第88話「涙と告白」《二章終わり》
「あっ……百合葉!」
ガラッと扉を開き、廊下をバタバタと走る。足の裏側が痛い。緊張し凝り固まった体で、動悸に震える心臓が全身にドクドクと血を送って。僕は行く宛もなく恐怖から逃げるように、走った。
「みんなはここに居て。百合葉、百合葉!」
後ろから声が聞こえる。ダッダッダッと力強く駆ける音。蘭子が追ってきたのだろう。
どこも傷付いたワケじゃない。現に何かされたワケでもない。だけど、あのトラウマみたいに、心が押しつぶされそうなほどに苦しく、ただ苦しかった。
逃げる様に角を次へ次へと曲がり、階段を駆け上がる。転びそうになりながらも、手をついてのぼる。
「うわ……っ!」
いき……止まり……っ?
ドアにぶつかりそうになって気付く。僕がどこへ逃げようとしていたのか。行き先ひとつだって考えていなかったことを。ただ、人を避けて、独りになりたかっただけだということを。
「百合葉っ!」
「――ッ!」
すぐに追い付いた蘭子。振り返る間もなく強く抱きしめられる。
「放って、おいて……離してよ……」
「離さない」
「こんな顔見られたくないんだ……離して――」
「離すものかっ!」
急に怒鳴られ萎縮する僕。より一層、体の力が抜けて、僕の中には彼女に抵抗する気力なんて空っぽだった。
「そのままでいいから、このまま……抱き締めさせてくれ……」
力強かった彼女の声が柔らかくなるのを聞いて、思い出したように目頭が焼けるように熱くなる。
そうだ……説明しないと。
「あっ、あの……ねっ。僕、は……っ」
「今は喋らなくていい」
しゃくる声を必死に絞り出しそうとするも、蘭子はただ強く、僕を抱きしめた。ああ、もう。なんて落ち着く大きな体なんだ。この子には敵わないや……。
何度も呼吸を整え失敗するたびにまた、平静を装って徐々に心をあやす。彼女の温もりで落ち着いたのか、逃げよう――という気持ちなんて心の隅にでも追いやられたみたいだった。
意識する必要がないくらいに、平常の呼吸が出来るようになったころ、ようやく僕は口を開く。
「ごめん……」
「何を言っているんだ。謝る方は私じゃないか」
「ごめん……」
スンッと鼻を鳴らしながら出した、僕の二度目の謝罪。抱き締められる力が強くなる。
「もしかして、みんなの空気を悪くしたから、負い目を感じているのか?」
蘭子の質問に対し、コクリと少し頷く。
「君は本当に……。いや、何でもない。私がハメを外し過ぎたんだ。嫌がりつつもいつもの笑顔を崩さない君を見ているとつい、どうやったら君に意識してもらえるのかと感情が暴走してしまって。加減が分からなくなってしまったんだ。本当に済まない……」
「蘭子は……悪くないよ。蘭子があまりにも楽しそうだから……。その空気を勝手に僕が崩しちゃっただけ」
「自己犠牲も結構だが、君は我慢をし過ぎている。嫌だったんだろう?」
「これは単に、トラウマが……」
「トラウマ?」
蘭子が訊き返してくる。
言うべきか言わないべきか。とても他人に言いたくない内容だったが……。
「僕は中学に上がる前、好きだった人に強姦……されそうになったんだ」
心の淀みを吐き出したくて、僕は語り始めていた。驚きに息を吸う彼女は、次の言葉を黙っているようだった。
「サッカーが上手な、綺麗でかっこいい子がいてさ。放課後に呼び出されて、心をウキウキさせながら、空き教室に行ったんだ。そうしたら、サッカー仲間を連れて三人掛かりで僕を押さえつけて……」
美少女に余計な心配を掛けたくない。自分語りなんて弱さを見せてはいけない――と思うのに、続けてしまう。
「その頃から――というか、その頃は僕、今よりずっと男っぽくてさ。男子と一緒にボール追いかけるようなわんぱくさで……。それなのに、イケメンを好きになっちゃって。それが男子に伝わっちゃって。からかわれて……」
蘭子は静かに聞きながら僕の肩を撫で始めた。僕の口は息を整えながら次の言葉を紡ごうとする。
「みんな面白くて良い奴だと思ってたんだよ。何度も一緒に遊んでさ。それなのに、やっぱり男っていうサガなのか……人が変わる様に僕を襲ってきた。男って怖いよね。性欲を制御出来なくなったら野獣になるんだもん……」
僕は諦めたようにため息を吐いて続ける。
「そのときからだよ。男に対して何も感情を抱けなくて。心の奥底で軽蔑し警戒しちゃうんだ」
「そうだな。思春期の男はそういうのばかりだ」
蘭子は深く頷いて肯定してくれる。
「でもそれも良いかなって……最近はさ。男を好きになれなくったって。結婚しなくたって今の世の中は生きていけるし、自分らしさが見えてきた気がするんだ。確かにトラウマだけど、今はみんなにセクハラされても、楽しい空間が出来てきたワケだし……」
僕は言い終わると、一度ほほえんでから、顔を彼女の胸元へと沈める。頭を彼女にこすりつけて、子どもみたいに甘える。僕が何も言わなくなってから、暫く聴き手に回っていた蘭子が口を開く。
「そうか、そんな過去が……。それは辛かったな、怖かっただろうな……。しかし、ソイツらを許す訳じゃあないが、今の男嫌いな百合葉の性格はとても素敵だぞ? 私は共感出来るな」
「そう……?」
