51.邂逅
「クロ」
金色の瞳が閉じられて、ざわりと胸の内が騒ぐ。
お願い、もう一度目を開いて。その金の瞳でわたしを見て。
あきらめたような、人間臭いため息なんてついてほしくない。
つややかな黒の毛並みを撫でたいのにリボンに阻まれるのももどかしい。
ベッドの上に乗りあがってクロを膝に抱え、そっとリボンの隙間からクロの鼻づらに指を伸ばそうとしたときだった。
不意に白い光に包まれた。
「えっ」
「シオン?!」
アリアとウルクの声が遠く聞こえる。わたしとクロ以外のすべてが真っ白に光りだした。
まぶしい。
足元の感覚がなくなった気がして、反射的にクロをぎゅっと抱き込んで目を閉じる。
まさか、クロを捕らえる罠かなにかなの?
いやだ、クロをどこにも連れて行かせやしない。
腕に閉じ込めたクロが急に重たくなったように感じられた。
手に触れていたリボンの感触がなくなっているような気がして目を開けようとした時、ぺろりと頬っぺたを舐められた。
それから、柔らかい何かが唇に触れた。
「クロ?」
目を開けると、腕の中にいたはずのクロの姿は消えていた。
あわてて周りを見回しても、まぶしいほどの白さで塗りつぶされた空間にはほんの少しの影もない。わたしだけが白以外の色をまとっている。
「クロ! どこにいるの!」
あんなにしっかり抱きしめていたのに、どうして? いついなくなったのかもわからないなんて、そんなはずないのに。
クロを呼びながらどこまでも広がる白い空間をあてどもなく走り回る。
どれだけ広いんだろう、この場所は。学院の地下なのか、それともどこでもないところなのか。わたしが見てる夢なのか。
夢ならいいのに、醒めたらきっと目の前にクロがいて、舐めてくれるに違いないから。
クロ、そばにいてよ。
今までずっと一緒にいたじゃない。
ねえ、お願い。
出てきてよ。
どこにもいかないでよ。
でないと、どこにも行けないよ……。
ボロボロこぼれる涙で前がよく見えない。目元をぬぐいつつ歩いてると、何かにけつまずいてぱったり倒れた。
油断してたせいでとっさにガードする手も出なかった。
「痛い……」
もそもそ起き上がったものの、もう立ち上がる気力もなかった。ぺったり腰を下ろしたまま、どれぐらいぼうっと座ってただろう。
目の前に誰かが立っているのに気が付いた。
黒いブーツにズボンとシャツ。軍服に似た服装の上からマントを羽織っている。
どきりと胸が高鳴った。
「また会えたね、白姫」
黒髪に縁どられた白い顔は見間違えるはずがない。
まさか。
……本当に?
あの時森で会った人。クロを治してくれた人。
その腕の中には黒い塊がもぞもぞ動いている。
「え……」
彼はわたしの前に膝をつくと、腕の中に眠る黒い塊をわたしの方に差し出してくる。そっと手を伸ばすと、見慣れた黒い耳がぴぴっと動いた。
「クロ!」
「もう大丈夫。絡まってたリボンは外したから」
「ありがとう……ございます」
伸ばしたわたしの手にそっと下ろしてくれる。抱きしめたクロはやっぱり少し大きくなってた。
目を開けてほしかったけど、クロはよく眠っているのか耳と尻尾が動くだけだ。柔らかな毛並みに指を通す。クロの高い体温が心地いい。
喉のあたりに指を滑らせると、何かが引っかかった。細い飾り紐のような白い紐が巻かれている。
「これは……?」
「心配しなくていい。それは学院が授けたものだ」
「学院が……」
意味がよくわからなくて顔を上げると、目が合った。柔らかく微笑んでいる彼にドキドキして視線を外す。
なんでここにいるの? というか、ここはいったいどこなの?
