閑話:吟遊詩人の日常4
事務局の扉をノックするとしばらくあって鍵を開ける音がした。
夜半でだれも寄り付かない場所ではあるが、その分静まり返ったホールに響く金属音に背筋をひやっとさせられる。
静かに開いた扉から覗いたのは緩やかにウェーブのかかった赤毛。
事務員の制服に身を包んだ彼女はちらりとクラウスの背後に視線を巡らせてから彼を招き入れた。
事務局の部屋のあかりはすべて落とされていて、彼女の席であろう場所のみ、卓上ランプがついている。
扉を閉じ、鍵を閉じる音がするとクラウスは彼女を腕の中に抱き込んだ。丸眼鏡をかけた彼女はクラウスより頭一つ小さく、抱き込むと髪の毛からふわりと花の香りが鼻腔に満ちる。
「遅くなって悪かったね」
「ほんとよ。もしかしてほかの女のところに……んんっ」
上を向いた彼女の唇を己のそれで塞ぐと、こわばっていた女の腕から力が抜けた。自分の背中に回された彼女の腕を感じつつ、右手で髪の毛をなでては口づけを深くする。
さくらんぼのような彼女のつつましやかな唇がしっとりと濡れて赤く花開くころには、彼女はクラウスに体を預けるようにしなだれかかっていた。
「ああ、リィン……わたし……」
「やっぱり、君の声は色っぽいね」
羞恥にほほを染めたポーラをクラウスは見降ろす。
普段は丸眼鏡に野暮ったい事務員服でひっつめ髪、適齢期も若干過ぎて化粧も装いも簡素な彼女は、同僚の事務員たちからも一目置かれる『吟遊詩人でもよけて歩く』程の堅物だ。
事務員同士の恋愛は禁止されているわけではないが、職場でいちゃつくと『職場は神聖なもの』とポーラの厳しい叱責が飛んでくる。
その彼女が、自分の職場ではしたなくもクラウスに体をすり寄せているのだ。
「リィン……もっと……」
「しっ、声が大きいよ」
そう窘めた時、隣の部屋からカタンと音がした。びくりと身を震わせたポーラに、クラウスは動きを止めた。
すでに職員は全員帰宅していて、残っているのはポーラだけのはずだ。
「隣って事務局長の部屋だよね?」
耳元でそっと囁くと、凍り付いたポーラは声もなくこくこくと頷く。
足音は聞こえないが、このままここで続けるわけにはいかない。
「ポーラ、帰りなさい」
「え……」
腕の中のポーラの目をじっと見つめて、クラウスは言葉に魔力を乗せた。
「今日のことは忘れて先に帰りなさい。でも約束は忘れないで」
「やくそく……」
ポーラの目がとろんと半分伏せられる。
「明日。待ってるから」
ポーラはこくりと頷くと、クラウスから体を離してカウンターの中の自分の席に向かった。クラウスは、明かりの当たらない暗がりに身を潜める。。
席に戻ったポーラは頭を振るとおろしたままの髪の毛を束ね、荷物を取り上げてランプを消した。そのまま扉から出て行って鍵がかかる音がすると、クラウスは息を吐いた。
人が動く気配がする。隣の部屋に誰かいるのは間違いない。こんな時間にいるのは泥棒でなければ事務局長だ。
着任したときに顔を合わせただけだが、何を考えているのかつかみどころのない男というのがクラウスの彼に対する第一印象だ。
ここで魔法を使えば痕跡も残るし侵入していたこともすぐにばれるだろう。面倒なことになるのは間違いない。
それよりは。
気配を消していたクラウスは、机に歩み寄ってランプを灯すと、隣の部屋につながる扉に歩み寄った。
扉のすぐ向こう側に明らかに人の気配がある。
クラウスは人好きのする笑顔を浮かべ、扉をノックして扉を開けた。
目の前には、扉を開けようと手を伸ばした姿で固まる事務局長が立っていた。
「こんばんは、事務局長。いらっしゃるなら声をかけてくださればよかったのに」
目を丸くした事務局長にくすくすと笑いながら流し目を送ると、ますます目が見開かれ、頬に朱がさした。
「わたしは、そういうのは好みませんので」
かすれた声で答える事務局長の喉がごくりと動いたのを見逃さずにクラウスは笑みを深めた。そういうの、というのは男女の睦言を盗み聞きすることだろうか。
「そうですか。それは残念。ではどういうのがお好みですか? よければぜひお聞かせください」
「何故……」
見開かれていた目が眇められた。ずり落ちた眼鏡を外すと胸ポケットにしまった。
年齢ではもう五十にはなっているという噂の事務局長だが、銀縁眼鏡をはずした姿では、三十代でも通りそうだ。動きの端々に若さがにじみ出る。
「ただ興味があるだけです」
「いえ、そちらではなく。……何故、彼女を?」
クラウスはおや、と片眉を跳ね上げた。
「真面目で堅物、吟遊詩人もよけて歩く、という評判を聞きましてね。……ほら、私はもともと吟遊詩人ですし、そういううわさを聞いて興味がわいたもので。ところが実際に話をしてみれば知識は豊富だし、話も面白い。学院の男性諸君がどうして彼女を堅物だからという一点で女として見なかったのかが不思議でなりません」
