閑話:魔王閣下の日常 8
職員寮の結界はさすがにしっかりしてあった。
が、どちらかというと外から入るより中から出る方を遮っている。魔力の暴発に対応するためだろう。
そして、彼女の授業に使われるという部屋を前にして、猫は少し後悔している。
完全に外界と遮断される。
それは、猫が本体と切り離されることを意味する。
ほんの少しでもつながっていれば問題はない。が。
――俺の意識が猫にある状態で本体と完全に切り離されたらマジでやばい。
体を誰かにでも乗っ取られたりしたら目も当てられない。……まあ、あの隠れ家に行ける人間は限られているが。
仕方なく、部屋に入る寸前で意識を引き上げる。
彼女の腕に残してきた猫は俺の一部であったもの。俺とは別の物になったが、それなりに長い時間俺が憑依してたわけで、魔力の残渣は少なくない。
猫自体が俺でないほかの魔のものになることはないが、俺が憑依できなくなる可能性はある。
その場合でも、彼女と契約した使い魔として、ちゃんと彼女を守るように条件付けはしてある。
魔王を彼女の敵と認識した場合、猫は俺を攻撃するだろう。それでもよい。
彼女を俺が害することがあるなら……もちろんないことが望ましいが……彼女を優先するべきだ。
彼女の唯一の仲間が魔王たる俺でなくなるのは残念だが、それでもかまわない。
彼女を守る。それが唯一の俺の願い。
二日ぶりに戻った隠れ家は、クラウスが帰ってきてるのはわかった。
畑の方はどうやら自動水やり器なるものを作ったらしい。畑に時折雨が降るように水の音がする。
畑のエリアを出て地上の館に移動するが、今日は静かだ。誰もいない。
地下から地上に出たところで何かが鼻をくすぐった。どうやらコルネリアの食事を食べ損ねたらしい。
館の中をぐるりと歩くがやはり誰もいない。
この館はクラウスに与えることは決めている。もとは表の姿として貴族のセカンドハウスとして準備したものだ。
俺のための館を手に入れる必要がある。だが、あの王宮には近寄りたくない。
仕方ない、伝手を使うとするか。
ため息をつきつつ隠れ家のクラウスの部屋にメモ書きを残して、俺は隠れ家から別の空間へと出口をつなげた。
◇◇◇◇
「おや、久しぶりですね。ブランディン」
馬で直接乗りつけたのは、ユーティルムと北方クインディの国境にある知り合いの館だ。
俺は馬から降りると寄ってきた衛士に手綱を預ける。
館の玄関で待っていたのは、茶色い髪の毛を後ろに流して束ねた館の主、オーリだ。
「ああ、なかなか忙しくてな。こんな時に済まない」
両腕を開いて軽く抱き合うと、オーリの黒い瞳がふっと細くなった。
「構わないよ。あれ以来こっちもばたばたしていたからね」
玄関に向かいながらオーリもすまなそうに眉尻を下げる。
あれ以来とはもちろん、ユーティルムの滅亡だ。
クインディとユーティルムは高い山脈で遮られていて、簡単に超えられない。おかげでユーティルムからの難民は流れてこない。だがそれは魔石も同様で、ユーティルムの産出する魔石は結局山を迂回した他国経由でしか入手は困難だ。
魔石の採掘場が北にあればクィンディとの共同経営もできたろうが、採掘場はあいにく南側で、そこからの運搬もやはりネックにはなっていた。
だから、ユーティルムとクィンディの間の山では、今も魔獣や魔族狩りが普通に行われている。
オーリはその森と山の管理をクィンディの王からゆだねられている男だ。
居間に案内されてからも近況の話は続いた。
魔獣狩りに入る密猟者が絶えないこと。冒険者の派遣頻度が以前に比べて格段に上がったことをオーリは語る。
「正直な話をすれば、そろそろ魔獣たちが反撃してきそうなんだ。ユーティルム側に下りて行く魔獣や魔族の姿も結構目撃されていてね」
あれ以来、ユーティルム側から登ってくる冒険者は減ったのだという。
まあ、わざわざ滅亡した王国へ入ってくる者は多くないだろう。魔石狙いで魔獣を狩るならなおさら。
