50.アリアとリボンと
アリアがわたしの部屋を訪れたのは夜半過ぎだった。
一度部屋に戻ったウルクと一緒にやってきた彼女は、とても疲れて見えた。
「ごめんなさいね、こんな時間になって」
「いいえ。どうぞ掛けてください」
二人にベッドを明け渡すと、お茶の準備をする。先生たちの寮にはミニキッチンが付いていてちょっとうらやましい。
コップは備え付けのが二つあったから、それで二人の分を入れる。わたしのお気に入りのカップも何もかも、部屋に置きっぱなしだもんね。
「ありがとう」
「いいえ」
そういえば、明日お買い物に行くって言ったけど、行って問題ないのかな。貴重品は全部身に着けてたからお金はあるんだけど、まずはカバンを買わなくちゃ。
「それで?」
ウルクが話を促す。ということはウルクもまだ話を聞いてはいないんだ。
「どこから話せばいいかしら。……ええと、まず、同室のテイルノールは今のところ見つかっていません」
「……はい」
「学院の敷地内にいればすぐわかるようにしてあるけど、今のところは反応はないわ。もしかしたらすでに敷地外に出ているのかもしれない」
「そんなに簡単に学院の結界って抜けられるんですか?」
仮にも王宮の壁の内側にある施設だ。そう簡単に抜けられては困るはずなのに。
アリアは当然のように首を横に振る。
「今の学院の結界に回されてる魔力は、この間シオンが魔石に充填したアレを使ってる。ぎりぎりで維持してた時とは硬度が違うはずだから無理だね」
「ええ、ウルク先生のおっしゃる通り。でもそこをすり抜けて出て行ったとしか考えられないの。でなければ、どこかに隠されている」
「学院の敷地内にはいろいろあるからなあ。……探すのは結構骨だろう」
「でしょうね。今、事務局長が保護者に連絡を取っているところだけれど、行方知れずになったとは言えないから、苦しいところね」
「行方知れず……」
同室になってからまだそれほど日は経ってないし、冷たくあしらわれたことしか記憶にない。それでも誰かが理由もなくいなくなった、それも身近な人間が、となるとやはり動揺はする。
学院に入ったら、友達ができるだろうか。
二人部屋と聞いて、ドキドキしたのは嘘じゃない。
身分にとらわれてはいたけれど、いつか見た小説のようにいずれは言葉も交わして仲良くなれるんじゃないか。
そう思ってた。
だから、何か肩透かしを食らったような喪失感を感じる。
「それから、部屋の中から用途不明の護符が出てきたの。シオンは知ってる?」
「え?」
アリアは四角い陶器のようなプレートを差し出してきた。表面はすすけて割れ、書かれていた文字なのか魔法陣なのかはもう判別できないが、魔具であるのは感じ取れた。
「初めて見ました。どこに置いてあったんですか?」
「テイルノールのベッドの足元と枕元にそれぞれ二つずつ。おそらく結界のようなものを構成していたんだろうな」
「部屋の中で結界ですか? 就寝中に誰かに狙われたりとかしていたんでしょうか」
「もしそれを危惧してテイルノールが自身で置いていたのだとしたら、その『誰か』はシオンってことになるけど」
ウルクの言葉にわたしは眉根を寄せる。部屋の中で見た彼女の態度は一貫していたし、何かを恐れたような雰囲気もなかった。
それに、わたしを恐れる理由なんてないよね? 彼女のほうがクラスは上だったわけだし。
「強制執行したときには気が付かなかったわ。だから後付けで置いたものだろうと思うの」
「わたし、そんなに嫌われてたんでしょうか」
「ただ単に、生活空間にほかの人間がいることが怖かったんだろうと思うよ」
すすけて読めない文字が気になって、アリアの手の上からひょいとプレートをつまみあげる。
「あっ!」
「シオン、すぐ手を放して!」
「え?」
アリアの声におどろいて顔を上げたとたん、右手の人差し指と親指で持ち上げていたプレートから黒い染みのようなものが雲のように浮いてきた。
「何よこれ……ただの結界具じゃないわね」
「シオン、早く手を放して!」
「やってる!」
右手が動かない。プレートが指から離れない。ぶんぶんと腕を振ってみても、指ががっちりと固定されてしまっている。
「や、やだっ、なにこれっ」
ぞわりと背筋が凍る。
浮かび上がってきた雲は真っ黒で、胸がざわざわする。
魂を凍りつかせるほどの悪意を思い出して体が硬直する。
その時、ニャ、と短い声が聞こえた。
アリアの背後、ベッドに丸まって寝てたはずのクロが、あたしの右手に噛みついた。
「痛っ」
「シオン!」
わたしの手から落ちたところでアリアが短く呪を唱えて、プレートと黒い雲は白い結界に閉じ込められた。
「大丈夫? 深呼吸して」
「だ、大丈夫……」
