閑話:魔王閣下の日常 9
今日は昼からガルフの講義があるとかで、俺もピートもヴィルクも中庭に放置されている。
ほかにも学院内に魔獣がいるのは気配でわかるが、今のところ庭で遭遇したことはない。
ピートは庭の奥、芝生の整えられたエリアで体を伸ばしている。日がよく当たる場所で日向ぼっこというところだろう。
ヴィルクはと見れば、庭に植えられた幹の太い木が気に入ったのか、目を閉じたままじっとしている。
猫は両方から適当に離れた場所のベンチを陣取る。
水盤でもある噴水が近くにあって、涼やかな音が眠りを誘う。
「こんなところにいたのか」
聞きなれた声に頭をもたげると、目の前を黒いローブが通り過ぎた。ジャックだ。
くるる、とヴィルクは喉を鳴らしたが、下りてはいかない。
ジャックはもともと騎士だ。彼女の護衛とはいいながら、ガルフの講座内容には興味が持ちにくいのだろう。
そばのベンチに座ろうとして、猫に気がついたようだ。寄って来ると俺の横に腰を下ろした。
「よう、クロ。元気か?」
ニャア、と返事をしてやると、のどの下に手が差し込められた。
「すっかり大きくなっちまったな。そのうちお前もピートぐらいでかくなるのか?」
喉を鳴らして体を伸ばす。今日は午後の講義がないから時間はたっぷりある。
適当にあしらいながら目を閉じると、彼女の心の動きが手に取るようにわかる。ガルフの見せる魔具にわくわくしているらしい。
あれ以来彼女とはつながったままだ。一方通行だが、彼女を見守るには実に都合がよかった。
ジャックの手が喉から頭に移り、載せられた手がぴたりと止まった。
「お前、人になれるか?」
目を開けると、ジャックは笑みを消して猫をじっと見ていた。猫は体を伸ばしてあくびを一つすると、体を起こした。身づくろいをする。
何を知っているというのだろう。
俺が――猫が人型を取ったところを見られでもしたのだろうか。
だが、俺が覚えている限りではそんなへまはやらかさなかった。
だとしたら――機会は一度しかない。
俺が猫との接続を完全に切ったあの時。
戻れるかどうかわからなかったあの時、戻った猫の体はでかくなっていた。
彼女の力を浴びたらしいことはわかった。
が、それで何が起こったのかはわかっていない。
あの場にいた三人は知っている。
その一人であるジャックが、猫に人になれるかと聞くということは。
――俺のいないところで猫の体が力を受けて膨らんだ可能性がある。
ジャックのこの態度と言い、ウルクやガルフの様子と言い、その可能性は高い。明らかに警戒されている。
人になれる魔獣を人は魔族と呼ぶ。
魔族になれる者はほんの一握り。――かつてならば、魔王の血を飲んだ者のみだったろう。今は濃い魔力を得るのにほかの手段がある。ゆえに、それほど一握りでもなくなっているのだが。
そういう意味合いでは、クラウスは魔族と言えるのだが、クラウスは魔族にしなかった。
あれはただ命の長い、不死の存在でしかない。
それ以外の能力をクラウスは欲しがらなかったな、と思い出す。
死に瀕しながら、見られるはずだった未来を見たいと願った。
「ほんとにお前が喋れればなあ」
ジャックの手が離れていく。身づくろいの終わった猫は顔を上げる。
日が陰ったように思って頭を巡らせると、ジャックが立ち上がったところだった。
「おや、休憩ですか。ジャック先生」
こちらを向いて立っているジャックの後ろから声が聞こえてきた。聞き覚えのある声。
「ああ、クラウス先生。お疲れのようですね」
「ええ、子供の相手は大変です。時折息抜きをしないとね」
「そういえば初級クラスの担当でしたね。お疲れ様です」