王宮の付近は特に被害が大きく、冒険者たちが滞在するにも補給物資を求めようにも何もない。
だから、魔獣たちはユーティルム側へ逃げ延びていくのだという。
「なるほどな。でもそのうち、それを商売にする者たちが出てくるのだろう?」
オーリの話に苦笑しつつも答えると、オーリは首を横に振った。
「そのうちではないよ。もう商売を始めている者がいる」
商魂たくましいとはこういうのを言うのだろう。
落ち伸びたユーティルムの民たちは、頼れる伝手があるものは他国へ行き、行けぬものが残っているという。
「それに、他国から盗賊団が入っていてね。……灰塵と帰した王都で貴族の館を掘り返してるんだそうだ」
「そういう者たちが商売もやっているのか?」
「いや、そういう者たち向けの商売をし始めたものがいると報告を受けてね」
「……たくましいものだな、本当に」
「ああ。まったくね」
相槌を打ちながら、オーリの口元に浮かぶ笑みに、一枚噛んでいるだろうことを察する。
ユーティルムはいわば宝の山だ。いずれ王朝の復帰が宣言されるのは間違いないのだから、今のうちに手駒を配置しておこうという算段なのだろう。
人の欲と業はげに深いものだ。
「それで? ブランディン。わざわざこんな場所に供も連れずにやってきたくらいだ。何か急いでいるのだろう?」
名を変えたことはオーリには伝えていないからブランディンと呼ばれているのだが、彼との付き合いはそれなりに長い。なのにいまだに省略した呼び方をされないのはどこかで一線引かれているのだ。
相変わらず警戒心の強い男だ。
王都からここまでは、隠れ家から飛べば一瞬だが馬ならどれだけ急いだってそれなりの日数がかかる。
それをものともせず、貴族だというのに護衛の一人もない。その不自然さはわかったうえで、あえて目をつぶっていることもわかっている。
「いつも済まない。実はエランドル王都のセカンドハウスを部下に下賜することになった」
「ほう、君にしては珍しいな。あの館は気に入っていたのではなかったのか?」
オーリの目つきが怪しくなる。
「ああ、あの時にはいろいろ無理を頼んで済まなかった。今は王都に詰めている部下に任せている」
「なるほど。じゃあその部下に与えることにしたのか」
「嫁を迎えるというのでな、その褒美も兼ねている。新婚の家に俺がいつまでも顔を出すわけには行かない」
この際コルネリアを嫁としておいた。その方が納得しやすいだろう。
「そうか。では別の館を準備させよう」
ちらりとオーリの目が床に置いたままだった革袋に走る。
俺は革袋を取り上げるとローテーブルに置いた。
「足りるか?」
余計な言葉はいらない。
オーリはちらりと袋の口を開き、手を差し入れた。ざらりと石たちのぶつかり合う音が耳にはじける。
「ほう、さすが。これは?」
「ユーティルム産だ。あちらはいまだに精製方法がわからなくて鉱山は閉山状態だそうだな」
「ああ。いつ供給が回復するかわからないからね……。ありがたく受け取るよ」
足りるとも足りないとも言わない。
これがオーリと俺の間の信頼関係だ。
「準備ができたら連絡する」
「ああ、頼む」
侍女がワゴンを押しながら居間に入ってくる。
腰を浮かしかけていた俺は、紅茶のいい匂いにつられて居住まいをただした。
「今日はゆっくりしていけるのか?」
「そうだな……」
彼女のことも心配だし、何より猫の体が心配だ。
少なくとも夜になるまでには戻らなければならない。
「あまりゆっくりはできないが、茶を飲む時間ぐらいはある」
「そうか。……いずれ時間ができたらゆっくり泊まっていってくれ。妹も会いたがっていたから」
「わかった。どこかで調整する」
目の前に置かれたティーカップを取り上げながら、すでに俺の心は彼女のほうへと向いていた。
◇◇◇◇
オーリと別れて隠れ家へ向かい、そのままセカンドハウスへ飛んだ。
このまま寮に戻るかどうかを悩む。
猫との糸は切れている。簡単に学院に戻れるとは思えない。何とか糸口を探し出さなければ。
