不都合な兵士 その二
降車したビンセントが何気なく上を見ると、木々の梢の隙間から空が見えた。
少し雲のかかった星空だ。
コオロギの声が四方から聞こえるのが心地良い。
晴れているなら気分も良い。問題は雨だ。
ビンセントは、雨が嫌いだった。
塹壕で一番困るのが雨だ。つい数日前までいたリーチェの町は、一度雨が降ると見渡す限り泥ばかりの世界に変わった。
泥、泥、泥……。
飛び交う銃弾、砲弾の雨が無い時でも、雨はひたすら兵士たちの体力と気力を奪っていく。
真夏でも寒さに震えた。
晴れろ、晴れろと恨めしく空を見るうちに、空を見るのが癖になった。
雲が流れ、月が顔を出した。光の線がビンセントを照らす。
晴れているなら気分も多少は晴れる。
森を進み見えてきたのは、いささか古ぼけた屋敷。
明かりは点いておらず、月夜に照らされ逆光のシルエットになっている。
ふと、感じる違和感。静かすぎる。
「ビンセント。お前はここで見張れ」
「はっ。味方の衛兵部隊が見当たりませんが」
ここはテロリストのアジトの筈である。
「余計なことは気にせんでいい。とにかくお前は見張ってろ」
ガーランド隊長の指示で、トラックから少し離れた所に立つ。
木々の間から、洋館の門が見える。
大型のボルトクリッパーで門を壊し、他の十一人の隊員が声も立てずに突入していく。
ビンセントは指示通り周囲を警戒する。
「…………」
あまりにも静かすぎた。
そもそも主力の衛兵部隊はどこに行ったのだ。
森の中で息を潜めているのかと思ったが、そうでもないらしい。
数分後。
すぐ近くで茂みの揺れる音がした。振り向いて小銃を向ける。
「――子供?」
小学生くらいの黒髪の女の子が茂みから顔だけを出して、こちらを見ている。
ビンセントは銃口を降ろした。小声で声をかける。
「きみ、こんな所にいたら危ないよ! 早く逃げるんだ」
少女は右手をこちらへ伸ばした。
「ティッシュー」
「え……?」
「……ティッシュ・ペーパーだよー。もってるだろー? はやくー」
なぜこんな時間に、こんな場所に女の子がいるのか。
あまりの予想外の事態だったが、考えるよりも先に銃撃戦が始まってしまった。
短機関銃の銃声、ガラスの割れる音、幾人もの声。
ビンセントは一瞬迷ったが、少女の保護を優先することにした。
茂みに飛び込むと、少女を抱きかかえる。
「おー?」
「ここは危ない、安全な所へ連れて行くから!」
どうやら用を足している途中だったようだが、目の前で危険に晒されている子供を放置できるほどには、まだ人間を辞めていないつもりだ。
ビンセントが軍に入る前の妹は、ちょうどこのくらいの年頃だった。
現場を離れるのは命令違反だが、すぐに戻って事情を説明すれば良いだろう。
トラックまで連れて行けば、とりあえずは安全なはずだ。
「ヘンタイだー。ああー、わたしはヘンタイの毒牙にかかってあんなことやこんなことをされちゃうんだー。……ロリコンでヘンタイおしっこマニアとか最悪だー、きもちわるいなー」
「黙ってくれ! 銃撃戦だ!」
ビンセントはロリコンではない。
むしろ巨乳好きであった。ロングヘアーをポニーテールに纏めていたりすると最高である。
例えば、例のグラビア記事に出ていた彼女のような。
走りながら、背後に人の気配を感じる。草をかき分けて追ってくる。
「敵か!」
敵だとすれば撃ってこないのが不自然だったが、味方であることを期待するのは楽天的過ぎた。どうやら敵は少数、あるいは一人かもしれない。
一人であればやりようがあるが、思ったよりも敵の足が速い。逃げ切るのは困難と思われた。
屋敷からはまだそう離れていない。
ちょうど良い大木があったので、その陰に走りこむ。
少女を降ろし銃を構えるが、同時に彼らを追ってきた人物が、ビンセントの首筋にサーベルを突き立てた。
「……女?」
梢から差し込む月光が、サーベルを持った女を照らす。
亜麻色の長髪をポニーテールに纏め、琥珀色の強い意志を湛えた瞳がビンセントを睨みつける。
痩せ型で細いウエストにも関わらず、豊かな胸を包んでいる服装は、新聞や雑誌でお馴染みのもの。
「――近衛騎士団……!?」
「う、動くな! この謀反者が! 貴様を逮捕する!」
女が叫ぶ。
よく澄んだ、美しい声だった。
「謀反? 逮捕? 何の容疑で……?」
ビンセントは言われるままに任務を遂行していただけだ。逮捕される謂れはない。
「と、とととぼけるな! 国家反逆罪、不敬罪、未成年者略取、強制ワイセツ、まだまだあるぞ!ちんこを切り落とされたくなければ、お、大人しくしろ!」
「誤解です! 誤解!」
「だ、黙れッ!」
暗闇の中、二人はしばし睨みあった。
風が吹いた。
雲間から月光が差し込み、女を照らす。
「あ、あなたは……!」
彼女の顔をビンセントはよく知っていた。
ビンセントのポケットに入っている雑誌のグラビアページ。
リーチェで共に戦った戦友の形見。
約束。
「な、なにをする!?」
彼女はサーベルをビンセントの首筋に押しつけた。
つつ、と一筋の血が流れる。
「待ってください、話せばわかります! 聞いてください」
ビンセントは両手を挙げ、ゆっくりと立ち上がる。
「ひっ!?」
「俺は陸軍第三連隊の……」
屋敷の二階の窓が割られ、銃を構えた男がこちらを狙っているのが見えた。
ビンセントは思わず女を突き飛ばす。
発火炎が光り、僅かな時間差で発砲音が聞こえる直前、ビンセントは胸に衝撃を受け、吹き飛ばされた。
今回の任務は、わからないことが多すぎる。
発火炎で一瞬顔が見えた。ビンセントを撃った男は、味方のはずのコリン伍長だ。
――なぜ味方を撃つ?
――彼女は一体ここで何を?
答えは出るはずもなく、意識が遠くなっていく。