第49話「インヴェンションとシンフォニア」
熱い戦いを繰り広げた体育の疲れが、いよいよ本格的にドッとのし掛かってきた放課後。眠たい午後の微睡みに打ち勝ち、ようやく自由な時間を迎えることが出来た。いやぁ、本当に机に頭ぶつけるかと思ったよ……。
新しい部室。そして新たに蘭子が仲間に加わったけれど、なんの躊躇いも違和感もなく、いつも集まっているみたいに部室で宿題をしていた。明日の朝に「宿題教えて~っ!」なんて泣きつかれるよりも、ここで教えておいた方が楽だという僕と咲姫の教える側の希望を、仄香と譲羽の教わる側が受け入れてくれたからだった。
「部室が使えるようになったばかりなのに、もう紅茶を用意してきてくれたんだね、ありがとう咲姫。甘い香りだけどこれはピーチティー?」
「どういたしましてぇ~。桃の香りが素敵よねぇ~。個人的な好みでオリゴ糖を入れたんだけど、どうかしら?」
「う~ん、すごく美味しいよ。強いて言うなら、もうちょっと甘さが欲しいかな。僕、甘党なんだよね」
「はいはぁ~い。じゃあ次からはそうするわねぇ~」
なんて返事をくれる。夫婦みたいなんじゃないかなぁだなんて頬を緩ませながら、一息ついて咲姫の入れてくれたピーチティーを飲む。渋みが強いけど頭がスッキリしていいなぁ。
そして、この空間のBGMは咲姫が流していた。二個のスピーカーともう一つ共に鳴る箱型のウーハースピーカーが、綺麗な高音域から重厚な低音域までカバーしていて心地良い。2.1chとかいうやつだろう。
そんな部室の片隅で箱に仕舞われていた無骨なスピーカーは、高級品とまではいかないまでも決して安物ではなさそう。もしかしたら今僕らがこうやって過ごすように、かつての部員も紅茶を飲みながらクラシックを聞いていたのかもしれない。なんだか部室の歴史を感じるなぁ……。
今かかっている曲は詳しくはないけれど、ウミネコが鳴き青空が晴れ渡る地中海沿いの町に居るように、不思議な優雅さを味わわせてもらえる曲だった。卒業生の写真部さん方には本当に感謝だ。
「バッハのインヴェンションとシンフォニアか。繰り返されるチェンバロの音が強く耳に残るのに、なぜか邪魔にならなくて勉強に集中できるな」
「ほほうほう! それはそれは、かの有名なバッハとなっ!? 西洋って感じでめっちゃオシャレじゃん! ジャジャジャジャーン!」
「こういう音楽は……心が疼ク……」
「そうなのぉ~。優雅な空間を作りたくてぇ~。バロック音楽って良いわよねぇ~」
感想を述べた蘭子に続き、仄香と譲羽も各々感じ取った事を言う。無理してウンチクを述べるような背伸びをせず、正直に思ったままを言うのは好印象だ。
ちなみに、仄香が口ずさんだジャジャジャジャーンはベートーベンの運命である。クラシックの区別が全くついてないみたいだ。まあ、仕方ないかもしれない。
かく言う僕も、インヴェンションとかさっぱりだからね。
「蘭子、クラシック詳しいんだね」
「母に昔から色々聞かされてきたからな。耳が覚えているんだ」
「そうなんだ。素敵なお母さんだね」
「……なぜそう思うんだ?」
蘭子は素朴な疑問顔。クールな見た目で子供っぽい表情を見せたりするものだから、僕はちょっぴり見とれてしまう。
「良い音楽に少しでも触れて欲しいから色々聞かせてたんじゃないかな。きっと、蘭子の感性がそうやって育てられたんだと思うよ」
「そうだろうか……。まあ、そういう所もあるかもしれないな」
頭の中で昔のことでも思い描いているのだろうか。視点を斜め上に向けて一人頷く彼女。厳しかったり大人ぶったりする蘭子だけど、実は純粋な心を持っている子なのだろう。意外と負けず嫌いだし。やはり、僕らのグループに入れて正解だ。
「でも、大半のクラシックが……退屈……。もっと激しくメロディーを奏でてくれないと……テンション上がらナイ……」
「あー、それあるかもなー。静かすぎるパートとか眠くなっちゃうよー」
「まあそれは感じる人が多いかもね」
真面目に宿題に取り組んでいた譲羽が難しい顔をして、仄香もその意見に同意する。というか、疲れてペンをカラーッンとわざとらしく投げ出した仄香につられたのか、せっかく頑張ってたのにグデッと机に突っ伏した譲羽。集中の糸が切れたのだろうか。お疲れゆずりんのご様子。
「アタシ……あんまり堅苦しいのキライ。自由なのがイイ」
「それもあるなー。自由とかロックじゃん?」
「そう……ロックでパンクでメタルなのが良い……」
「よっしゃー! そうとなれば、インヴェンなんちゃらの曲に合わせてヘドバンじゃー!」
譲羽と一緒に机にヘタレ込んだ仄香がいきなり復活してそんなことを言い出す。譲羽は目を輝かせて一緒にヘドバンしだす始末だ。机の上だからまだ穏やかだけど、ゆっさゆっさと揺れてしまう。
「あんまり馬鹿するんじゃないよ?」
「そうだ! ヘドバンは激しくなめらかに……だ!」
「短時間で力尽きてはもったいない……長く続けられるヘドバンを……」
しかし、クラシックが一定のリズムで進むとはかぎらず。変則的に切り替わったりして、リズムに乗るのがかなり難しそうだった。そんなグダグダ具合も含めて可愛い子たちである。
「難しいならやめればいいのに」
「クラシックでヘドバンする人間を初めて見るな……」
「うゆぅ~ん……優雅な空間がぁ~」
優雅に過ごしたい蘭子と咲姫は困ったように眉尻を下げる。でも口の端は柔らかく、どちらかというと苦笑いに近い感情なのだろう。早いことに、彼女らも仄香と譲羽の自由さを受け入れているみたい。