魔王と彼女をつなぐものは、猫の姿を介して施した俺の所有印と契約以外ない。
彼女との縁がない以上、王宮より硬い学院の結界を破るのはなまなかなことではないだろう。
猫の様子だけでも見たい。
あれが彼女を害するようなことはないだろうが、万が一のこともある。
そしてあれが自我を得てしまうことがあれば、二度とあの器には戻れまい。
彼女の唯一の仲間という立場を失うことになる。だが……彼女と再び会うために、俺は猫であることを諦めた。
どちらが大事かなど、比べるべくもない。
「クラウス」
セカンドハウスで夜まで待つと、クラウスが戻ってきた。
玄関に立つ魔王に気がついたクラウスは、怪訝な顔をする。
それもそうだろう。気まぐれにしか現れない俺が、クラウスの帰りを待っていたのだ。
「どういう風の吹き回し? 魔王サマ」
「お前にこの館を譲る」
「え? ああ、前に言ってたあれ?」
「そうだ。俺は別の館を構える。表向きはお前が嫁を迎えるにあたって主人である俺がこの館を下賜したことになる。……手続きは済ませておいた」
「嫁? 何の冗談?」
目を丸くするクラウスに、俺は頷く。
「嘘も方便だ。毎夜通ってくるコルネリアに懸想したとでもしておけ。別に本気で婚姻を結ぶ必要はない。お前も面倒だろう?」
「ああ、もちろん。というか、コルネリアには夫がいるって説明したろ?」
「だから嘘も方便だと言った。貴族の館をお前に譲るには、それなりの口実が必要なんだ」
「……面倒だなぁ。それ、噂にならないでしょうねえ」
「お前が黙っていれば済む。手配を頼んだ者の口は堅い。案ずるな」
「へーへ。……で、あんたはどうすんだよ」
「新しいセカンドハウスに引っ越す。一応お前の愛の巣となっている場所に彼女を引き入れるわけには行かぬのでな」
「あい……」
クラウスは眉根を寄せたまま、口をパクパクさせている。
「そういうことだ。ここに幼年クラスの子供たちを受け入れるのも、自由にしろ。俺の部屋として確保していた部屋ももう自由に使っていいぞ」
「魔王サマ、それはだめだ」
「だめじゃない。お前の屋敷で、お前が主だ」
「……ちっともうれしくないんだけど。魔王サマ、いったい何考えてんの?」
「別に何も」
俺はまっすぐクラウスの目を見る。こいつは勘が鋭いが、人の表情を読み取るのが得意なだけだ。そこをごまかすことなど魔王には他愛もないことだ。
「隠れ家への道は残しておくが、俺がこっちに来ることはもうないだろう」
「あのさぁ……魔王サマ。勝手に隠れ家への道封じるとかしないでよ?」
クラウスが探るような目つきで俺のほうを見る。
「封じはしない。お前が来なくなると畑が全滅する」
「……それだけかよ。俺にいろいろ頼んでるくせに、結果聞く気はないのか?」
「ああ、そういえば……そうだったな」
「まあ俺も忙しいから、タイミングが合わなけりゃ報告書を置いとくけどさ」
「ああ、それで構わない」
今後は隠れ家以外で接触するのは難しくなるだろう。学院内でクラウスと接触したかったが、今のところ糸口は思いつけない。
「そういや昨日、中庭にいたな。あの黒猫がお前の形代か?」
「いや。……あれは俺から切り離した。もう別個体だ」
「別個体……あのさぁ。あんたの一部だろ? あれ。あんたの力を切り離したものだよな?」
「無論だ」
玄関をクラウスがうろうろと歩き回る。何が気に入らないというのだろう。眉根を寄せて、俺をにらんでくる。
魔王をにらむやつなんぞ、クラウスぐらいなものだ。
「なら、なんで自分の支配下に戻せねえんだよ」
「学院の結界があるからな」
「でも、あんたはその結界を通り抜けて学院に入れたんだろう? 猫の姿とはいえ、さぁ」
「ああ。……それが」
どうかしたか、と言いかけて俺は口をつぐんだ。
そうだ。あの時、あの婆に学院に入る資格を与えられた。
あの婆――聖女は魔族であろうと魔獣であろうとかかわらずその魂を覗き込んでいた。だとすれば、俺にも資格は与えられているのかもしれない。
ならば。
口角が上がる。