「では、あなたのほうから声をかけたんですね?」
「ええ。……もしや職場内での恋愛は禁止でしたか?」
「いえ、そうではないのですが。……そうですか。彼女の両親から彼女をお預かりしている身としては、つまらぬ男に引っかからぬようにと気を配っていたもので」
そう答えた事務局長の唇は静かに吊り上がった。
クラウスも微笑みを浮かべた。
ほとんど接触もなく、つかみどころのなかった事務局長だが、彼女一人のことでこれほど態度を変えるとは思ってもいなかった。
しかも、自分のことをつまらぬ男、と切り捨てた。
売られた喧嘩は買おうじゃないか。
「ああ、成程。事務局長殿にとっても大切な方でしたか。ではあらかじめあなたに許可をいただけばよろしいですか?」
「何を?」
「明日、彼女を我が家に招いているもので。ほら、寮の壁は薄いでしょう?」
「……彼女が承諾したのならば、私の許可は不要でしょう? 立派な大人なのですから」
クラウスの言葉に事務局長は眉根を寄せたが拒絶はしなかった。
「では、明日一日ポーラをお借りします。夕食までにはお返ししますから。……もし気になるとおっしゃるのでしたら、事務局長殿もご一緒にいかがですか?」
「何を……」
「先日行った初級クラスの共同生活実験について、二回目に向けて彼女といろいろ打ち合わせをする予定でして。子供たちの食事などの世話をお願いしている女性も招いています」
「打ち合わせ……?」
事務局長の怪訝そうな目に、クラウスは頷いた。
「ええ。……休日に呼び出すのは申し訳ないかと思ったのですが、真面目な彼女に時間を作ってもらうにはこれしかないかと。……おや、どうかなさいましたか?」
くすくすと笑うクラウスの目の前で、事務局長は顔を真っ赤に染めていた。
彼女を呼んだ理由を勘違いしてくれたようだ。もちろん彼女とはそれ以上の肉体的な打ち合わせもしたいと思ってはいるが、あくまでもそれは次の一手への布石だ。
「い、いや。すまない。てっきり……」
「ああ、もちろんいずれそういう仲にはなりたいと思っていますよ?」
さらりと言ってのけると、事務局長の顔が蒼白になる。それほど彼女に思い入れがあるのなら、手元に引き留めておけばよかったものを。
「君は……真剣に考えているのかね?」
「何をです?」
「彼女との……将来についてだ」
「さあ、どうでしょう。……僕は吟遊詩人ですから」
「真剣でないのならば手を引け」
ふいに事務局長の顔が引き締められたかと思うとまっすぐにらみつけられた。
「おや、それはご命令ですか?」
「……彼女は貴様が触れて良い女性ではない」
「学院内に身分の差はないんじゃなかったですかね。……そんなに大事なら、あの年になるまで放っとくなよ」
「貴様っ」
胸倉をつかみあげられた。
「それとも、あなたも身分を気にして手を出せなかったクチですかねえ? 殿下」
そう口にしたとたん、拳が飛んできた。あえてよけずに受ける。魔王サマのに比べりゃ蚊が止まった程度のものだ。
「あれ、ほんとに殿下なんですか? カマかけただけなのに」
「貴様っ、何者だ」
「俺はただの吟遊詩人だよ。今は学院の教師。……さて、あなたはどなたです?」
口調をあらためて語り掛けると、事務局長は手を放して凍り付いた。
◇◇◇◇
壁に背を預けてうなだれたまま動かない事務局長を尻目にクラウスは部屋へと足を踏み入れた。
掴みかかられるかと予想していたが、その気力すらないようだ。
部屋の中はまだ煌々と明かりがついていて、部屋の中を観察するのには十分だ。
足の長い深い赤の絨毯に赤ベースの重厚な什器。本棚もソファもしっとり落ち着いた深い赤で統一されている。
本棚をくるりと見まわすと、目当ての書類はすぐに見つかった。ファイルを気のなさそうなふりをして抜き出し、パラパラとめくっては返す。
それから事務局長の机に無造作に置かれた書類をぺらりとめくり、ソファに体を沈めた。
事務局長はとみればまだ壁際に佇んでいる。
「そういえば学院長にはお会いしたことないんですけど、どこにいらっしゃるんですかね?」
「……学院長はめったに出てこられない」
「そうですか。じゃあやっぱり実際の運営はあなたがしてるんですね? 殿下」
「その呼び方はやめてくれ」
「……ではなんとお呼びしましょうか?」
「好きなように呼べ」
のろのろと顔を上げた事務局長は、クラウスの座るソファの向かいに移動してくると、うなだれたまま腰を下ろした。
だが、上から命令することに慣れた者の言い回しは変わらない。
「リィンカレイド様とでも呼びますか?」
「なっ……!」
