第36話「天使が空から舞い降りた」
「そろそろ良い頃合いか……」
しばらく横になり、頭の中から炭酸が弾ける様に、甘美な痺れの快楽へと体を委ねていると、視界を遮っていたアイマスクを蘭子が取り払う。久しぶりに見る彼女の顔はとても魅力的で、すぐに心を奪われてしまう。
「ああ、しあわせ……。蘭子……かわいい……」
「そうか?」
蘭子が僕の頬を擽り擦る。
「百合葉のほうが可愛いぞ?」
「ふふふっ……。らーんこぉ~? 大好きぃ……。蘭子も僕の事好き?」
「普段の君も今の君も大好きだ」
僕の頭に彼女の唇が触れる。
愉悦の余韻に浸っていた僕は、気が付けば僕らしくもない事を口にしていた。いつの間にか耳栓は抜け落ち、両耳から甘ったるい猫なで声がしっかりと僕の脳内まで届く。何とまあ……僕らしくない……。穏やかにホワホワと包まれながら、間延びした自分の口の動きに反して頭だけ冷静になっていく。なのに、今は甘えていたかった。
「あぁ〜んもう……暑いよぉ〜、らんこぉ〜?」
それでも、欲望に塗れた身体はブレーキが効かず、自身の胸を突き出し、服を脱がすよう蘭子を誘っていた。
「……まだまだ体力を使うしな……」
ボソリとそう呟いた蘭子は、腕を伸ばして机のグラスを手に取り、僕の前に差し出す。
「流石に喉も渇いただろう? これを飲んで」
「……口移し……してくれないの?」
甘えたいと蕩けた脳が、上目遣いの乙女全開な口調であざとさを発し続けている。本能と口が直結しているみたいだ。
「これからもっと、声が枯れるまで気持ち良くしてあげるから、我慢するんだ」
少し間を置いてから返事をした蘭子は、向かい合った僕に、残りの媚薬入り桃ジュースを飲ませる。これから気持ち良くさせて貰えると聞いて、期待に全身を疼かせている今となっては、顎からいくらか滴ろうともどうでも良い。
「それにしても、君が狂う様にキスを求めるだなんてなぁ……。此処に来て本当の愛が見えただろう? これが君の探し求めていた『純愛』だよ」
蘭子は空になったグラスへ新たにジュースを注ぎ、自分で半分程飲みだす。
「ただ、ディープキスばかりするのもいいが、幾ら時間があっても足りないんだ。そろそろ先にも進ませてくれ……」
僕の頬を包み、親指で唇を撫でながら蘭子は言う。
そんな彼女のクールな顔には、微かな狼狽の色が見て取れた。目の前で僕が誘惑するものだから、少し焦っているのだろうか。何だか可愛い……。
蘭子の唇に再度触れたいという感情に身体を支配されつつも、彼女の首輪から僕に伸びるロープを見つめ、現状を把握している自分もそこに居た。
しかし、いつの間にディープキスは終わっていたのだろう。記憶は怪しいけれど感覚自体は残っているから、完全に無意識に囚われていた様である。キスで口を塞がれながら全力で喘ごうとしていたし。
「ああ全く、随分と可憐に咲いてきたな……。少年の様にあどけない、それでいていじらしい百合の華……。この顔も指の先も髪の毛一本までもが私の物だ。なあ、百合葉?」
蘭子は薄っすら穏やかな表情を浮かべ、横髪の房を掴み香りを楽しむ。
そんな彼女に返す言葉は無い。僕はただ、疼く本能のまま、緩んだ瞳で蘭子に見惚れているだけであった。
やがて、味わい満足し切ったのか、大きく一息ついたかと思えば、今度は左手でゆっくりと僕のカーディガンのボタンを外し始めた。手元を見る為に伏せられた長い睫毛が、蘭子のミステリアスな表情に拍車をかけている。こんなにも妖艶で綺麗な顔が目の前にあっては、嬉しさ余って心臓が破裂しそうだ。
「あんなにも欲しかった君の身体が、君の声が、君の心が、今全て私の手の内にある。蕩けそうな顔で私だけを求めてくれる。嗚呼、堪らないな。私と共に月夜を咲き乱そうじゃないか」
ボタンを外し終えた彼女はそう言い終わるなり、今まで変化の乏しかったポーカーフェイスに、うっとりと恍惚の色を浮かばせた。彼女の「ハァーッ」と吐き出した艶めかしく湿った息が僕の肌を掠めるだけで、火傷のような熱を帯びた感覚を抱く。
「もう離したりはしないし、何処にも行かせない。私が全てから守って、私無しじゃあ生きられない様にしてあげる。私は君が居てくれるなら何だって出来るからさ。身も心も一糸纏わず、愛の純血と溶けて混ざり合おう」
