56.初めてのお買い物記念日 2
「残っててよかったねぇ」
紅茶のカップを取り上げて、ジェイドが微笑む。わたしも脇に置いた鞄をちらりと見て頷いた。
イリーナのお店に行った時にはやはり遅くて、クッキーが二袋、あとはマドレーヌが三つしか残っていなかった。店主のイリーナさんはまだ若い人で、つい最近結婚したばかりとかでジェイドとリリーのからかいに頬を赤らめていた。
「うん、それにかわいい人だったね」
イリーナさん、ここより北の国の人らしくて、身長がわたしと変わらないぐらいだったのよね。旦那さんはこの国の人で、二メートル以上ある人だから、並んでいると子供みたいに見える。でも、わたしより年上だって。
「あそこね、もともと旦那さんのお店なんだよ。旦那さんはパン職人で、学院の学生相手におやつになりそうな蜂蜜パンとか、門番さんたち向けの惣菜をはさんだパンとかを売ってたんだ」
「そうなんだ」
言われてみれば、よくあるパン屋さんのショーウィンドウだったなと気が付いた。トングとトレーを置けばそのままパン屋になりそう。
「あら、今も売ってるでしょ? イリーナの店と私たちは呼んでるけど、本当はピリポベーカリーというのよ」
「あー、そういえばそんな名前だったっけ」
ピリポというのは旦那さんの名前らしい。
「それに、イリーナさんってかわいいでしょ? 門兵たちはイリーナさんを見に通ってるんだって」
「あ、それ知ってる。でも、お昼時間の忙しいときは旦那さんが店番してるんだよね」
「そうなのよね。それでも、店の奥でクッキー焼いたりしてるイリーナさんの姿を一目見たくて通う兵士は後を絶たないのよ」
「すごいねえ」
門番、と言われて入口で会った門番さんと隊長さんを思い出す。あの二人もイリーナさん見たさに通うのかな。トレーにパンを乗っけてレジに並ぶ隊長や門番を想像して、思わず笑った。
紅茶のいい香りを楽しみつつ、ケーキにフォークを入れる。
「ここのケーキもおいしいわねえ」
「うん、ほんとにおいしい」
ニャア、とクロが膝の上で催促する。指でクリームを掬い取ってクロの口元に持っていくと、寝ころんでいた状態から起き上がり、嬉しそうにぺろりと舐めはじめた。
「クロ、おいしい?」
「気に入ったみたいね、よかった」
クリームをなめるのに一生懸命で、クロは返事もしない。そっと頭を撫でる。
そういえば、籠手をはめたままの左手で触っても最近は嫌がらなくなった。おかげで抱っこするときも右手だけで抱き上げたりせずに済むのは助かっている。
「うん」
「それにしてもきれいな毛並みね」
「そうなの」
「触ってみてもいい?」
「ちょっと待ってね」
そっと手を出そうとしたジェイドを制して、クロを抱き上げる。指に残っていたクリームを丁寧に舐めていたクロは、わたしの顔をぺろりと舐めた。
「クロ、ジェイドが抱っこしたいって。いい?」
じっと目を見つめると、クロはニャ、と短く鳴いて口の端を舐めた。何回も丁寧に舐めるから、もしかしてクリームでもついてたかしら。
クロの両脇に手を差し込むと、ジェイドの方に差し出した。クロはおとなしくされるがままになっている。
「いいのか?」
「うん、抵抗しなければ大丈夫」
恐る恐る差し出されたジェイドの手にクロをゆだねると、ジェイドは恐る恐る自分の膝におろした。クロはまるで借りてきた猫みたいにおとなしく縮こまっている。
「おとなしいね」
「緊張してるだけだと思う」
そっとクロの頭を触る。特に抵抗しない様子を見て、ジェイドはゆっくりと背中を撫で始めた。
「手触りいいねえ。気持ちいい」
にこにこしながら撫でている。そういえば中庭でもピートを触ろうとしてたけど、ピートに唸られてたっけ。
「それにしてもおとなしいわね。これぐらいの魔獣だと、契約はしてないんでしょ?」
さわさわと触りながら、ジェイドは首に巻かれた白い紐に気が付いて手を止めた。
「これは?」
「学院の許可証だって。上級クラスや先生たちは、パートナーだけあちこち派遣することがあるんでしょ? 契約主がいなくても結界を抜けられるようになるって」
「ああ。そういえば中庭に集まる子たちにもつけてある子がいるわね」
リリーはじっとクロの証に視線を向けながら口を開いた。そういえば、リリーはクロに触ろうとしない。もしかして、魔獣使いの件を気にしてる?