事務局長は顔をゆがませてクラウスを凝視する。その表情にクラウスはにやりと口元をゆるめた。
「あ、お嫌いでした? この名前。僕が吟遊詩人で演るときによく使う名前の一つでしてね。さる王国の王弟君と同じだとか」
「何、を……」
「ポーラも気に入ってくれましてね。リィンと呼んでくれるんで」
「くっ……」
こぶしに握られた両手が白い。
「まさか、その名でポーラを口説いたのか……」
「ええ。どうやらポーラもこの名前に思うところがあったみたいで、すんなり受け入れてくれましたよ、僕のこと」
それは誰を思ってのことだったのか。ポーラがクラウスをリィンと呼ぶときの彼女の目はクラウスを通して別の者を見ているのは明らかだった。
「あれほどの才女がどうしてこんなところでくすぶっていたのか、実に不思議だったんですが、あなたがそうさせてたとはね。……あの野暮ったい制服も髪型も、ぜんぶあなたのお仕着せだとか」
「……制服は私が赴任してくる前から変わっていない」
「だからですよ。古臭いデザインを変えようとしなかったんでしょう? 女の子たちが文句言ってましたよ」
「それはっ……」
事務局長は言葉に詰まって顔を赤らめた。
「まあ、体の線を極力隠したデザインですし、あなたが隠したかったのはわからなくもないですけどね。ポーラは実に美しい体の持ち主だから、今風のデザインに変えていたら今まで売れ残ってはいなかったでしょう」
「貴様っ……」
「だから女子職員の定着率が低いんですけどね。……ああ、ハンナから伝言です。『いい加減、寮のお風呂を修理するか建て直してください。初級の子供たちと一緒に入るのはいやです』だそうですよ」
「なっ、なんでハンナからっ」
ハンナもポーラと同じく事務局で働く女の子だ。魔法が苦手なのだが事務能力は高いことから採用されたと本人から聞いている。
「貴様、ほかの女性たちにも手を付けているのかっ」
いきり立つ事務局長に、クラウスは笑みを返した。妖艶な色気を振りまきながら、目は笑っていない。
「吟遊詩人ですから、望まれれば。……ああそういえば、この間ご紹介いただいた件ですけど、あの場にいたのはどなたです? ぜひうちの宴会にとお誘いを受けたんですが、どちらの方かがわからなくて」
「えっ……あれは、私も知らない……」
クラウスの言葉に事務局長は視線を躍らせた。
どうやら他言無用と事務局長も口止めされているのだろう。だが、クラウスにとっては飯の種である。
「それは残念。何を話してらっしゃったのかはよくわからないんですけどね、夫人や娘に引き合わせたいと言われたもので。こちらの連絡先など渡してませんから、そのうちあなたのところに連絡がいくんでしょうねえ?」
「本当に知らないんだ。……もし連絡があれば知らせる」
「そうですか、わかりました」
クラウスが矛を収めてにっこりと微笑むと、疲れ切ったように事務局長はソファに体を預けた。
「……まさか彼らにもその名前で名乗ってはおるまいな」
「さて、どうだったでしょう。宴にいた方たちは僕には全く興味がなかったみたいでしてね。始まりのあいさつすら要らぬといわれましたんで、名乗りすらしなかったように思いますが」
「そうか、ならいい」
事務局長はふぅと深くため息を吐く。
どうやら『リィンカレイド』という名前が独り歩きするのを恐れているようだ。
「さて、では僕はこれで。明日もしいらっしゃるなら先に連絡をお願いしますね。食事の準備がありますから」
予定していた情報は手に入ったし、明日は館に客が来ることをコルネリアに伝えておかなければならない。
次回の初級クラスの『お出かけ合宿』はもうじきだ。準備を進めていかなければ。
「待て」
戸口まで歩いたところで声がかかった。
振り返れば、座り込んでいると思っていた事務局長はクラウスのすぐ後ろにまで来ていた。
憤怒の形相というのはこういうのをいうのだろう、目を吊り上げ、口の端を押し下げた事務局長はぎろりとクラウスをにらみつけている。
「ポーラを……泣かせるな」
「よく言いますよ。……大切に思うなら行動にでたらどうですかね? 学院の中では身分の差は関係ないんでしょう?」
「貴様がっ……手を出しさえしなければ……いずれと思っていたのだ」
「人間の寿命は短い。待ってる時間なんてないと思いますけどね」
「……明日、行ってやる。場所はポーラに聞けばよいのか?」
言いたいことをぐっと抑えたのだろう。眉間にしわを寄せた事務局長は拗ねた男にしか見えない。
「ええ、お待ちしてますよ。お二人でおいでください」
難しい依頼だった。思ったよりも手間はかかったが、これで諸々うまくいくだろう。
クスクスと笑いながら、クラウスは部屋を出て行った。




