第38話「星空と星の海」
写真部の展示も学校祭の劇も、そして僕らのバンドも準備がしっかりと仕上がってきたように思えた、本番一週間切ったころ。
展示内容も大丈夫。劇の練習も、あとはみんなの呼吸を合わせるだけだから、もう一人で根を詰めて練習する必要はないだろうと、家事を終えた夜の一息タイム。
ライムグループのメッセージで、明日月曜日の練習を確認しようとしたけれど、譲羽だけが返事が無かった。スマホ大好きっ子だから、気付かない事は少ないと思うんだけど。
『仄香、なにか知ってる?』
『知ってるというかー。なんか、金曜おうちに帰っちゃったんだよねー。それっきりでさー。具合悪いのかなー。ちょい心配ー』
『そっか。僕から連絡取ってみるよ』
通話の向こうの仄香はあまり焦る様子は無かった。確かに、譲羽は体調を悪くしがちだから、そんなに重くは捉えていないのかもしれない。いつも通りの体調不良。いつも通りの心配。
でも、なんだか心配だ……。学校でも練習中でも、不安そうにしていたから。
※ ※ ※
譲羽へメッセージを飛ばしても通話を試みても、返事は無かった。残ったのはただの寂しい僕のため息だけ。
ふと浮かんだのは、譲羽のリストカット事件だった。一度でも崩れた精神。そんなにすぐに立ち直れるとは限らない……。
また、あの時みたいに譲羽を失いかけるのはイヤだ……。でも、イヤならどうすればいい……っ。
そう思ったら、駆け出さずにはいられなかった。電車に乗って、最終バスをとっくに送り出したバス停の横を抜けて、緩やかに心臓を締め付けていく坂道をのぼった。
額から落ちる汗。頬を伝い落ちる。拭い払うと湿った肌に風が当たり、熱くなる僕を冷やしてくれる。でも、そんなんじゃあクールダウン出来ないくらいに、僕の心臓はバクバクだ。鼓動と駆け音がめちゃくちゃに入り交じる中、必死に走る。
譲羽の実家は、学校からそんなに離れていない高級住宅街の一角にあった。学院長と同じと考えれば、すぐに場所は分かった。問題は、そこに居れば良いのだけれど。
でも、空回りだとしても、今は譲羽に会う為ならなんでもしたかった。その顔を一目見て、勝手に安心したいだけなのかもしれない。とにかく、いつものトロンとした顔をみたい。
肩で息をして、譲羽の自宅を仰ぎ見る。通話してみる。出ない。試しに、譲羽の実家の前に居るとメッセージを送ってみる。すると、二階の電気が点いては消えて、やがて、重たそうな玄関の扉が開く。
「百合葉ちゃん……ドウシテ……?」
「ユズ! 無事だったんだね!」
僕は譲羽を抱き締める。僕よりもうんと小さな体の柔らかさ。落ち着かなかった胸の鼓動が優しく包まれるように、ドキドキと震えた体が落ち着いていく。
「無事……? 具合は悪かったケド……」
「そっかぁ……っ」
何度も彼女の背をさすり、その無事を再確認する。ちょっと安心しすぎて、涙が出そうなくらいだ……。本当に、この子を失わなくて良かった……。
「ああ、百合葉ちゃん。スゴク、心配して、くれてたのネ……。でも、大丈夫……。これは、アタシの問題だから……」
「それでもさ……一人で抱えこまないで、調子悪かったのなら相談してね……? つらくなったらすぐに、頼って欲しいんだから……」
絞り出すように僕は言う。すると譲羽は、僕の抱き締める腕をゆっくりとほどき、そして、クマの出来た目で僕を見つめる。
「近くの……公園に、行きまショ……? そこで、ちょっとゆっくり話たいカモ……」
※ ※ ※
高台の住宅街を更に登ったところ。山を目の前にした所に、遊具のある小さい公園があった。ぐるぐる回る滑り台に、網の目を登る遊具。ここで鬼ごっことかしたら楽しそうだなんて思った。
そんな遊具を背に、長い階段があった。ちょっと砂利っぽいけど、譲羽のあとに続いて並び座った。腰に触れるコンクリートが、ジーンズ越しに夜の冷たさを伝えてくる。
昼の残暑もここまでは届かない。だけど秋と呼ぶにはほんの少しだけ早い、不思議な心地よさ。
でも、風が吹いてしまうとやはり肌寒くは思う。
「夜はちょっと冷えるね。ユズの体は大丈夫?」
「ダイジョウブ……。学校祭が近付いてきて、緊張で胃が痛かっただけダカラ……」
「すぐ直前でもないけど、そんなに緊張しちゃうんだ」
「そう……。練習だけデモ……緊張するノ……」
「そっかぁ。それは大変だったね。ごめんね、ユズの具合にまで気を配れなくて……」
それは本当に僕の失態だった。薬を飲んでいる彼女を見ても、あれまた飲んでるなぁ~くらい。お金をかけたくない僕でも各種市販薬は持ち歩いているけど、でもそれを頻繁に飲むというのはやはり、心配すべき事なのだ。
「みんな……すごいヨ……。ちょっと練習するだけで、すぐ合わせられるようになるんだもん……。アタシなんか、全然ついていけなくて必死なノニ……」
「そう……かもね……。みんな、なまじ出来る子ばかりだから、ペースは早かったかもしれない」
「出来るみんなと、出来ないアタシ。でも、心配かけたくなくて、相談出来なカッタ……。そしたら、百合葉ちゃんに余計な心配させちゃって……ゴメンネ……」
「いや、いいんだよ……。僕が最初に渡した楽譜だって初心者にはすごく難しかったよね……。それで、要らないプレッシャーを与えちゃった」