「感謝するぞ、クラウス」
そういって視線を移せばクラウスは化け物でも見るかのごとき目つきで俺を見る。
魔王だと知ってもなお普通に接してきたクラウスが今頃なぜこんな目つきをするのだろう。
「……何か顔についているか?」
「あんた……変わったなぁ。人に大っぴらに感謝するなんてよ」
「そうだったか?」
どうだっただろう。別に気にしたことがないだけで、必要ならば謝意を表するのはやぶさかではない。
それより今は学院に戻る方法を探すのが先決だ。試してみる価値は十分にある。もしそうならば、結界の出入りは比較的楽になるだろう。
俺は腰を上げた。
「ではな。あの婆に会ってくる」
「ああ。……あんたの部屋は残しとくからな」
眉根を寄せて俺を見るクラウスに口元を緩ませると、俺は地下から隠れ家へと飛んだ。
◇◇◇◇
「おや、覚えておったのか」
あの空間への道をつなぐと、白い空間にあの婆が座っていた。
この空間は普通とは違う。
明らかに内側に閉じている。特定の者を出さないように作られた檻だ。魔獣や魔族は彼女が送り出す限り、外に出られるようになっている。
だが、聖女は出られない。
出るつもりはないから不要なはずの仕掛けが聖女をとどめ、俺を受け入れる。
「ああ、ちゃんと会いに来てやったぞ。聖女」
俺が唇をゆがめてどす黒い笑みを浮かべると、聖女は苦笑を浮かべた。
「やはり魔王様には効かんか。……して、なぜここに来た? そなたには必要のない場所であろう?」
「確認をしに来た。貴様があの時与えた資格は何に対して与えたものであるかをな。……おかげで確信がもてた」
「ほう。……魔王が通るのを見逃した我を突き出すかや?」
「死者を甚振る趣味はない。ただ……なぜか、聞きたくてな」
黒い眼鏡越しに聖女の目を見据える。
「そなたはあの子の希望だ。唯一のな。……わかっておろう?」
逆に聖女に目を覗き込まれて俺はざわめく心を押さえつける。
「俺は彼女に笑っていてほしいだけだ。俺のそばで。……それを邪魔するなら貴様とて容赦はせぬ」
「わかっておるわ」
「それに結界の強化もあの子の力を借りたようじゃしな。……王宮もしばらくは匂いを抑えられよう」
俺は眉根を寄せた。
彼女の力を吸い上げたのか。……彼女に無断で?
それならば、許すわけには行かない。誰が指示したのだ。
「誰も指示しておらぬよ。……ただ、彼女の魔力量を測ろうとしただけじゃ。この学院に仕組まれておるすべての魔石を満たしてもなお、あの子の力はあふれ出る。ゆえに、あふれた分を利用させてもらっただけじゃ。彼女に害はないわ。剣呑なものを納めよ」
聖女の視線が俺の手に移る。怒りに任せて顕現させた黒い剣を握りしめる。
「……貴様には役に立ってもらわねばならん。ゆえに切りはせぬ」
「なれば、学院の者たちは切るでないぞ。わたしのかわいい子供たちじゃ。たとえ一人たりとも、そなたの手にかかったとなれば、そなたを許すことは二度とない」
にっこりと口角を上げながらも聖女の殺気を含んだ剣呑な気配は消えない。しばらくにらみ合っていたが、結局俺が折れた。
ここで聖女にへそを曲げられては、彼女のそばに戻ることがかなわなくなるからだ。
「ここは折れてやる。だが、いつまでもそれが効くとは思うでない」
「ほっほ、久々に楽しめる相手じゃのう。ほれ、早う行け。彼女がそなたを心配しておる」
ぎり、と唇をかみしめ、手の中の剣を消す。
悔しいがこの場は聖女の支配する場所。魔王といえども支配の及ぶ空間ではないのだ。
「……約束、違えるなよ」
それだけ言い置いて、俺は白い空間から外へと出た。
◇◇◇◇
体が異様に重い。
薄く目を開けると、周りが赤く輝いているのが見えた。壁も床も天井も真っ赤だ。魔石が輝いている。
俺の中にも彼女の魔力の片鱗を感じる。どうやら同じ魔法陣の上にいたせいか、流れ出した魔力を吸ってしまったようだ。
床には両手を床に貼り付けて固まる彼女の姿が見える。視線を猫のほうに固定したまま、何も見ていない目。
