人でなしの恋 その一
しびれて、体が動かない。
イザベラの視界に最初に映ったのは、ベッドの天蓋。ダブルサイズと思われる。
壁際には交差されて掛けられた二本の剣と、古びたフルプレート・アーマー。
そして、ベッドサイドのスツールに腰掛けるオルク。
「……わ、わらしを……ろうするつもりだ」
私をどうするつもりだ、と言いたかったが、ろれつが回らない。涎が垂れていく。
「おはよう、イザベラ。ベッドは気に入ってもらえたかな? 本当はもっと君の寝顔を眺めていたかったんだけど」
何やら訳の分からないことを言っている。
オルクは立ち上がり、ベッドに腰を下ろした。高級ベッドはきしむ音もない。
イザベラはオルクを睨みつける。自由に動くのは目だけだった。
オルクの手が、イザベラの髪を撫でた。悪寒が走る。
「綺麗な髪だね。まるで天使みたいだ。柔らかくて、艶やかで」
そのまま鼻先に持っていき、目を閉じて息を吸い込んだ。
「……いい匂いだ」
イザベラの胃から、酸味のある液体が上がってくる感覚。本当に気持ち悪かった。
「あんな別れ方は、僕としても不本意だったんだ。あの時の事、許してくれる?」
「……?」
オルクと最後に会ったのは、おそらく王立学院の最後の授業があった日。
おそらくというのは、イザベラ自身は全く覚えていないからだ。
視界の隅でチラチラと動いていたような気はする。別れ方も何も、会話すらしていない。
「ん……? 綺麗な顔が汚れているよ」
オルクはイザベラの頬に伝う涎に気付くと指先で拭い、そのまま指を舐めた。
全身に鳥肌が立つ。
――気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い!
「や……やめろ……こんなことをして、……ただで……済むと――」
「何も言わなくていい。僕らの間に、もう言葉なんていらないからね。ああ、でも声はいくら出しても大丈夫。この部屋は完全な防音で、誰にも邪魔はされないよ」
オルクの手が、イザベラの顎をくい、と持ち合上げ、真っ直ぐに見つめてきた。
――嫌な予感がする。
「あ……う……」
薬品の影響か、魔法陣を形成できない。
魔法が使えない!
やがてオルクは歪んだ笑みを浮かべ、顔を近づけてきた。
「ひっ!」
不気味な粘着質の舌がイザベラの頬を撫で、唾液が糸を引く。
全身に鳥肌が立つのがわかる。心の中は恐怖と嫌悪感で一杯だ。動かない身体に鞭打って、どうにか口を動かす。
「くっ……ころ……せ……!」
――気持ち悪い。気持ち悪い! 気持ち悪い!!
――嫌だ。嫌だ! 嫌だ!!
――誰か、誰か!誰か!!
涙が流れ落ちた。
ふと、瞼の裏に浮かんだのはサラの姿。
イザベラを見て、驚き、そして悲しそうな、同時に蔑んだ表情を浮かべる。
カーターの姿が現れ、両手でその目を塞ぐ。
――そうだ、それでいい。子供に見せられる光景ではない。
ビンセントの姿。とても悲しそうな、死んだような目をして、闇の中へ歩いていく。
振り返ってイザベラを見る。悲しそうでいて、それでいて一瞬だけ、ほんの一瞬だけその目に炎が宿る。そして、すぐにいつも通りの目に戻った。
――そうだ、ビンセントならば掘られても耐え抜くだろう。たぶん。
「……心まで……屈服させられると思うな……この外道が!」
しかし身体は動かない。
「大丈夫だよ、夜は長いんだ」
オルクの唇が三日月のように吊り上がる。
「もう喋れるってことは、薬が足りなかったかな」
オルクは薬瓶を取り出すと、ハンカチに垂らす。
「まあいいや。こっちの薬もあるんだ。すごくエッチな気分になるよ」
「やめ――」
有無を言わさずハンカチはイザベラの顔に押し付けられた。
息を止める。吸い込まないように。
三十秒……六十秒……
「吸い込めば楽しくなるのに」
九十秒……
そろそろ、限界だ。
その時、窓ガラスが砕け、何かが寝室に転がり込んできた。
窓の外に生えている木の枝から見て、おそらくここは三階だ。一体どうやって?
しかし、そんな事はどうでもいい。
今ので気を取られたのか、ハンカチが外れた。思い切り息を吸い込む。
「たすけて!」
それだけ言うのが精一杯だ。
そしてすぐにイザベラは悔いた。騎士たる自分が助けてとは何事だ。
細かなガラスの破片をこぼしながら、震えながらフラフラと立ち上がった男は、ブルース・ビンセント。額から、いや体中が血まみれだ。
イザベラの目に光が灯った。
「恋人同士の逢瀬の場に土足で乱入とは、非常識だな」
「ぐええっ……」
返事の代わりに、ビンセントは口から血を吐いた。どれだけ無茶をやったのだろうか。
ビンセントは倒れなかった。イザベラに向き直る。
「怪我は……ありませんか、イザベラさん……」
ビンセントはニヤリと笑った。
「ここは夫婦の寝室だぞ? プライベートな場所なのだ。平民が、いや他人が入っていい場所ではない。出て行け」
「それは……困りますね……」
本当に嫌だった。怖かった。誰かに助けてほしかった。
自分自身が騎士であることも忘れて祈った。そして、助けに来てくれた。
息を整えながらビンセントは続ける。血だらけの、震える指でイザベラを指差した。
「ほら、今……聞きましたか……? たすけて、って。……確かに言いましたよ……命令されましたからね、従う義務が……あります」
厳密にいえばイザベラは王立学院から研修中、ビンセントは陸軍の所属である。
指揮系統が異なるので必ずしも命令に従う必要はないのだが、その境界は現場レベルでは曖昧だ。
だが、今はそんな事はどうでも良い。
自分を助けに来たはずの男はすでにボロボロで、脚は震え、壁に身を預けてどうにか立っている有様だ。
「イザベラさん……帰りましょう……サラさんとカーターが待ってますよ……」
ビンセントがイザベラに手を伸ばす。
その手はガラスの破片で血まみれだ。イザベラはその手を掴もうとした。
しかし、手はろくに動いてくれない。
「やむを得んな」
オルクがパチンと指を鳴らすと、壁際に飾られたフルプレート・アーマーが動き出した。ゴーレムらしい。
「やれやれ、お人形遊びですか……」




