第28話「どんなに私が……」
蘭子は飽きもせず数分の時、僕の口腔を優しく引っ掻いている。
当初は涎が気持ち悪いと思っていたがすぐに慣れ、ボンヤリとその指を受け入れていた。
はっきり言って、レズレズしいのは分かっている。傍から見たら、前戯にも等しい事くらい分かっている。しかし、さっきの『告白』は当然、恋愛感情としてのモノ。この位のサービスは、とぼけてでもしてあげるべきかな――と。蘭子が余りにも報われ無さ過ぎるから。
「嗚呼、愉しかった」
そんな僕の行動の理由を考えていれば、蘭子が僕の口から指を外に出し、唾液を舐め取っていた。器用なもので、頬を薄っすら血色を良くしただけ……。彼女の表情は変わっていない。
「楽しかったの?」
「ああ、それはもう……。愉しかったよ」
僕は何が楽しいのか分からない体で訊ねると、先程と同じ感想を返される。
そしてゆっくりと蘭子が歩き出したかと思えば、「立っているのも痺れた」と言い、彼女は、僕のベッドに仰向けで倒れ込む。大きく膨らんで萎むお腹。深呼吸しているのだろう。
「『たまたま』だと言ったな?」
「えっ……何が?」
大きく「ふぅーっ」と息を吐いたかと思えば突然、蘭子が質問を投げ掛けて来たので全く話の流れが掴めなかった。
「オナ……自慰行為の話さ。さっきは『たまたま』だと言っていたよな? 普段はシないのか? それとも、頻度が決まっているのか?」
下ネタ嫌いな僕に合わせてくれているからか、俗称を出しそうになりつつも言い直す。僕は、その様な行為をする――と思われるのが癪だと感じ……。
「……勘違いされたままなのは嫌だから答えるけど、全くしないよ。昨日だってただ、拭っただけだし」
正直に、質問に答える事にした。
「ほう……? 無意識に――か。寝ている最中だな」
「何で断言……」
「何かを見ながらであれば君は、すぐに止めるんじゃないか? 妙に潔癖症だから、その様な行為をしたくは無いのだろう」
「…………」
この二ヶ月程度で、随分僕の事を理解しているな――と感心すると共に、言い当てられ押し黙ってしまう。
「しかし、眠っていて意図せずか……。どんな夢だったのだろうね」
僕は手のひらを蘭子に向けて『ノー』を突き出す。
「脅されても言わないよ」
これは墓場まで持って行く秘密であろう。夢の中でレズレズだなんて、言える訳が無い。ふわふわした痺れに快楽を感じただなんて、言える訳が無い。何より、僕自身が認めたくない。
「無理に訊き出したりはしないさ。日常的にその様な行為をしない事も分かった。だが、カマトトぶろうとも君がエロ本を隠し持っていた事実は変わらないぞ?」
「別にその話はもういいじゃんかぁ」
またしても僕の性事情を掘り返されて少しムッとする。しかし、顔には出さず、ニコやかに呆れを表現する。
「良くは無いぞ? 性に関心が無いフリをしておきながら、実際には読み耽っていたのだからな。ウブでピュアな『純情王子様』は、何処にも居なかったんだ」
「純情だなんて……そもそも、それは演技で――」
「そうだな、演技ではあった。しかし、それで咲姫を喜ばせていたように見えたがな?」
僕が咲姫の好みに合わせている事がバレているのだろうか? 少しヒヤヒヤするが、咲姫の事を掘り下げられない様に気を使おう。
「別に良いでしょ。何より、僕が純粋で居たかっただけなんだから」
「それでも、此処には君の本音が隠されている……」
言いつつ蘭子がベッド横のクローゼットを「コンコン」とノックする。
「確かにそうだけどさ」
「君は性欲を嫌っている筈だ。何故、読もうと思ったんだ?」
咲姫の話は逸れたが、性の話題には喰らいついて来る。……仕方が無い。多少の本音は言ってあげよう……。
「……純愛のお話が好きだからだよ。いくら性行為を否定しても、純粋に愛し合う二人が身体を求め合う以上、知っておかないと気が済まなかったんだ」
「それだけか? 君は欲望を求めて見ていたのじゃあ無いのか?」
「そんな事は無いよ」
きっぱりと断言する。
「まあ、君が無性愛者である事は本来ならば判断出来ない。しかし、このゴミ箱が否定する要素を持っていると思うのだが……」
言いながら蘭子は、ベッド横にあった空のゴミ箱を底面でクルクル回す。うう……。あまり『ソレ』を持ち出さないで欲しいが……。
「……これ以上汚い話をしないで? 蘭子の事、嫌いになりそうだわー」
「それは本当か? 本気でそう思っているのか?」
「普通、こんなに恥ずかしい事を問いただされて、タダで済むと思ってるの?」
「ねぇ」と微笑みつつ、強めに抗議の意図を言葉に混ぜる。
「まあ普通ならば……な。だが、君に私を嫌う事が出来るかな……?」
「何を言って……」
確かに僕には惚れた弱みがある……。気付かれただろうかと、僕の笑顔が引き攣ったのが分かる。
少しの間、僕が何の誤魔化しのフォロー入れられないでいると、蘭子は再び口を開く。
「……少し詰め過ぎた様だ。君の事をもっと知りたくてさ。デリカシーの無い事ばかり質問して悪かった」
「まあ……分かってくれれば良いよ」
彼女がようやく身を引いたので、僕もふぅっと息を吐き、首を振ってこれ以上の怒りは差し出さない事を提示する。