「おい、気ぃ失ってねえか? シオンのやつ」
頭の後ろから声が聞こえる。ジャックの声だ。
赤い光はだんだん明るさを失いつつある。力の放出元である彼女の意識がないせいだろう。
「光が消えるまでは待て」
「あ、ああ。……クロは大丈夫だろうな」
「たぶんな」
猫がどうかしたのか、と自分の手に目をやる。
別段変わらないように見える。黒い毛並みに肉球、にゅっと飛び出る爪。多少サイズは大きくなったようには感じるが。
それより、無事戻ってこれたことに安堵する。
やっぱりあの婆、俺の魂を彼女のパートナーとして結び付けたのか。
これならば、今回のように猫を完全に切り離したとしても戻れる。もちろん、そんな機会はないほうがいいに決まっているが。
それにしても、彼女に無理をさせたのは許しがたい。……魔力量の測定とはいえども。
「それにしてもすごいな。これだけの魔石をフルチャージしてもまだ魔力切れを起こしていない」
「そうなのか? 力を使い切る直前だから気を失ったんじゃないのか?」
「違うと思う。……あれを見たせいじゃないか?」
あれとは何だろう。教卓の向こうから視線を感じる。
「魔力量の測定は終わりでいいわね?」
「ああ。測定不能、ほぼ無尽蔵だってことはよくわかったから」
「……無尽蔵、ね。まるで伝説の魔法使いだわ」
「伝説の?」
ウルクの言葉にジャックが口を挟む。
「五百年前だったかしら。どこかで召喚された魔法使いのお話よ。公式記録が残ってないから史実として扱うには根拠がないってことでおとぎ話にされてるけど」
「ふぅん。召喚ってことは、例の勇者かい?」
「と、言われてるわね」
ああ、かつて召喚された勇者の話か。
「公式記録が残ってないってのはなんでだ?」
「噂では、召喚した王国が滅亡したとか、勇者が魔王に負けたとか裏切ったとか、いろいろあるけど。記録がないからどれも信ぴょう性が薄くてね」
「滅亡って」
ジャックが息をのんだのがわかる。
「ええ、ユーティルムと同じ結末よ」
それは俺より前の魔王だな。時期的には前々代になるだろうか。
「お喋りはそのくらいにしておけ。魔石はもう大丈夫だ。シオンを起こしてくれ」
「了解」
ガルフの面白くなさそうな声にジャックが応じる。薄目を開けた状態で見ていたら、教壇を下りてシオンに近づくジャックが見えた。
何度か頬をはたかれてるうちに目が覚めたようだ。
こちらを凝視している彼女の目に光が戻って、瞬きをする。
ふいに自分のものでない感情が流れ込んできた。
彼女の感情だ。
彼女の魔力が多少なりとも猫に流れ込んだせいだろうか。
それは――恐れ。
猫に対する恐れ。
猫がいなくなることへの……恐怖心だ。
彼女は無理やり体を起こして、転びそうになりながら猫のいる机のところまでやってくる。
恐る恐る伸ばしてきた手に猫は鼻を押し付けた。
ぴくりと手を引っ込めそうになったのを追いかけて鼻をくっつけ、ぺろりと舐めると恐れが薄れていくのがわかる。
代わりに安堵の思いがあふれてくる。
彼女の手がやわらかく猫の頭を撫で、のどをくすぐる。俺は喉を鳴らし、しっぽをゆらりと揺することで応える。
お前が恐れることは何もない。
猫の中身が俺でなくなったとしても、お前の最初の仲間である「クロ」は変わらずお前のそばにいる。
心配することは何もない。
体を起こすと頭をこすりつけ、彼女の肩に飛び乗った。
いつものつもりで体を動かしたが、以前よりはるかに体が重い。
軽々と乗れた彼女の肩は今の猫では頼りなく薄い。
なんとかよじ登って彼女の頭の上に前足を置くが、彼女は重たそうだ。
「シオン、クロは大丈夫そう?」
「うん、たぶん大丈夫。なんか少し成長してる」
彼女の声が直接響くのが心地いい。
そのまま椅子に座ると、彼女は俺をいったん机の上におろしてから膝の上に載せた。
「講義中はここにいてね?」
いつも通りの微笑みをくれる。その心に恐怖はもうない。
安心しろ。お前はずっと俺が守る。
お前の身も心も、魂もすべて。




