第42話「地下道」
「バスだと気にしなかったけど、この駅不便だね……」
「そうねぇ……普通の道だと思ってたのぉ……」
僕らの目の前に広がるのは、どこか怪しげに薄暗い地下道。線路の向こう側に駅があるため、この道しか選択肢が無く……仕方なしに僕らは潜る。線路の柵さえ越えてしまえばすぐに辿り着けそうなものだけれど、もちろんそんな危険な行為をするわけがなく。
階段を下り、オレンジ灯によってギリギリ足元が見える程度の道を歩み進める。置き捨てられた酒瓶のゴミと、壁のセンスの無い落書きが、篭った空気と相まって居心地の悪さを誘う。
「この道なんかイヤねぇ……」
「線路を越えるにはこの辺だとここしかないんでしょ。他の道までは結構長いし、十分くらいで駅に着けるんだから、我慢するしかないよね」
「うぅ~ん……」
唇をむぅと尖らせながら、ダラリと間延びした返事をする咲姫。バスの待ち時間よりよ早く着くからと、この道順を選んだ彼女のダイエット計画が裏目に出たようだ。時間短縮とは言え、このような荒れた道に足を踏み入れるのは気が引ける。お姫様には全くそぐわない場所と言えるだろう。
夜中には絶対通りたくない道だなぁ……と僕も顔をしかめていると、咲姫が不安そうな表情に変わり、口を開く。
「……ねぇ、前のオトコの人……。挙動不審で、こっちをチラチラ見てきてなぁい? これで三回目よ?」
「んっ?」
咲姫にばかり気を取られていた僕は、初めて道の先に目をやる。ただの歩行者だと思っていたけれど。
その五十メートルほど先では、浮浪者ともただのおじさんとも取れる、汚いつなぎの男性が何度も立ち止まってはこちらを見ていた。このままでは程なくして距離が埋まりそうだ。
「本当だ……痴漢じゃなきゃいいんだけど」
彼女が僕の手をギュッと握り締めてくる。微かに感じる彼女の脈がだんだん早くなっていく。こんな場所だ。不安がるのも無理はない。
「大丈夫。もし僕の大切な咲姫を襲うような奴だったら、容赦なくボッコボコにするよ」
「……んもうっ。頼りにしてるわねぇ~」
僕が言うと雲散霧消するように、顔色がパッとと明るくなる咲姫。はっきり言って力の自信は無いけれど、今の雰囲気はワリと決め所だ。僕まで怖がってビクビクするんじゃ情けない。こちらは二人だし、最悪、急所を狙えば良いだけの話。注意して、その男の動向を探る。
「何度か立ち止まってるから、ほとんど距離が残って無いね……ひったくりの可能性もあるから、早足で注意して」
「うん、わかった……」
ジワジワと、男の横を早足で過ぎようとする。何も無いことを願いたいが、常に最悪は想定するべきなのだ。注意を払って損する様な事は無い。
その差が五メートルに差し掛かったとき、再び男性が振り返り立ち止まる。こちらが睨み付けてやると、少し怯えた顔を見せた男性は何をするでもなく、ただ、茫然と立ち止まってしまった。視界から男の姿がスクロールし消えてゆく。
「……後ろに気配を集中して。角を曲がったら走ろうね」
僕の耳打ちに対し、口を固く結んだ咲姫がコクリと頷く。背後の足音は止まったまま。角の先から光が漏れ、出口が近いことを教えてくれる。
「走ろう!」
「うんっ!」
彼女の手を取り、駆け足で出口の坂を上ってゆく。外に出て後ろを振り返っても追ってくる様子は無い。何もしては来ないようだ。
手の汗がどちらのものなのかよく分からないほどに強く握ったままの手を離す事なく、駅前の車通りが多い十字路まで辿り着いた。ここまでくれば大丈夫だろうか。
「ぷはぁーっ! 怖かったね!」