どうやらすでに顔見知りになっているようだ。そのうち彼女との接触もできるだろう。
「じゃあ仕事があるんで俺はこれで。クロ、じゃあな」
ぽん、ともう一度頭に手を乗せてジャックは中庭を出ていく。
ジャックを見送ったクラウスは向かいのベンチに腰を下ろした。猫はもう一つ大きく伸びをするとベンチを下り、クラウスの隣に飛び上がった。
「珍しいな、寄ってくるとは」
ぐるぐるとのどを鳴らしながら横に丸くなる。ここに監視用の魔具が置かれていることは気がついていたから語り掛けることはしない。
「俺も魔獣のパートナー欲しいな。……俺に乗り換えない?」
疲れてるんじゃなかったのか。
まるで女を口説くときのように色気丸出しで語り掛けてくる。思わず笑いそうになって、大あくびをする。
『おいおい、そいつは魔王サマだぜ? わかって言ってんのかねえ、こいつ』
木の上から声が飛んでくる。そういやこいつらにもクラウスのことは話してなかったか。
『こいつは俺の部下だ。勝手に手ぇ出すなよ』
ヴィルクと、それから少し離れたところに寝転んでいるであろうピートに向けて短く吠える。
『はぁ? あんた部下いたんだ。へーぇ。じゃあそいつも魔族か』
『いや、人のままだ。不死だがな』
『俺らのことも紹介しといてくれよ。なんかの縁だしなぁ?』
遠くからピートが唸り声を返してくる。
ちっと舌打ちすると、俺はクラウスの手をざりっと舐めて噛みついた。
「いてっ」
牙を突き立てた二つの穴から血が染み出す。ぺろりと舐めとると傷はきれいに消えた。
『これで一時的声が聞こえるだろ。木の上にいるのがジャックのパートナーだ。ヴィルク。あっちの芝生で寝てるのはウルクのパートナーでピート。紹介しといたからな』
『さんきゅ。よろしくな、先生よ』
クラウスには聞こえないのに律儀に唸り声を返してくる。
「わかった。よろしくな。今日は早く帰れるかな」
『そうか。……じゃあ隠れ家で待っている。いろいろ話したかいことがある』
返事の代わりにクラウスは頭を撫でる。
くるりと横で丸くなると、猫は目を閉じた。
◇◇◇◇
「で? 話って?」
夕刻、隠れ家にやってきたクラウスは少しせわしない様子だ。いれたばかりの紅茶をカップに注いで渡すと、手前のソファに腰を落ち着けた。
「それよりうまくジャックと接触できたようだな」
「え? ああ。初級クラスの見学に来たんだよ。もう一人の講師が講義中は暇なんだろ? 初級クラスでどんなことしてるのかとか、子供たちの様子とか、介助員の女の子たちの様子を見て帰ってった」
「へぇ。ジャックがね」
俺も自分のカップを手にソファに戻る。
「魔獣や魔族に関しては詳しいらしいな。……もともと王国騎士団の一員だったね」
「ああ、そうだ」
うなずくとクラウスは短く口笛を吹いた。
「立ち居振る舞いですぐわかったよ。俺のほうは吟遊詩人が生業だと告げたら意外な顔をされた」
「まあ、演じてるときのお前は普段とはまるで別人だからな」
「そうなるように心がけてるからね。で? 剣がどうのって書いてただろ」
「ああ、お前に聞きたかったんだ。剣にかけられた呪いを解く方法」
「呪い、ねえ。魔王サマが恐れるほどの呪いがこの世にあるのか?」
揶揄するようなクラウスの口調に、ぎろりと睨む。
「今の俺なら恐れはしないがな。……前代魔王の呪いとなると、手ごわくてな」
「そりゃ大変だ。話してくれ」
俺はリドリス領主の王都にあるセカンドハウスで見た剣のことを余さず話した。
しばらくクラウスは眉根を寄せて考え込んでいたが、やがて顔を上げた。
