別離
あの騎士の突撃で味方の士気は戻り、どうにか敵を抑えることができた。
現在は小康状態だが、依然として予断を許さない状況が続いている。
時折、敵陣からの銃撃で土埃が上がる。運の悪い兵士が何も言わずに倒れた。
「ビンセント」
「はぁ」
ヨーク少尉が手招きしている。
「ちょっと来てくれ。カークマン、マッキー、少しの間頼むぞ」
「うっす」
転属早々上官に睨まれるようなことはしていないはずだ。
とはいえ、かつての上官であるトラバースと違い、ヨークは人格者である。
そうそう面倒なことは無い……と思いたい。
「入れ。俺はここで待つ」
「は?」
「いいから行け。失礼のないようにな」
塹壕内には、シェルターを兼ねた休憩所が要所要所に作られており、ビンセントはそこに通された。
「……イザベラさん?」
「ブルースッ!」
そこには、前線には不釣り合いな女……イザベラが待っていた。
制服のデザインが変わっている。
カークマンの言う通り、騎士は女だったのだ。
イザベラはビンセントの姿を認めると、彼女は駆け寄って抱きついてきた。
「会いたかった……! よかった、無事で!」
「なぜ、ここに」
イザベラはビンセントの胸に顔をうずめると、泣き始めた。
しかし、その肩を抱きしめることはできない。
……そうするべきではない。
「居ても立ってもいられなくてっ! ……無事でよかった、早く帰ろう? サラ様も心配してるわ」
イザベラは泥まみれ、煤まみれで、全身に無数の小キズがあった。
腰まであったポニーテールの髪は肩甲骨あたりで吹き飛ばされ、毛先が焦げている。
「帰ってください」
「私が司令部に話すわ! あなたをこんな所から助けてあげる!」
「こんな所でも、俺の居場所です」
「何言ってるの!? ここ、本当酷いわ! 私なんておしっこ漏らしたもん!」
「いいから早く帰ってください。確かに酷いですけど、ここに居たほうが俺はずっと幸せなんです」
カスタネに居るほうが、よっぽど辛い。よっぽど苦しい。
リーチェのほうが、よっぽど楽だ。
しかし、イザベラがまたバカなことを言い出した。
「じゃあ、私も一緒に戦うわ!」
もう、魔法など何の役にも立たない。ただの手品だ。
射撃は一朝一夕に身に付くものではない。
特に貴族は銃を嫌うので、ろくに触ったことも無いはずだ。
あのヨークですら銃を持たない。士官は指揮を取るのが仕事なので、不要といえば不要だが。
はっきり言って、イザベラがろくに戦えるとは思えない。
だからこそ、彼女を守るために、と覚悟したこの戦いには意味があった。
「足手まといです。ここで行われているのは、本当の戦いですよ。おままごとじゃない」
「でも!」
ビンセントは困惑した。
ポケットの中に今もある名もなき兵士の形見。
イザベラが死んでは、何の意味もない。約束を果たすこともできない。
ずいぶんと無茶をしてくれたようだが、生きていてくれたのは本当に運が良かった。
おかげで、まだまだ戦いの意味を見失わずに済む。
彼女のために、戦える。戦い続けられる。
「ね……? 帰ろ?」
埒が明かない。
ビンセントは拳を握りしめ、唇を噛む。
三つ数え、大きく息を吸い込んだ。
「消えろと言ってるだろッ!! 邪魔だッ!!」
イザベラが身を震わせ、目尻に涙を浮かべた。
「そ、そんな……私は……あなたのために」
「俺はここに居るのが幸せなんだ、と言ったはずです。あなたでは力不足だ」
イザベラは崩れ落ちて号泣を始めた。
「うああぁあん!! そんなひどいよぉ……!!」
「お貴族様はお貴族様らしく、レース編みでもやって舞踏会でも行って、素敵な紳士と恋に落ちると良いですよ。さよなら」
ビンセントは後ろ手にドアを閉じた。
「……さよなら」
「ブルースのばかああああぁあぁぁ…………」
ドアの奥からは、いつまでも泣き声が止まなかった。
ビンセントは胸ポケットから紙切れを取り出す。
「…………」
擦り切れて、ボロボロになった雑誌の切り抜きだ。
近衛騎士団の研修生のパレードの様子を伝える記事。
ひたすら大きく映し出されているのはイザベラだ。
この切り抜きを名もなき兵士から受け取った時、実際に会えるとは思ってもみなかった。
イメージの中で彼女は立派な騎士であり、当初は本人もそうあることを心掛けていたようだ。
ビンセントはそんな彼女に憧れていた。
しかし、一皮むけば夢見がちで可憐な乙女がいるばかり。
等身大の、ごくごく普通の女の子だった。
ここで再び会えた時、本当は嬉しかった。
もう二度と会えないと思っていた、誰よりも会いたかった人だった。
しかし、彼女を抱きしめることはできない。
戦争は激しさを増している。
とてもではないが、生き残る自信は無かった。
イザベラに向けた言葉も、ウソや強がりではない。イザベラのためを思えば、本当にどこかの貴族と結婚して、安全地帯で何不自由ない幸せな生活を送って欲しかったのだ。
しかし、それは見たくなかった。
絶対に見たくなかった。
「…………さよなら…………イザベラさん」
ビンセントは雑誌の切り抜きをビリビリに破ると、風に散らせた。
同じポケットに入れていた、イザベラ謹製の勲章。
オルクからイザベラを守り抜いた時に貰ったものだ。
サイダーの王冠とリボンでできたそれも、一度握りしめると……捨てた。
「…………」
塹壕の壁に背を預けていたヨークと目が合う。
彼は無言でビンセントに歩み寄ると、優しく肩を叩いた。
「ビンセント、泣けるときは泣け。それが一番立ち直りが早い」
「…………!」
ビンセントは膝をつき、ヨーク少尉に縋りついた。
止め処なく涙が溢れ、頬を伝っては地面に吸い込まれていく。
そのまま、一分ほど経ったろうか。
立ち上がって涙を拭う。
「……し、失礼しました」
「気にするな。部下の士気の維持も士官の務めだ。貴様らのやる気がなくては、戦いようがない」
貴族の時代は終わった。今は、平民こそが戦争の主役なのだ。
遠くに飛行機のエンジン音が響く。地上に目を降ろすと、戦車の残骸が視界に入る。
――将来は機械が戦争の主役になる。だったら心も機械化するべきだ。
「すぐには……無理だろうけど」
誰に向けた言葉でもない。独り言だ。