「クロはわたしの仲間……友達だもの。契約とか隷属とかしていないの」
「えっ……本当に?」
二人は目を丸くしてわたしを見た。
「信じられない……」
ジェイドは呟いて、クロの頭に手を乗せる。膝の上で毛づくろいを始めていたクロは、おとなしくなでられてニャ、と声を上げた。
「まあ……確かにこのサイズじゃ契約の意味も分からないかもしれないわね。でも、それでどうしてシオンに従ってるのか不思議ね」
「……リリーは触らないの?」
じっとクロを見つめるリリーに声をかけると、驚いたようにわたしを見て、首を横に振った。
「未契約の魔獣には触らないことにしているの。……シオンを悲しませたくない」
「え?」
「あー……あのな、シオン。リリーが魔獣使いの血筋って言ったろ?」
「ジェイド。自分で説明しますから」
口を開いたジェイドの言葉をリリーが遮る。そして目を伏せてティーカップをテーブルに戻した。
「……わたしの家は古くから勇者に付き従う魔獣使いの血筋なの」
「勇者……」
どきりと心臓が高鳴る。
「といっても、もうその力を持つ者も多くは残ってないんだけど」
「えっ」
「……魔獣を従えて魔族や魔獣を屠る一族だから、魔族や魔王の怒りを買いやすいんだって」
クロを撫でながら、ジェイドは横から口をはさんだ。
「契約済みや隷属されている魔獣は大丈夫なんだけど、未契約の魔獣を触ると支配下に置いてしまうことがあるの」
「支配下って……」
わたしもクロをじっと見つめた。身づくろいが終わったクロは、ぽんとジェイドの膝から降りるとわたしの膝に飛び上がった。
「本当はきちんと力のコントロール方法を学べばいいらしいんだけど、その前に学院に入ったから」
「学院で練習とかできないの?」
しかしリリーは首を横に振った。
「一族の秘法なの。一族でないと伝授できないし、練習って言っても未契約の魔獣は学院にいないもの。それに……魔獣使いになりたくないの」
その言葉は、ひどく重たく聞こえた。言うべき言葉が見つからずに俯くと、膝に乗るクロはわたしを見上げてぺろりと頬を舐めた。
それから――わたしの膝から飛び降りて、リリーの膝の上に飛び上がった。
「え」
「きゃっ」
「なっ」
一瞬のことで、反応が遅れた。リリーは飛び乗ってきたクロに驚いて手で支え――慌てて手を離した。クロは、バランスを崩して落ちかけたものの、リリーの膝に丸くなった。
リリーは膝から降ろそうとしたものの、手で触るわけはいかないとおろおろしながら泣きそうな顔でクロとジェイド、わたしを見た。
「何……? なんで? どうして……」
「リリー?」
「……クロ」
わたしはクロの顔を見つめる。クロもわたしをじっと見つめていた。
でも、わたしとクロのきずなは切れていない。そう、感じる。
「ごめんなさい、シオン。わたし……あら?」
「どうした? リリー」
「……この子、支配できない」
「えっ?」
リリーは恐る恐るクロの頭に手を乗せた。そっと額から耳の後ろのくぼみまで指を滑らせて、嬉しそうに微笑む。
「未契約の子は触っちゃうと否応なく支配下に置いてしまうの。でも、この子は特別なのね」
ニャ、とクロは返事をした後、リリーの膝から直接わたしの膝に飛び移った。
「クロ」
「不思議な子ね。……きっとシオンのための特別な子なのね」
リリーの言葉がわたしにはうれしかった。
正直に言えば、クロがリリーの膝に飛び乗ったとき、驚くよりもクロを失う恐怖の方が大きかった。だから、リリーに支配されないとわかって、ほっと胸をなでおろした。
クロはわたしの従者だもの。
「じゃあ、安心してクロを触れるね、リリー」
微笑むジェイドの言葉にリリーは戸惑いながらも微笑んだ。
「そうね。……シオン、クロに触ってもいい?」
もちろん、と満面の笑みで頷いたのは言うまでもない。