目を閉じて深呼吸をして、目を開けるとウルクの顔があった。
倒れかけたわたしはウルクに支えられてたらしい。
「ご、ごめんなさい」
「ほんと、寿命が縮んだよ。……今後は怪しいものには触らない。触るときには十分注意する。いい?」
「は、はい」
まだ心臓はバクバク言ってるけど、ウルクの手の温かさにゆるゆると緊張がほどけていく。
「私も注意が足りませんでした。ごめんなさい、シオン」
「いいえ、わたしが迂闊だったので……あ、クロは?」
「そこで拘束されてるわ」
噛まれた右手に手をやると、ぬるりとした感触があった。これは血だろうか。確かにあの時噛まれた感触はあった。でも、そのおかげで動くようになった。
「クロ」
クロはベッドの向こう側で小さくなっている。抱き上げようとしたけれど、左手には相変わらず威嚇してくるので右手を差し出す。
前に首のリボンに入れられていた防御用の魔法はガルフに取り除いてもらったはずだけど、なぜかクロは真っ黒いリボンで拘束されている。
わたしのほうに顔を向けようとするが、何かが引っかかっているのかぐるぐると喉を鳴らすばかりで身動き一つできない。
「なんでっ、これ外してくださいっ」
「野良魔獣は放置しておけないの。それにあなたを襲ったわけだし。飼い主の血の味を覚えた野良魔獣は最も危険だわ」
アリアの冷たい言葉に何かが切れた。
これは怒り? それとも悲しみだろうか。
「クロは野良じゃないですっ! ちゃんとわたしのリボンをっ……」
振り向いたクロの首には、あのオレンジの紐がなかった。
「どうして……」
「リボンならここにあるわよ」
ウルクがベッドから拾い上げたのは、黒い毛並みに映えるオレンジと白の組み紐だった。ガルフが閉じて開かなくしたはずの紐は、一本になってだらりと垂れ下がっている。
「おそらく、シオンの危険を察知して飛び出したんだろうね」
「なんで、リボンが……?」
「ごめんね、シオン」
ウルクがそばにやってきて、そっとわたしの頭に手を置く。
「あたしたちはね、クロは見かけ通りの魔獣じゃないと思っているの。だから、リボンに一つだけ制限を追加していたの。小さい魔獣だからこれから成長していくのは当然だけど、予想される成長を逸脱した力の発現があったとき、リボンが外れるように」
「え……」
どういうこと?
「魔獣はたいていの場合、大きさと知能が比例するのよ。頭の小さな魔獣は大型の魔獣に比べると人語の理解も悪いし、意思疎通も難しい。でも、クロはこのサイズでシオンの言葉を理解してる。それ以上に、こうやってシオンが危ない時には守ろうともするでしょう? 規格外すぎるの。本当はもっと大きな魔獣か、魔族の変化だとしか思えない」
わたしはいやいやをするように首を横に振り続ける。
そんなはずない。クロはあの森で出会った時からこのサイズだし、ただの猫だもの。
「だから、万が一のことを考えて仕掛けをしておいたの。……シオンの知らないところで。もちろん、クロの目の前で話しながら仕掛けをしたんだもの、クロ自身も知ってるわ。知っていて――あえてシオンを助けた」
ウルクは陰に隠れたクロを持ち上げた。リボンでぐるぐる巻きに拘束されたままのクロを、ベッドの上に下ろす。
「バレたらどうなるかなんてわかってたはずなのに。仮契約も隷属の首輪もしていないのにここまでシオンに尽くす魔獣は見たことがないわ」
「クロ……」
リボンを何とか外せないか、と手を延ばす。
「……クロを放して」
「シオン」
「クロはわたしの仲間なの! 契約も隷属もしない! しなきゃだめって言うなら、出てく」
ウルクには前にも話した。……わかってくれてると思ったのに。
リボンごとクロを抱きしめる。ああだめだ、もう堪えられない。
目からぼろぼろと涙がこぼれた。
クロがいない学院になんていたくない。
「……あなたはどうなのかしらね、クロ。ここまで言われたら男冥利に尽きるってもんだろうけど。これ以上シオンをだまし続けるの?」
ウルクがクロに語り掛けているのが聞こえる。
クロがわたしをだましたりするはずない。だましてるんならなんでこんなところまでついてきたの? リボンのせいで死にそうな目にまであったのに。
そんなことどうでもいいから、このリボン、はずしてよっ!
そう怒鳴りたいのに、涙で声が言葉にならない。しゃくりあげながらクロを見ると、クロのまんまるな瞳がわたしをじっと見ていた。
瞳孔がまんまるく見開いてて、虹彩が金色で、吸い込まれそうなほどきれいな目。
どれぐらいじっと見てただろう。
涙はまだ流れ続けてたけど、しゃくりあげるのは止まった。
クロはふーっと息を吐くと目を閉じた。
※次回、ついにクロが正体を明かす――――!
かも。




