第72話「仄香の嫉妬」
婚姻届けの件は、譲羽がお腹をさすりながら教室に入ってきたことで心配し、うやむやに。
そんな一時限目の終わり。僕がトイレに入ろうとすると、仄香も付いて来る。トイレにこの子一人だけというのは珍しく見えるなぁ。
「ゆずりんお腹落ち着いたってさー」
「そっかぁ。具合悪そうだから心配だったんだぁ」
なんの気も無しに始まる会話。この子はこの子でお馬鹿なりに空気を読もうとはするから、普段の日常生活でまでおふざけやレズジョークを飛ばすほどハイテンションなわけではない。
もちろん、いくら仄香ちゃんがレズだからといって個室にまで付いて来るようなお馬鹿クソレズでもなく。それぞれが個室に入り用を足す。仄香が居ようと居まいと便座の除菌と音姫は欠かさないけどね。変に神経質な僕だけれど、この学校は清掃設備も生徒の品格も高いから、トイレとて綺麗な空間なのは助かる。
「ゆーちゃんちょっと来てー」
だが当然、そんな長居をする予定もなく。ささっと済ませ僕が手を洗っていると、仄香の呼ぶ声がした。
「えーっ。なになに?」
開け放たれたドアから手招きしてくる仄香。まさか汚物やら何やらとかじゃないよね? 下品な物でも彼女なら騒ぎかねないから、ちょっと身を引き締める。
でも、他の面白い物でも落ちてたのならまだ安心かなぁと、誘いを受け彼女の居る個室へと入る。彼女は僕が来ると体をよじりながら扉を締め、怪し気に微笑み……。
「二人きりだね、ゆーちゃん」
ドアロックを掛けたのだ。
「えっ……? なんで鍵して……何かあったんじゃないの?」
「ナニかは……これからかなぁ~」
「これ」と言いながら仄香は、ゆっくりと僕の太腿をなぞる。付け狙うように細めた目に口の端を舐める舌。そこには面白いものでも下品なものでもない。僕を狙うレズが居るだけだった。
「な、何を……」
「ねぇ、なんで蘭たんとあんなにラブラブなの? めおと漫才にしか見えないんだけど」
「め、夫婦漫才?」
それっ婚姻届けのことだよね? なんで彼女は知っているのだろうかと首をひねって考えるふり。
「誤魔化さないでっ! 朝、ゆずりんがトイレにこもってる間に見てたんだからっ」
「えっと……」
ああ、なんと運が悪いのだろう。おそらく、彼女らは咲姫よりも早く学校に着いてはいたものの、譲羽がトイレに入っていて仄香はその間待っていたんだ。もしそうなら油断しすぎなもんだ……。それともまさか、百合ハーレムを目論む僕に対する百合神さまの天罰? いや、百合神とて百合ハーレムは大好きなはずだ。ならば、普通の神さまの天罰か……許さないぞ神さまっ!
「黙ってないでなんとか言ってよ。婚姻届け。なんなのあれ……」
僕が黙ってあれこれ考えていると詰問されてしまう。仄香ちゃん怖いよ……。
「ああ、あれは蘭子の冗談だから……」
「ホントに冗談なのかなぁー?」
「だって本人は楽しそうじゃない? 蘭子は人との距離の置き方がよく分かってないみたいだから、どう会話を広げればいいのかさっぱりだろうし。レズジョークでウケたのをきっかけに、蘭子の持ちネタにしたんだと思うよ」
僕は適当にそれっぽいことを言って彼女の追求から逃れようとする。
「じゃあ、蘭たんとえっちなコトしてないんだー」
「そ、そりゃあそうだよ」
「キスすら出来ないヘタレだもんねー」
「――ッ!?」
そんなところまで見られていたのかっ。彼女とはまだしていないだけに、この爆弾的な話題は避けたいのに……。あまりシリアスな展開でキスなんかしたら、のちのち修羅場になりやすいんだ。
「な、仲良かったらする人も居るでしょ? 仄香だって、それっぽい考えだって……」
「アタシは最近してないよー?」
「えっ……? そうなの?」
「とっておきにしょうと思ってねー」
「とっておき……?」
そこまで本気にされちゃあ困るなぁ……。気持ちは本気で大有りなんだけど、僕はゆくゆくは、イチャイチャラブラブな百合ハーレムを作り上げたいというのだから。
「ねぇねぇ、蘭たんとまだしてないんだったらさー。あたしとえっちなコトしてみない?」
そして、妖しく笑いながら彼女は問題発言を放った。くっ、これは本気で落としに掛かってきてる……っ。
「と、友達同士でそういうのはアリなのかなぁ〜?」
「アリだよ、大アリだねー。この学校だって、そーゆーウワサばっかだもん」
「へ、へぇ〜。女子校だとそんなもんなんだね」
「そーそー。仲を深める儀式みたいなもんだよー。男女と違って赤ちゃんが出来るわけでもないし?」
「まあでも、気分じゃないからなぁ。別にそればかりでなくても………」
とは言いつつも、今後もいつだって気分になることはないと思うけど。性的な事は苦手なのだ。僕が言葉を濁し逃れようとするも、
「『初めて』は早い方が経験積めてお得だよー? 今からでもイイんじゃない?」
だなんて。僕とそんなにレズりたいのか、あたかも同性間の性行為が一般的で価値あるモノかの様に、仄香はこじつける。
「こ、ここはトイレだからなー。僕的にはもっと綺麗な場所の方が良いかなぁ〜」
僕なその言葉に、仄香は途端に落胆の表情。
「そっか……。まあ、それもそうだよねー」
それは、約束なのだろうか。少しの不安に色めいた期待が入り交じってしまう。僕とて、イチャイチャだけならウェルカムなのだ。
「ああ、ありがとう」
僕が内心苦笑いつつ彼女に微笑む掛けると、仄香の両腕が僕の首に回され……。
音もなく、唇が優しく触れた。
そして一度顔を離した彼女が妖艶に目を細める。
「キスくらいだったらいくらでも……イイよね?」
「そ、それは……」
うう……。それは確かに大丈夫なんだ。だけれども、教室では他の娘達が待っているわけで。様子を見に来ないとは限らない。今、あんまりにもイチャイチャしていられないわけで……。ああもうっ。雰囲気ぶち壊しだけど!
「ほ、仄香、手は洗ったの?」
「……はぁっ?」
キスの感想も無しに、カップルであればビンタが飛んでくる勢いの、無神経発言を飛ばす。
僕がそのトボけっぷりを放つや否や、彼女は両腕をだらしなく落とし、開けたままの口から大きな溜息を吐く。
「そもそもあたしは用を足してないよ……」
「ああ、そうなの? なら気にしなくて良いかな」
美少女と潔癖症のどちらを取るか――と言われればそりゃあ美少女なのだけれど、この鈍感さは逃げの一手として活用できる。実際に潔癖症気味だしねっ。
案の定、仄香は笑いつつも呆れ顔で、
「今回はこの位で我慢しといてあげる。なんだか……萎えちゃった」
ガチャッとロックを解除し、僕を開放してくれたのだった。
「仄香は本当にスキンシップが好きだよね」
僕は冗談めかしながら、個室を出る。
「女の子は……かわいいからねー」
「吸いついちゃいたいよ」と、仄香は付け足しながら言う。トイレから出るも、決して僕の横には並ばず、後ろに付いて来るだけであった。
「でも、他の子にばっか夢中にさせないんだから……」
そんな呟きは廊下の喧騒に滲み消えて。