「前代魔王を倒した剣は当時の王家で保管してたはずだけど、たぶんどこも持て余したんだろうな。あんたの言うように前代魔王の呪いがかかってて、結界で封じていても染み出すほどの瘴気を発してるっていうんならなおさらだろう。個人がどうにかできるレベルのもんじゃないはずなんだけど」
「ああ。そうだな」
それをなぜウィレムが持っていたのか。エランドル現王が預けたものかもしれない。もしくは、ユーティルム王家に伝わっていたか。
「で、その呪いを解きたいわけ?」
「解けるものならな。無理なら剣をどこかにやるしかない」
「人にゃ持ち歩けないシロモンなんだろ? ならやっぱりあんたがどうにかするしかないだろ。魔王サマ」
皮肉たっぷりの言い草に俺はクラウスをにらみつけた。
「睨むなよ。事実だろ? あんた以外に前代魔王の呪いの影響を受けない魔族なんかいるか?」
「俺でも影響が出ないとは限らないぞ」
「ならだれにもどうにもできないだろうな。……それ、リドリス領主にはなんとかできるとかいう落ちじゃないだろうな」
「わからん。あいつが剣のある場所に近寄った形跡なんか確認してる暇なかったからな。それにあれはただの人だ」
クラウスは唸り声をあげた。
「それなんだけど、ほんとに普通の人間か? どーも他の要因も絡んでるような気がして仕方ないんだわ。もしかしてさぁ、かつての勇者の血縁って可能性ないか?」
「勇者だと?」
確かにあり得ない話ではない。が、最後に召喚されてからどれぐらい間が開いてる? 直系が残っていたとしても、かなり血は薄くなっているだろう。
それに、前代魔王をもし当時召喚された勇者が倒したのだとしたならば。
あの呪いは剣だけにとどまらず、勇者をも蝕んだだろう。その状態で直系が残っているとは考えにくい。
「まあ、憶測でしかないけどね。何しろあそこの一族については複雑なうえに公式資料は全部抹消されてて、しかもユーティルムの王宮はぺしゃんこで資料の探しようもないって状態だし」
つまりアレか。俺が悪いのか。
むすっとしてにらみつけてやると、クラウスは慌てたように手を振った。
「ともあれその剣に関しちゃ俺には何にもできねえよ。自分で何とかしてくれ」
「そうか。わかった」
残念ながらクラウスでも対処方法を知らないのでは仕方がない。
俺がやるにはリスクが大きすぎる。本来の体であの館に赴く必要がある上、前代魔王の残留思念に乗っ取られる危険性もある。できるならば避けて歩きたいところだったんだが。
やはり、竜族か妖精族のところに行くか。
今回のことで、猫を完全に切り離しても学院内に戻れることは分かった。不在にする間、猫が抜け殻になるのは仕方がないが、背に腹は代えられぬ。
「ところで、コルネリアから聞いたんだが、吟遊詩人の姿で何をやっている?」
そう尋ねたとたん、クラウスは額に手をやった。
「あちゃー、やっぱりばれてたか」
「コルネリアには気づかれてないようだったけどな。帰りが夜半すぎるんなら、先に彼女を帰しておけ。この間はお前が帰らないからと夜中に起きて待っていたぞ?」
「ええっ! うわぁ……旦那さんに殺されるな、俺」
クラウスは頭を抱えてソファに体を預けた。
「彼女自身は、今後外泊は増えるだろうから今から慣らさせると平気な顔をしていたがな」
「うへぇ……わかった。次からは気を付ける」
「で、何を探ってた?」
「いや、探ってたわけじゃないんだ。事務局長に吟遊詩人だってことは知られてたみたいでさ。どうしてもって頼みこまれて仕方なく……」
「事務局長に?」
ここの学院長が王族に連なる者というのは知っているが、事務局長もそうなのか?