息を整え彼女に声を掛ける。緊張の糸が切れたのか、ひと息つく彼女の顔が緩んでいるのがよく分かる。恐らく僕も同じ表情をしている事だろう。
「……わたしは、百合ちゃんが居てくれたから……。それだけで安心できたかなぁ……」
「んっ……?」
あ、別に聞き逃したフリの必要は無かったかな。安心しきった思考回路から、ついうっかり聞き返しを装ってしまう。彼女はやや前屈みになり、上目遣いで僕の顔を見上げてくる。ときおり煽るように下から覗いてくる彼女の顔も、今はときめいて見える。
「うふふっ、守ってくれてありがと!」
言い終わると共に急接近してくる彼女の顔。頬にはとろける果実の感触。なんにも反応なんて出来なくて、僕の心はふわりと甘い風にさらわれた。
「な、何を……っ!」
「何って、お礼にほっぺにキスしただけだよぉ~。それとも前のが良かった?」
「きゅ、急に恥ずかしいからやめてよぉーっ!」
「普通の事だから大丈夫でしょお~? それとも耳まで真っ赤に意識しちゃうほどの何かがあるのかしらぁ~?」
突然のことでパニックになる僕に、咲姫はしたり顔で覗き込んでくる。くぅっ……彼女の言うとおりなんだけど……心の準備もなくされる側は恥ずかしいっ!
「どうって事無いし!? もうそろそろ電車の時間だし行くよッ!」
「あっ! 待ってよぉ~! さっきみたいにカッコよく私の手を引っ張ってぇ~!」
「僕もう咲姫をリードするの疲れちゃったなー、早く帰りたいなー」
「なんてこと言ってくれるのよぉっ! もうっ!」
そんなこんなで、後ろの咲姫の様子をうかがいながら、丁度よく来ていた電車にギリギリで二人乗り込む。こんなに焦らずとも次の時間まで待てば良いだけなのだけれど、可愛い子にはつい意地悪したくなってしまうのだ。楽しくて仕方がない。
※ ※ ※
「はぁ~。もう汗ひどいわよぉ~。臭ったらヤだぁ…………」
「んんんーっ? 何がひどいって?」
「何でも、ないわよぉッ!」
珍しくキツめに怒る咲姫ちゃん。でもそんな彼女を見るのも楽しかったり。確かに、僕も少し走っただけでじんわり汗をかいてしまった。乙女に酷な事をしてしまったなぁ――と後悔。しかし、並んで座る彼女からは汗の臭いなんて匂っては来ず、代わりに桃の香りが漂ってくるだけである。どんなマジックなの? ソレ。
「それにしても、さっきの人なんだったんだのかしらねぇ~。こっちが警戒心強いから、痴漢もひったくりも諦めたぁ?」
「遠目に見たら咲姫がギャルに見えたからあっちが怖がったんじゃない? おじさん狩りっていう若者の恐喝も多いらしいし」
「そんな風に見られてないわよぉ~っ!」
両手を顔の前でグーにしてプンプン怒り出す咲姫。それは擬音語が聞こえそうな程に――あっ、本当に「プンプン」言ってる。あざとかわいい。
「実際そうでしょ? チャラくてもせいぜい茶髪ばっかの土地でプラチナブロンドだよ? そんなに目立つ髪色、僕だったら怖い人だと思ってすぐ道開けるね」
「そうやってイジワル言ってぇ! さっきの勇敢な百合ちゃんはどこ行ったのぉ~!」
「そんな人は最初から居ませんよー」
「せ~っかくカッコいいなって思ってたのにぃ~!」
「んんんっ? なに、もう一回言ってよ!」
「ば、馬鹿ぁ~!」
あー、咲姫ちゃんいじるの楽しいなぁー。イチャイチャとそんなやり取りをしながら電車に揺られる。途中は怖い……思い過ごしだったけど、沢山のスイーツも味わえ、これまたスイーツのように彼女との甘い思い出にもなったし、素晴らしい一日であった。