「だが、私だって友達の性事情を暴き出す様な事はしたく無い。友達だったのなら……」
好きな相手だから――と言いたいのであろう。聞こえなかったフリはせず……。
「親友だから、もっと踏み込んだ関係を築き上げたいんでしょ? 僕はそういう価値観も良いと思うし、訊かれて嫌だとは感じても、本気で怒ったりはしないよ」
『愛情』で雁字搦めになった『友情』を誇張した。
そしてまた、少しの間。耳を研ぎ澄ませば、カラカラカラと、滑らかに周る時計の音が微かに聞こえる。チクタクという時計の音が響かない作りの物だ。
しかし、ふと降りたその静寂も、再び蘭子が口を開き掻き消す。
「言っておくがな、百合葉。私は以前から、エロ本を愛読していた訳じゃあ、無いのだぞ?」
「えっ……? ああ、そうなの?」
今度は彼女の性事情か。理解するまでに少し時間が掛かってしまった。まあ、僕と出会ってから変わってしまったのは明らかだし……。
「そうだとも。君に出会ってから私は、レズビアンに強く興味を持ったんだ。本に登場する女の子も、受け側を百合葉に攻め側を私に、脳内で置き換えている。この意味が解るか?」
「好きだ」という直接の告白をしようとも、言いくるめては相手にしない僕に、焦れったく感じたのだろう。真っ向勝負でありながら、外堀から埋める算段だとお見受けする。当然、彼女の言う『意味』も解るが……。
「もしかして、蘭子ってブス専?」
トンチンカンな事を言って白を切る。
「……ブス専門で好きになる訳は無いし、そもそも君は不細工では無いだろうが」
「それは知ってる。正確に言うと地味顔かな」
「確かに、決め手に欠けるパッとしない顔だが、私は好きだぞ? 愛着も持てるし、可愛いと思っている」
「美人な蘭子にそう言っていただけるなんて光栄だね」
「……茶化して話を逸らすな。とにかく、私は脳内で君を陵辱して、愉しんで居るのだぞ?」
のらりくらりと有耶無耶にしている事が勘付かれたのか、話を元に戻される。今後の展開に不安が大きいが誤魔化し続けよう。
「別に良いんじゃない? 現実の僕に影響が出る訳でも無いし。個人の自由じゃん」
傍から見れば心が広い発言の筈なのに、実際には余りにも察しの悪い、無神経人間を演じる。
「そうは言ってもなぁ……。妄想内とはいえども、君は友人の慰みモノにされて、気色悪いとは思わないのか」
「思わない。それだと、レズビアンに対する差別になるでしょ」
「論点が違うな」
僕が言い紛らすも、そうはさせまい――と、蘭子は周り込む。
「違わなくは無いよ。男だって、友達の女の子にちょっと触れただけで夜に妄想する事もあるんでしょ? それを女に置き換えただけ。そして、僕がその事実を知っただけ。ほら、僕は寛大だから。余裕で許せるよ」
対し僕は、あたかもそれらしい詭弁で取り繕い、両手を広げて心の広さをアピールする。実際に男相手だったら股間を切り落としそうなほどに心は狭いけど。
「じゃあ君は……。……私がどんな想いで脳内の君を犯しているのか…………解るか?」
本心を晦まし続ける僕に「私の好意が本物だと気付いては呉れないのか」と言いたいのだろう。だがしかし――――。
「蘭子の側に僕が居て、たまたま『見た目が』好みに近い存在でした。それだけでしょ?」
それでも僕は恍けてしまった。その瞬間、グシャリと空間が歪んだ様に感じられたのは、蘭子の表情が悲痛に歪んだからかもしれない。
「それだけで済めばどんなに良かったか……」
「えっ……? なんだって?」
珍しくも――そしてあまりにも蘭子が苦しそうに言葉を繋ぐ為、つい、聞こえなかった演技を出してしまう……。
「どんなに私が……こんな……」
「蘭子……?」
僕の呼び掛けに彼女は応じない。数刻、時が止まったかに思えた長い一瞬。再び蘭子が口を開いた事で現実に引き戻される。
「…………済まないな、今日は帰るよ」
蘭子は立ち上がると、鞄を持ち上げドアノブに手を掛ける。
「送ってく?」
今までの空気を何だと思っているのか。ドアを開け廊下に出た彼女を追い掛けながら、軽々飄々と僕が問う。
怒っていると思われた蘭子は、階段を降りきった所で振り返り――――。
「ふふっ。君は優しいな。しかし、こんなにも外が真っ暗なんだ。女の子を出歩かせる訳にはいかない」
これが平常時の蘭子なのか、気のきいた返答をする。しかし妙な事に、普段は見せない柔らかな笑顔である。
「蘭子の方が紳士的で優しいじゃん」
何も考えてない様に適当な感想を述べてみる。すると、靴を履き終えた彼女は、先程より一層微笑んで僕の頭を撫でる。
「ありがとう。今日は……楽しかったよ。それじゃあ、おやすみ。また『明日』な?」
そうして蘭子は、明らかに『ケンカ別れ』の雰囲気であった事を、微塵にも感じさせない別れの言葉を掛けてくれた。
「はーい。おやすみー」
ピリピリとした空気に気付かないフリをしなければならない僕は、自己嫌悪の感情を抑えながら、ドアの向こうへと消える彼女に手を振り明るく別れを告げる。
「ガチャッ」とドアが締まり終えると、僕はなおも彼女を騙し続けている自分に吐き気がし、トイレに憎悪感をぶちまけそうになった。




