第10話「咲姫の髪」
「失礼しました」
職員室から出て挨拶した僕。部活の活動報告のレポートデータをもう少し書き足す必要があり、部活顧問の渋谷楓先生から受け取ったUSBメモリを手に、少し重たい足取りで階段の一段一段を踏みのぼり、美少女たちが集うはずだった部室へと向かう。
週明け二日目の放課後になってもまだ、どことなく漂う僕らのぎくしゃくした空気は取れず。譲羽は体調が優れないこともあるし、仄香と一緒に先に帰ってもらった。蘭子もまた、図書委員があるというので、これから咲姫と二人きり。
咲姫は……大丈夫だよなぁ。
昨日は別々に帰ったから蘭子とは特にいざこざは無かったはずで。でも、蘭子との関係を怪しんでいる節があるから、まだ油断できない。
ためらいもなく部室のドアを開ける。咲姫には鍵を渡しているから、もうすでに部室で僕を待っているのだ。部室内へ、声をかけようとしたとき……。
「咲姫……?」
傾き始めた西日が、光の束みたいに窓から差し込む中。金色の粒子を纏うように、彼女は寝ていた。自分の顔を包み込むように、机の上で両手を腕枕にして。
珍しいなぁ。
もしや彼女も夜寝付けなかったのだろうか。寝付けない同盟でも組んじゃう? でも、もしそうだとしたら原因は僕だから、そんな事を迂闊に訊けたものじゃない。
僕が抱く不安を宥めるように、穏やかな午後の風景。ひとつの絵画のような、幻想的な世界。
なんて、綺麗なんだろう……。
気付けばもう、手が伸びていた。ポニーテールをほどき下ろしたロングウェーブが織りなす、きらびやかな銀髪に魅せられて。その幻想に、触れてみたくて。
こちらが手を差し込んだというのに、良く巻かれた髪が僕の指をふわり撫で包み込む。優しくて温かい。そんな心地良い肌触りを本人の許可無く堪能してしまう。
彼女は、まだ起きない。そういえば、彼女の髪は手入れが大変そうだから、いつも触れるのに戸惑っていたり……。でも、今だけ、自由に……。
ほんの少しの、悪い気持ち。後ろめたさもあったけれど、僕はより顔を近づける。彼女の家に泊まったときと同じ、桃の香り。
柔らかな髪の束。引っ張ってしまわないように持ち上げて……。
僕は、そっと口づける。
その瞬間、心が蕩けそうだった。柔らかくて、つやつやで、温かく包み込まれるように。唇に触れただけなのに、一瞬の感触が、僕の五感全てを拭い去ったのだ。
いけないっ、無意識になったら涎が出そう……。
僕の唇が濡れてしまう前に、彼女の天使のような髪が穢れてしまう前に、僕はパッと手を離したとき……。
微笑む彼女と目があってしまった。
「なにしてるのかなぁ~? 百合ちゃん」
「……お目覚めかな。眠り姫?」
なーにが眠り姫だっての。まず謝るところじゃん僕のバカ……! いつもの冗談飛ばしのご機嫌取りは、この場面で通用するとも限らないのに。髪型が崩れるとか潔癖症であれば、勝手に触るなど、もっての外なのだ。それだけでなく、僕は口付けてしまっているのに……。
「うふふ……っ。相変わらずキザなこと言ってくれるのねぇ。それならまさか、寝てる間にキスでもされちゃったのかしらぁ?」
「あっ、いや、そんな事してなくて……!」
動揺してる今じゃ、その場しのぎの仮面なんてすぐに剥がれ落ちてしまって、僕はみっともなく、てんやわんやに手を振ってしまった。
「んもうっ! 落ち着いて最後まで王子さま演じてよぉ〜。まったくぅ、チャーミングな王子様だこと」
「あはは、ごめんごめん」
チャーミングなのは君だろうと、僕は内心漏らしながら赤面してしまう。どうにも、からかわれるのは得意でないのだ。
「百合ちゃんは……、わたしの髪の毛好き?」
「そ、そりゃあもう! こんな綺麗な髪だと、ついつい触りたくなる程好きだよ!」
なんて、あせあせして。もう、これじゃあ蘭子のことを悪く言えないな。レズ童貞丸出しじゃないか。