「そうだぞ? 私も似た様なもんだ。……私はな、最近、レズビアンだと気付く前に、ずっと前に二人、男と付き合ったことがあるんだ。興味も特に無かったが、たまには冒険してみようかな――と。しかし、男には一切の魅力を見出だせなかった。それでも奴等は、愛を何も感じられないのに、性行為を求めて来て汚く思えてな。一人目はチャラチャラした男で、無理に要求するから投げ飛ばしてやった」
「投げ……飛ばしたの?」
「そうだ。私は合気道をやっていたから。告白されたのも、私が文武両道の才色兼備だから……無口の大女でも一応モテていたのだろう」
「蘭子は綺麗でカッコ良いもんね。二人目は?」
「二人目は……誠実な男で優しそうだったから、強引にはしないだろう。ゆっくり好きになれば良いだろう――と思っていたのだが、キスをせがまれてな。雰囲気なんてあったもんじゃない。あまりにも急で、性欲が見え隠れしていたから、ビンタしてやった。そうしたら、逆ギレしだしたんだよ。『付き合っているんだからこのくらい良いだろ』――と。私の気持ちは考えないその発言にイラついて、当然、投げ飛ばしたな。全然好きになれそうに無いから、君と同様、男に魅力を見出すのは諦めたよ」
「そんな事があったんだ……」
そのような過去が彼女にもあったんだなぁと思いつつ、これならばこの子も異性愛者になる事は無いな――とも安心している自分がまた嫌いでも好きでもある。
「君ばかりに過去を話させるのはフェアじゃないと思ってな……いや、知って欲しかっただけだ。皮肉な事に、今、百合葉にセクハラばかりしてるのは私だと言うのにな。自分勝手な話で済まない」
「良いよ、蘭子の事を深く知れて嬉しいし。こっちこそ、いきなり自分語りしてごめんね?」
「元々こっちが悪かったのだから、もう謝るな……。私が辛くなるではないか」
「あははっ。じゃあ謝るのやめる」
「ふふっ。もう泣き止んだかな?」
彼女の言葉を聞いて僕は微笑んだ。いつの間にか鳥肌が引き、心が晴れやかな気持ち。蘭子のお陰だろうか。大きくて落ち着きのある彼女といると、安心感が強いのだ。
「もう大丈夫かな。心配させちゃってごめ……いや、ありがとね。みんな待っているし、行こっか」
いつも通りの自分に戻れたみたいだ。待たせている彼女らにも悪いし、背中に回されていた蘭子の手を解き、先導を切って階段に向かう。
「まあ待て」
と、背後から再び腕を回され抱き締められる。
「んっ……?」
「似た様な境遇で、恋愛に対して同じ様な感じ方を持っている君は、私には掛け替えの無い存在だ。君と一緒に居る時だけ、私の感情は突き動かされるんだ……。私は君を離したくない。百合葉が居ない人生なんて考えたくない」
「突然なにを……」
確かに、今のシチュエーションは想いを告げるのに最適だ。忘れそうになっていたが、彼女は僕にベタ惚れである。そして今日のそわそわしたみんなの様子を考えれば……。今ここで攻めに来るつもりなのだろう。
「わがままな私だが、ずっと傍に居てくれ」
予想通りのドラマチックな台詞が投げ掛けられる。そのセリフだったらもう聞いてるんだけどなぁ。うーん、多少はえげつないけれど、僕はその気持ちに応えてあげよう。
「……僕は蘭子から離れないよ。ずっと一緒に居るよ?」
「それじゃあ……」
「みんな一緒でみんな親友。どんなに喧嘩して傷付けあってもさ。仲直りしてこの先も乗り越えて行こうよ」
そう。僕の夢はあくまで百合ハーレムなのである。僕が集めた四人皆が寂しがらない様に愛さないといけない。一人ばかりを相手する訳にはいかない。
「……そういう、事じゃ無くてだな。私は君にとっての特別な存在になりたいんだよ」
恍けられた所為でなのか一瞬、蘭子の口調が歪むも、このタイミングを逃すまい――と、必死に僕へと本音を伝える彼女。
「私は君が好きだ」
結局、一番ストレートな告白に行き着いてしまった。
素直な気持ちほど、心の奥底に鋭く刺さる。その想いを真正面から受け止められないから、誤魔化そうとする自分が嫌で、しょうが無いのだ。
だが、その反面、やはりハーレム完成までは騙しきってみたいと、僕は決心。大丈夫、白を切れる。聞き取れなかった演技をする必要もない。
「まだ慰めてくれるの? ありがとう。でも、僕はもう大丈夫だから」
「違う……。私は恋愛感情として、レズビアンとして――――」
「実際さ……一ヶ月そこらしか経ってないのに、そんな事言ってもらえる程仲良くなれたのは嬉しいよ。でも、それって本当に恋愛感情なのかな? 男嫌いだからレズビアンだって決まるわけじゃ無いし、毎日が楽しいからそう勘違いしているだけかもしれないでしょ?」
冷たく胸に刺さるような誤魔化しの言葉を蘭子にぶつける。空気が一瞬にして冷えるのを感じたけれど、彼女の腕が緩まったのを見計らって、僕は離れ階段を降りだす。
「ほらっ。みんな待ってるし、早く行こ?」
「待て……。ああ、今行く」
フゥーッと静かな溜め息が聞こえた。そりゃあそうだ。ここまで言われてしまえばダメージも大きいし、普通であれば諦めたりもするだろう――が、彼女はそんな事で折れたりはしない。彼女の強さを、貪欲さを僕は知っている。
やがて二人で部室に入るなり、皆が心配してくれたが、蘭子のセクハラも酷くて困ると、いつも通り笑いながら戯けて見せれば、再びいつもの様な穏やかさを取り戻していったような気がした。
蘭子以外三人の、不穏な空気には気付かないふりをして。




