開けると、ぼんやりとした暗転から徐々に光を取り戻す。でも顔の向き合ったその先には何も無く、シャンプーの香りが残っているだけで……。
「甘すっぱい?」
ほんの少しだけど、桃の味もした。