ぎこちない手つきでカーディガンをはだけさすと、横になった僕を優しく抱擁してくれた。ブラウス越しにお互いの胸がむにゅっと潰れ合い、ふるふると震えた蘭子からは、強く脈打つ鼓動までもがドクドクと伝わってくる。僕は「蘭子」と一言つぶやき、彼女の柔らかさを感じる為に、無意識の内に身を寄せてしまう。
「ようやく……百合葉が……。もっと……。せめて夢がさめるまで……。もっと……」
途切れ途切れに吐かれる『もっと』。僕もまた、もっと彼女の温もりに包まれ溶けてしまいたいと、おのずと蘭子に絡みつく。
「百合葉……百合葉……百合葉百合葉百合葉ぁ…………はははは」
吐息混じりの声で蘭子は何度も、愛おしそうに僕の名前を口にする。かつては、見た目にそぐわないと嫌っていた淑やかな名前も、呼ばれるだけで堪らない快楽へと変わる。
ふと、シーツに残った微かな桃の香りが咲姫の姿を髣髴させ、霞んだ脳裏に浮かぶ。彼女は今頃どうしているだろうか……。
「咲姫…………?」
「――ッ!? これだけ私の愛を余す事なく伝えているというのに、何故君は私だけに染まってくれないんだ……! 『いずれ菖蒲か杜若』――か。確かに私も彼女には魅せられるし、麗しの姫様が恋しいという気持ちは大いに理解出来るが、こんな時に他の女の名を出すなんて――――お仕置きだ」
「んあぁッ!」
恍惚とした表情から一変、悲しげな顔色を浮かべてから抱き締める力を強め、僕の耳に甘噛みする。鼓膜内で何かが強く弾けた音を立て、痛覚が全身に電流を流し脳天まで直撃した瞬間、身体が勝手に仰け反りだす。
「まだだ……。君がもっと自我を失う程に狂喜乱舞させる――――」
それだけでは気が済まないのか、耳朶から外周に沿って啄んではみはみと……。そして内側の凹凸までも、ソフトクリームを舐める様な舌使いで、ピチャピチャと音を立てながら、奥へ奥へと滑らせてゆく。
「うぅっ……。中はき、汚い……ふぁあうっ!」
「ふふふ、そうだっ……。私に狂って、私にイカれて……! 満開に繚乱しろ! 私たち女は、愛要らずの性欲に突き動かされる男共とは違うッ! 愛があるからこそ感じて、心の底から相手を求めるんだ! それを知らない君はもっと魅力的に咲き誇れる! ほら、本当の君を見せてごらんッ!」
堰を切ったように豹変した彼女が、激しく耳を責め立てた。それに呼応するが如く、僕の口からは言葉にならない喘ぎ声が発せられてしまう。
「あ……はっ……ぁ。やらぁ……めぇ、ひゃっ! あっあぅぁ、……っや、ん……!」
「嗚呼、夢より素敵な君が……天使が空から舞い降りた……! 私の元へと墜ちて来た……! さあ、まだまだ快楽の翼は広げられる! 楽園の彼方へと飛び立てるッ! もっとだ、もっと! 花弁を十二分に咲き乱せッ! 花びらを散らし枯れ果てようとも愛し続けてあげるから! 咲いて! 咲いて! 咲けッ! 百合葉ッ!!」
僕の顔を覗き込み反応を楽しみながら、いつに無く興奮した台詞を吐き出し、恍惚の表情で腕を広げる。蘭子は再び耳全体を口に含み、歯と唇で耳殻を刺激しながら、時折息を吹き掛け、舌の先端で耳の穴を何度もピストンする。
「やぅ……! あんっ、あッ! んぁあッ! ひっ……いやぁうっ! はぅ……んぁああああッ!」
沸騰した全ての血液が体内を駆け巡り、腹背を中心に強い痙攣が襲う。その都度、半ば宙に浮いた腰に全ての衝動が集中し、全身がこむら返ったかの様に肢体を攣り上げる。
脳内で花火が噴き出るようなひときわ激しい目眩と共に、大きく身体を内側から突かれ、首を背中を脚先を人体の限界まで反らした時、一瞬きらびやかな光の球体が見えた――と思いきや、突如として線が断ち切られる。反重力のエネルギーが失われた僕は布団に急落下し、ベッドがギシッと悲痛の音を上げる。
「あははははははッ! あははははっ……! あはッ! はははは……! ははは…………」
「はひッ……あ、あぅ! ひぅっ! や、あ………。うゅ……んはぁっ。……はぁ…………」
耳を責める事を止め、徐々に乾きつつある笑い声を上げる蘭子。当初は腰に回されていた彼女の腕も、今ではただ、大袈裟に天を仰いでいる。上向きで馬乗りにされた僕は、感覚だけが取り残された様に神経が倒錯し、どうやって身体を動かすのかを忘れていた。今はただ茫然とベッドの上に佇んで、自分と彼女の吐息の影に隠れた、時計の針が一つ一つ秒を刻む音を脳裏に響かせている。




