黒猫ナイトが拾われた日
※「黒猫ナイトの人生体験」の続きです。時系列的には、前作から五年ほど未来の話です。
なぜ僕は、また人間になってしまったのだろうか。
黒いスーツに赤いネクタイをした男は、黒い革鞄を片手に、水溜りに写った自分の姿を注視していた。
ここも、いつもの散歩コースにある細道だから、家からさほど離れた場所ではない。だけど、この姿で帰っては、怪しい訪問販売か宗教勧誘だと思われるのが関の山だろう。下手すると警察のお世話になってしまうかもしれない。どうしよう。
男は腕を組んで思案していたが、やがて腕を解き、覚束ない足取りで歩き始めた。
スーツというものは、こんなに身体を締め付けるものなんだな。毎日、この格好であくせく働かねばならないとは、人間もご苦労なことだな。あぁ、早いところ元の姿に戻らなければ。
男は片手を眉の上で庇にしながら、よく晴れた青い空を見上げた。
そろそろ放課後だな。もう少ししたら、黒いセーラー服に赤いスカーフを巻き、黒いランドセルを背負ったユキが、初等科から帰ってくるだろう。今日もまた「高学年からは男女別だからつまらない」とか何とか、愚痴を聞いてやらねば。
男は歩き出し、細道の角を曲がり、車が行き交う大通りに出た。
*
まだユキが学校に通う前にも一度、同じようなことがあった。きっと今回も、腹が満たされれば大丈夫だろう。
男は道路脇に設けられた石畳の歩道を歩きつつ、視線を左右に走らせていたが、煉瓦造りで壁に蔦が這う店の前で立ち止まった。
ここから出てくる人間は「このリストランテは、雰囲気が最高だ」とか「ここのシェフは、本場で修業しただけあって腕が良い」とか口にしていて、以前から散歩のたびに気になっていた店の一つだ。店の奥から鼻腔をくすぐる香りがしてくるが、僕が近付くと、いつも決まって塩を撒かれてしまうので、一度も中に入れた例がない。でも、今は人間に変身しているから、中に入れてくれるに違いない。
男が店に近付くと、ドアの向こうから白いコックコートに赤いスカーフを巻き、黒いエプロンを着けた小柄な女が出てきた。ドアの開閉に合わせ、カウベルが鳴る。
「いらっしゃいませ。ご予約のお客さまでしょうか」
「いいえ。初めてなんだが、何か食べさせてもらえるだろうか」
「良いですよ。どうぞ、お好きな席にお掛けになってお待ちください」
男は、店の奥へと進んだ。女は押さえていた手を離し、店内へと戻る。また、カウベルがカランカランと音を鳴らす。
*
絵を指差せば注文できるということは、前回で学習済みだ。ただ、今回は店内に他の人間がたくさん居るという点が違うな。賑やかと言えば聞こえが良いが、僕には耳障りな騒音にしか思えない。早く食べたいのに、なかなか自分の料理が運ばれてこないという点も癪だな。
男は窓の外を眺めながら、物思いに耽っていた。
ユキに拾われる前、僕は野良猫だった。寺の本堂の下を塒にしつつ、縁側で休んでる高齢者、ベランダで洗濯物を干す主婦、公園にやってくる子供などからおこぼれをいただく毎日を過ごしていた。おのおのから「タマ」「クロ」「ノラ」などと呼ばれていたっけ。
男は瞼を閉じ、顎に指を当てながら、在りし日の光景を思い浮かべた。
執事の隙を見て逃げ出し、バイオリンのレッスンをズル休みしようとしたユキに掴まえられたときは、何をされるかと思ったものだったな。すぐに執事が追いつかれて「どんな病気を持ってるか判らない」とか「生き物を飼う責任と、いずれ失う悲しみを背負わせたくない」とか言って捨てるように説得されてたけど、「飼わせてくれなきゃ、レッスンをサボタージュし続けるわ」と言って、渋々ながら了承させてたっけ。それで、結局ユキは、そのままバイオリンを休んで、執事の車で僕を動物病院へ連れて行ったんだよな。それからユキと過ごすうちに、飼われるのも満更悪くないと思うようになった。注射やシャワーを我慢しなきゃいけないけど。
「お待たせいたしました。本日のランチ、イカ墨パスタでございます」
女はメニューを説明しながら、男の前に料理とカテラリーを並べていく。
「おぉ、これは美味しそうだ。待った甲斐があった」
「ごゆっくりどうぞ」
女は笑顔と伝票を残し、テーブルをあとにした。
*
おや。……戻ったか。それにしても、あのパスタは絶品だったなぁ。
黒猫が愛用の毛布の上で手足を曲げ伸ばししていると、少女が勢い良く入ってきた。
「ただいま、ナイト。良い子にしてたかしら」
「ニャー」
ふぅ。間に合ってよかった。
少女はランドセルを机の上に置き、黒猫のほうを向くと、両腕を広げて黒猫に呼びかける。
「おいで、ナイト。ギューってしてあげる」
「ニャー」
おかえり、ユキ。
黒猫は少女の腕の中に飛び込み、少女は黒猫を抱きしめる。
「はぁ、このモフモフが恋しかったのよ。ナイトも一緒に学校に行けたら、お互いに寂しい思いをしなくて済むのにね」
「ニャー」
僕もユキに会いたかったよ。
開けっ放しのドアから、執事が台車を押して部屋に入る。
「和んでいるところ恐縮ですが、ナイトさまはシャワーの時間です。家のあちこちに黒い足跡をつけられては困りますからね。まったく。墨汁の残った硯を引っくり返すとは、とんだイタズラ猫でございます」
執事は黒猫の首根っこを掴み、そのまま少女の腕から抜き取る。
「フー」
離せよ、執事。せっかくのユキとのスキンシップを邪魔するな。
「ナイトさまは、のちほど綺麗にしてお返しします。そのあいだに、お嬢さまは宿題を片付けなさいますように」
「言われなくてもするわよ。この前、ママに叱られたばっかだし」
「それでは、私は失礼します」
執事は台車に載せた籠の戸を開けて中に黒猫を入れ、すぐに戸を閉める。そして、台車を押して部屋を出る。中に入れられた黒猫は、籠の隙間から手を出し、戸を開けようとする。そのたびに台車の上の籠が揺れ、ガチャガチャと金属音を立てる。
「フー、ウー」
あぁ、もう。僕の前足が、もう少し長かったら届くのになぁ。
今回は、ここまで。黒猫ナイトと執事のバスルームでの攻防戦は、また別のお話で。