「ああ、広場で前にやったのを見てたんだそうだ。学院と掛け持ちするのは難しいからと断ってはいるんだが、子供たちの合宿の許可と引き換えにって言われて仕方なく、な」
うなだれてクラウスはため息をつく。
もともと吟遊詩人なのだから、そういう場所で演じることに忌避感はないはずだ。
「何かあったのか? その宴会で」
「宴会というわけじゃないんだが……気持ちの悪い集まりだったよ。おっさんばっかの前でやるのはあんまり気が乗らないんだよなぁ」
「学院長もいたのか?」
「いや。知り合いに頼まれたと言ってたな。正式な紹介状ももらったし。そこにいたおっさんたちからは今度は夫人がいる夜会や茶会に招待したいからってんで声はかけてもらったけど」
「茶会に夜会ねえ。……主催者の名前は覚えてるか?」
しかしクラウスは首を横に振った。
「それがさぁ、また来てくれとか誘ってる割には名乗らねえんだよ。顔は覚えてるけど、名前がわからなきゃ声がかかってもだれのことかわからねえってのに」
「ふむ」
貴族とみて間違いないだろう。学院長がどういう立場の人間かは知らないが、付き合いの浅からぬ相手に違いない。断り切れなかったのだろうし。
それでも名や役職を秘さねばならない立場となると、かなり絞られてくる。
「今度誘いがかかったら、俺に知らせろ」
「知らせろって言われても、誘われるかどうかもわからないぞ?」
「その日にいきなり声がかかることはないんだろう? なら隠れ家にでも残しておけ」
「それなら何とかなるだろうけど」
「それで十分だ」
王宮には近寄ろうとも思わないが、学院長でなく事務局長がなぜクラウスを引っ張り出したのかが気になる。ただ有名な吟遊詩人だから、ではないだろう。何をさせようとたくらんでいるのか。
「事務局長の身元、調べられないか?」
「身元ねえ。ばれないように探るのは難しいと思うぞ」
「わかる範囲で構わない。名前はなんていうんだ?」
「確か、グラエスと言ったと思う。まあ、調べてくるから待ってろ」
「ああ」
紅茶を飲み干すと、頷いて立ち上がった。
「それと、彼女が学院に着いた日に、聖具を持った男を見かけた。……学院内で」
「え……もしかして、あの時の緊急招集って、そいつか?」
「だろうな。それにしても王宮の状態はひどい。魔王がやすやすと入れるとは思ってなかったからな」
「ああ。……学院の結界はきちんと動作してるんだけど、なぜか侵入者が頻繁に出入りしてるみたいでさぁ。しょっちゅう緊急招集かかるんだよな」
「おそらく、勇者召喚に関係のある魔術師だ。行方知れずになっている聖具だったからな」
クラウスは目をむいた。
「なんだって? そいつが勝手に学院に出入りしてるっていうのか?」
「可能性は高いな。存在を完全に消すマントがあれば、俺だってだませるわけだ。王宮の結界なぞものともしないだろう。学院内への侵入は、学院内に手引きするものがいれば簡単だろうな」
「うわー……マジか。勘弁してくれよ」
「テイルノールという学生を知っているか?」
「テイルノール?」
いきなり話が変わったと感じたのだろう、クラウスは眉間にしわを寄せる。
「さぁ。初級クラスか介助員以外の学生とはほとんど接触ないからなあ。で、そいつがその件となんか関係あるわけ?」
「……王宮にいる奴と同じ匂いがする」
そう告げたとたん、クラウスの目が眇められた。
「そいつ、人間か?」
「一応な。ただ、悪意の種が植えられている。主は不明だ。おそらく人の手で植えられたのだろう」
「……至急調べておく」
「頼む。彼女のルームメイトだ」
「バカ! それを先に言えよ。だれか気が付いてないのか? 悪意の種が発芽してるんなら、周りは無事じゃすまないだろう。シオン、大丈夫なのか?」
クラウスはいきり立ち、カップを乱暴にテーブルに置いた。
「たぶんまだ発芽はしてない。でも悪意に侵食されてるのは間違いない。今のところは被害はないが」
あの時、彼女があの女を許してなければ、悪意の種を植えられたまま失意のうちに学院を去り、とんでもない災厄を市井で振りまいていただろう。
「わかった。――また連絡する」
そう言うやいなやクラウスはキッチンを出ていく。
残されたカップを流しに運ぶと、俺も猫の中に戻った。
大きく伸びをすると、中庭から見える空はもう茜色になっていた。
彼女がまだ迎えに来ていないのだ。珍しい。
身づくろいを整えながら彼女の感情を探すと、嬉しそうにきらきらと輝いている。
おそらくだれかと楽しい時間を過ごしているのだろう。
それが俺でないことに苛立ちを覚えつつも、彼女自身に何かあったわけではないことを確認できて安堵する。
噴水から戻る方法は取れない上に、移動魔法が猫に作動するかといえば、あまり的確には動かない。彼女が戻ってくるのを待つのが最適だろう。
そう結論付けて、毛づくろいを続行することにした。
彼女のきゃらきゃらと楽しそうな輝きは、俺にとっては甘露の如きものだ。
口元を緩め、ゆらゆらりと尻尾を垂らしながら、彼女が来るまでその甘露を楽しんだ。