「わたしね、髪を褒められるの……好き。この色にするのも結構大変で、シルバーアッシュっていう色なんだけど、カラーもヘアスタイルもちょっぴり奇抜だから、お母さんにも全然、褒められる事は無くて……。それを好きだって言って貰えると、他人の目を気にしないで自分の憧れだった髪型にして、本当に良かったなぁって思っちゃうの」
「そっかぁ。でもすごい似合ってるから大丈夫だよ。僕が保証する」
「そぉ~お?」
首を傾げる彼女。そんな仕草さえ輝くようで愛おしい。
「確かに目立つ髪型だけどさ。僕は、本当に……好きだなぁ。だって、咲姫が明るく華やかに見えるんだもの。かわいくて……咲姫らしさがちゃんと出てるよ」
僕が褒めると、一瞬にへらぁとするも、すぐにいつものプリンセススマイル。うーん、流石に褒め殺しも、完全に慣れちゃったかな。なら、色々攻め口を変えて、的確に数を打っていくしかない。
「素敵な髪だよね」
言いながら、僕は彼女のうなじから髪に触れて、何度か梳き下ろす。そうしてみれば、咲姫は気持ちよさそうに目を細めるので、僕も胸がきゅうと高鳴ってしまう。
……ここは、攻めるべきだろうか。
夕紅色が世界を覆っていく中。好きな子と二人きり。ムードは悪くない。それどころか、絶好だ。
……何度も何度も、咲姫からじゃあかっこ悪いよね。
意を決して、僕は撫でていた手を彼女の耳から頬へゆっくりと移動させて、次の展開へと心の準備をする。彼女はこのときを待っていたように驚きもせず、しっかりと僕を見つめていた。
まずい、唇が震えそう……。
不器用な素振りで、彼女を幻滅させちゃあいけない。僕は、彼女をリードして楽しませないといけないのだ。深呼吸がバレないように、彼女の頬を撫でながら、見つめて。近付いて――――。
ガタリと。
「誰……っ!?」
こんなところを見られてしまったかと。噂になったら、部活の存続が危ういっ。蕩けた脳を瞬時に切り替え、対処をどうすべきか答えを導き出す。
「ごめんね、咲姫」
彼女に背を向けたまま声をかける。返事はなく、ただ、ため息が漏れたような気がした。
――――――――
図書委員があったはずだがもう終わってしまったのか、黒髪ロングが夕焼けに染まり輝く、大きな彼女の姿。
「蘭子。来てたなら入ってくれればいいのに」
覗き魔は逃げることなく、部室の前で腕組みふんぞり返っていた。いや、いつも通り堂々としているだけで、ふんぞり返っているわけではないのだろうけど。悪びれもしないところが、そんな風に印象づけるのだ。
「眠り姫ねぇ……。君の王子演技も、なかなか板についてきたんじゃないか? 私も是非、言って貰いたいモノだが」
「最初っからじゃん! ていうか、蘭子じゃあお姫さまは似合わなくないっ!?」
僕の言葉に、高身長イケメン女子の蘭子ちゃんは、そのクールで大柄な風貌に似合いもせず、体をよじり自ら両腕で抱く。
「これはこれは酷な事を言ってくれる。悲しくて涙も出ないな」
よよよとわざとらしく泣き崩れる彼女。全くもう、あからさま過ぎて、慰める気も起きないなぁ……。そう思い眺めているうちに、閉めていた部室のドアから、傷心のはずのお姫さまが顔をのぞかせる。
「あぁ~あ。蘭ちゃん傷付いちゃったわよぉ〜? こんな時は百合ちゃんのお姫様抱っこねぇ〜」
「いや体重的に無理じゃない……っ?」
「ぐっ……その言葉に酷く傷付いた蘭子は床に倒れる。これは、王子のキスでなければ、一生目覚める事は無いだろう」
「語り口やめなさいっ! それに倒れてないでしょ!? ……あっ、体重の話しちゃってごめん! でもキスしないからねっ!」
「なんだ、つまらん」
「つまらなくないわっ!」
「うふふっ」
なんて、ホッとするいつもの流れが。良かった、今の咲姫は蘭子とはいざこざを起こす気はないみたいだ。それは僕からキスしようとした優越感から?
ほっとしつつ僕は微笑んで咲姫の顔を見る。そのとき、僕は全身の血の気が引いた。口では明るく笑う彼女。表情も愛らしいプリンセススマイル。
でもそれは、目に底知れぬ怒りが浮かんでいるようで。