そうだ。僕らは当然のようにサクサクと物事を進めていたけれど、みんながみんな、それに付いていけるとは限らないんだ。全体のペースを隅まで把握すべきだった。
言って僕は横の譲羽を抱き締めて頭を撫でる。はぁ、本当になんにも無くて良かった……。この子がいる喜びを、この胸にひしと感じ受ける。
「百合葉ちゃん……ちょっと、汗クサイ?」
「あっ! ごめん! 走ってきたから!」
「いや……イイノ……。この匂い、安心するし……」
「そ、そう……」
それはなんだか複雑だなぁ……。
でも、そういうものなのかもしれない。好きな人の匂いだったら、なんだって好きになれるのかも。やや潔癖気味の僕だって、譲羽のミルクに混じった女の子のような匂いは落ち着くものだ。
しばし撫でたまま、夜の町を見下ろす。走る電車の光。車のヘッドライト。家の灯り。光の海を見ている気分。
そんなところで、譲羽が僕が座った階段の一段上に回り込み、僕を両膝で挟んで腰を下ろす。
「気付いた……。こうするとネ……? 百合葉ちゃんよりアタシのほうが身長高くナル……」
「立ったままじゃあ駄目なの?」
「立ってたら大きくなれナイ」
「えーと……」
ああ、足の長さの分か。立ったままでは僕らの身長差は埋めきれないけれど、座われば座高の差だけになるから、一段上なら彼女の方が高くなれる訳だ。
「それにネ……」
そう言いながら、彼女は僕のお腹に両腕を回す。
「抱きツケル」
「いつもくっついてるじゃ~ん」
「あれじゃ駄目。アタシがいつも前だカラ。たまには、百合葉ちゃんを抱きしめタイ」
そういえばそうかも。後ろから抱きつかれる経験は、そう多くない。
「こういうの、憧れてたカラ」
「後ろから抱きつくやつ?」
「うん……。身長ある人はズルい。いっつもアタシが抱きつかれるカタチになる」
「それはユズが可愛いから良いんだよ」
「アタシだってこっち側から見てみタイ」
「そっか」
そうして、譲羽は僕の頭に頬をこすりつけるようにする。甘やかされてるんだか甘えられてるんだか分からなくなりそう。
「星空と百合葉ちゃんの髪の匂い……いとをかし……」
「ちょっと!?」
「これが趣深いノ……。好きな人の匂いに包まれて見る夜景……。タワーマンションとかみたいなちょっとリッチな気分」
「立地条件よくないから、ここら辺には建ってないけどね。こんな気分なのかなぁ」
そこで一呼吸。譲羽はコホンとわざとらしく咳払いして、何かを言う準備を。なんだなんだ?
「咲姫ちゃんなら、リッチな立地ぃ~ってねぇ! って言うのカナ……」
「ああ、言いそうだね……っ」
ちょっと笑ってしまった。譲羽からダジャレが出るとは思わなかったし、咲姫のマネをするのも意外だったのだ。友達の物真似するのって、なんだかいい。
「キレイね……」
「街が見下ろせるからね」
「星空と星の海……」
「前にもこういう事、あったよね」
「温泉の時……ネ……」
「そうそう。あの時は湖に落ちそうで、ヒヤっとしたなぁ」
「でも……楽しカッタ…………」
「バタバタだったけど、そうだねぇ。あれから四カ月かぁ。長かったような短かったような」
「あっという間……なのに長かった」
「ホントだよねぇ」
二人してしみじみと感慨に耽る。背中のあったかさ。柔らかさ。それはもしかしたら、四カ月前に譲羽が感じていたものなのかもしれない。そう思うと、四カ月越しにそのポジションが逆になるなんて、なんか趣深いのかもしれない。いとをかし……だ。
「あの一番光っている星……なんだかワカル?」
「火星だよね? 金星だったらもっと太陽に近いし、木製ならあそこまで光らないと思う」
「そう……。そして、今のアタシは火星の気分…………」
「んっ……? 輝いてるってこと? それとも戦争したいーみたいな」
「戦争……これは確かに……戦争…………。積極性や闘争心の意味も火星にアル…………」
「そんなに闘争心に満ちあふれてるの……?」
「いや、ちょっと違ッテ……」
そこで譲羽は言葉を切った。何か考えるように。少し唸るようにう~んと鼻を鳴らす。
「あっ、瞬いたよ」
その時、僕の夜空は暗闇になった。でも、とても暖かい暗闇。唇にふんわりと乗る夜空の味。
「百合葉ちゃんがいるから、頑張れる気がスル……。なんだか燃え上がってきたような気がスル……。アリガトネ、来てくれて……」
「僕は、駆けつけただけしか出来なかったよ……。早く、譲羽の気持ちには気付いてあげたかった」
「でもネ……。つらい時にこう一緒にいれて、それだけでなんだか心が満たさレル……。みんなは一人でも頑張れるのが当たり前かもしれないケド、アタシにはやっぱり、百合葉ちゃんがいないと駄目ミタイ。逃げだしたい時に来てくれて、本当に嬉しカッタ……」
「そっかぁ。じゃあ僕らは一緒に頑張ろうね……。いや、そんなに頑張れなくてもいいや。楽しく本番目指して、楽しく迎えよう。出来る出来ないじゃなくて、とりあえずやっちゃおう」
「ウンッ」
唇を離した後のまま、僕の顔の横に譲羽の笑顔。腕を回わし彼女の肩を抱き寄せる。不安な気持ちが抜け落ちたように、白い顔は穏やかだった。