それに……思い出してしまった。
人に魔獣は癒せないということ。
「あの……」
「何?」
聞きたいことがいっぱいあったはず。なんでわたしを知ってるの? とか、なんで白姫って呼ぶの? とか、あなたのなまえは? とか。
でも、至近距離にある彼の顔にどぎまぎして言葉が出てこない。
心を落ち着けるためにクロをなでまわす。こうでもしていないと間が持たない。というかわたしの心が持たない。
「どうかした? 白姫」
「あのっ……なんでわたしのこと、そう呼ぶんですか?」
「俺が黒だから」
いつの間にか横に腰を下ろしていた彼は、そっとクロに手を伸ばしてきた。
「そんなこと……」
この世界の人に比べれば彼は白い肌をしている。わたしよりもよほど白いのに。クロの耳をいじる彼の手は、剣を持つせいなのだろうか、白くて大きい。
「そ、それにわたしは姫じゃないし……」
「俺にとっては十分姫だよ」
なんで、そんなこと言うの。会ったのはこれで二度目なのに、最初から姫って呼んでた。
……そりゃ、前世は姫だし、ブランシュってどこかの国の言葉で白って意味だし、間違ってはないけど。
今のわたしは姫でもなんでもない。
「じゃあ、名前を教えてくれる?」
「えっ」
まるでナンパみたいだ。思わず見上げた彼の目は闇のように黒い。髪もつややかな黒だ。吸い込まれる夜の闇のような色。
「シオン……」
「シオン。いい名だ」
言ってしまってから、後悔した。だって、魔族、なんだよね?
本名でも魂の名前でもないから、大丈夫だと思うけど、魔族に名を知られるのはあまりよくないとされているってジャックの魔獣講座で言っていた。
魔獣と契約するときでも本名は使わないとか聞いたっけ。契約魔獣が裏切らないとも限らないって。
じっと見つめていると、クロをなでていた手がわたしの髪に触れた。
ようやく伸びてきた髪は、それでも肩ぐらいまでしかない。こちらの世界では女性は長くのばしているのが一般的だ。だからこそ、少年に間違われたんだけど。
「あの……」
こちらが名乗ったのだからそちらも名乗ってほしい、と口に出すのは結構勇気がいる。
「何?」
「その……名前、を」
「ああ。……クロード」
「クロード。……クロと似てますね」
そう言うと、クロードはそうだね、とくすっと笑った。わたしもつられて口元を緩める。ほんの少しだけど緊張が緩んできたみたい。
ようやく聞けた名前を心に刻み込む。魔族であろうとも、仮にもクロの恩人だ。しかも二回も助けてもらった。
「クロを助けてくれてありがとう、ございます」
「気にしなくていい」
「ここってどこですか? わたし、部屋にいたはずなのに……」
「ああ、ここは聖域。婆……ここの管理人が呼び寄せたんだ」
「聖域?」
知識としては知っている。聖なる者の住まう場所。聖者や聖女、精霊や妖精といった存在は、清浄なる場所でなければ生きていけない。逆に、そういった聖なる者が住まうことで清浄な場になる。
そして、人も獣も魔の者も、必要がなければ立ち入ることもできない。
招かれざる者は入れない。
なら。
クロードは聖域の管理者に招かれた人だってことだ。
わたしは……たぶんクロのおまけで引っ張られたんだろう。きっとがっちり抱き込んでたせいだ。
「あの、どうやったら戻れるんでしょう」
「さあ。……前は管理人が送り返してくれたから、用事が終われば戻してくれると思うよ」
「用事」
呼ばれた理由もわからなければ、わたしがここでするべきことも思い当たらない。
わたしがおまけだというなら、クロにかかわることだろうか。まだ目を覚ましていないせい?
「シオン、つらくはない?」
「え?」
「泣いていただろう?」
クロードは髪の毛から手を離してわたしの頬に触れた。涙のあとが残っていたみたいで目じりをぬぐわれる。
「だい、じょうぶです。……泣いてたのは、クロとはぐれたからで……」
「そう。……もし、困ったことがあったら俺を呼んで」
びっくりして顔を上げると、クロードは柔らかく微笑んでいた。
「どうして……?」
「君のことが気になるから。――白姫」
風が吹いてふわりと髪の毛が揺れる。クロードは視線をあちこちにさまよわせた。
「どうやら時間切れだ。――また会おう、シオン」
頬を撫でていた手が離れたと思ったら、反対側の頬に柔らかいものが触れた。
驚いて振り向くと、クロードの姿はゆらりと透けて消えるところだった。
「さあ、あんたもお戻り」
不意に老婆のようなしわがれた女性の声が耳に届いた。と同時に、真っ白だった世界が色を取り戻した。




