42.すこーし大きくなりました。
その人は目を閉じたままうなだれて座っているように見えた。
わたしが作り出した幻だろうか。
クロの毛並みの色のまま、真黒な服を身に着けた人影は、まるでお人形のようだ。髪が揺れることもなく、瞼が震えることもない。
それに、おかしい。
クロを下ろした机から今わたしがいる場所はそれなりに離れている。なのになぜ、まつげや瞼が動いているかどうかがわかるのだろう。
まるで目の前にクロが……あの人がいるみたいに見えるなんて。
やっぱり幻か……夢なんだ。
でも、もしこれが夢でないのなら。
……クロを治してくれたあの人がなぜここにいて、なぜクロはそこにいないのだろう。
「クロ……?」
まさか、と思いながら口にする。喉がからからに乾いていて名を呼ぶのでさえ辛かった。
でもその人は反応しない。クロのあの鳴き声も聞こえない。
視界は赤いままだ。
誰かが何かを言っている。
クロの成長した姿?
なぜ?
どうしてクロが成長するの?
わたしの魔力が注ぎ込まれたからと言って、なぜ魔獣が……人になるの?
不意にウィレムの言葉が脳裏をよぎった。
『魔獣を癒せるのは魔族だけ』
じゃあ。
――クロは、魔族なの?
魔獣が人型をとれるなんて知らない。……ジャックから教わった魔獣や魔族の知識でも、魔獣から人型になるには魔族になるしかなくて、魔獣から魔族になるには途方もない魔力が必要だから、魔獣から魔族になることはありえないというのが現時点では有力な説になっているって。
じゃあ、今のわたしの力を受け取って、クロが魔族になったの?
でもそんなはずない。
あの時、クロを治してくれた人はすでにあの姿でいたわけで、クロが今こうなったわけじゃない。
あの人が魔族で、クロがいま魔族になったのだとしたら、あの人の姿を借りたのかもしれない。
わからない。
何が本当なの?
目の前にいるのはクロなの?
ねえ、クロ? クロはどこなの?
わたしの仲間はどこにいったの?
視界がぼやけてゆがんでいく。視界の赤はどんどん黒味を帯びて闇色へと落ちていく。
あの人の姿だけをくっきりと残して。
「シオン? おい、シオン?」
誰かが呼んでいる。なんだかぺちぺち叩かれてる気がする。
頭が重い。体も重い。
腕を上げようとして、鉛みたいな重さに内心悲鳴を上げる。瞼が持ち上がらない。それでも必死で目を開けると、赤くない世界が見えた。
わたしは床に手を付けたままのポーズでしゃがみこんでいるらしい。
目の前にはジャックがうずくまって手をひらひら振っている。
「目ぇ開けたまま気絶するとか器用だな、ほんと。おーい、聞こえてるか?」
「き、こえてる」
喉が痛い。擦り出すように出した声もかすれてる。
「目ぇ見えてるか? この指、何本に見える?」
ひらひらしていた手を止めて、二本の指を立てる。
二本、と言いかけてせき込んだ。口に手を当てようとして、床から手を放すのに苦労する。
それでもなんとか手を口に当ててせき込んでから「二本」と答える。
「よし、目は見えてるな。声も出てる、と。ガルフ隊長、大丈夫そうっすよ」
「そうか」
ジャックが立ち上がると、背後に隠れていたものが見えた。
机といすと、上に座っている男が……いなかった。
目を見張ると無理やり立ち上がろうとしてこけた。
両足とも痺れが来ていた。正座に近い恰好を長いことしていたのだろう、足首がぐにっと変な方向に曲がった気がするが、痛いのかどうかもわからないほど痺れている。
「あーあ、しばらく座ってなって。クロは大丈夫だからさ」
ジャックの言葉に机の方へ視線をやると、机には丸くなって寝ているクロが見えた。耳をぴぴっと時々動かし、前足の先がびくびくと動いているところを見ると、狩りの夢でも見ているのだろうか。
いや、問題はそんなことじゃなくて。
――さっき見たあの人の姿は、夢だったの?
「ジャック、あのね……」
「ん? どうかしたか?」
あの人はいなかった? と聞きかけて、わたしは言葉を飲み込んだ。
そうだ、ジャックは『クロは大丈夫だから』って言った。
もし、クロがあの人の姿に変化していたのだとしたら、そんなこと言ってられないはずだ。
ウルクもガルフも、どちらもクロに関しては口にしていないし、クロも遠目ではあるが別に変わったようには見えない。
「シオン?」
首をかしげるジャックに、わたしは首を横に振ることで答えた。
「大丈夫か? 何なら今日の授業はやめにしてもいいぞ。なんかすげぇ辛そうだし」
「辛くもなるだろう、あれだけの魔力を放出したのだから。それでも魔石のほうが容量負けして自己崩壊する寸前だったのに、シオンは魔力切れを起こしてぶっ倒れたわけではなさそうだし、本当にシオンの魔力量は無尽蔵なのだな」
ガルフが向こうの方から声をかけてくる。
無尽蔵、なんだ。やっぱり。
勇者としてのチートの部分、たぶん。多少の魔法を使っても魔力切れを起こさないようになっているんだろう。
それも、魔法を知らない今のわたしにとっては、意味のないことだけれど。
「しかし、おかげで学院の結界に回している力に余力ができた。また頼むかもしれない」
「え……はい」
「隊長、シオンにあんまし無茶させないでくださいよ? 今だって目ぇ開けたまんまで気絶してたんだ。勘弁してください」
ようやくしびれが取れてきた。なんとか立ち上がると机のクロに歩み寄る。
クロはわたしの手に気がつくと顔を上げて鼻を押し付けてきた。
少し大きくなった気がする。やわらかく撫でると、ゴロゴロとのどを鳴らした。
そっか、やっぱりさっきのは夢だったんだ。
クロがあの人の姿になるなんて、ありえないよね。
よかった。
クロはわたしの唯一の仲間。
いなくなるなんて考えられないよ。
クロが起き上がってきて肩に登ってきた。
……うん、明らかに重たくなった。
たぶん、わたしの魔力を受けて成長したんだ。
「シオン、クロは大丈夫そう?」
「うん、たぶん大丈夫。なんか少し成長してる」
喉はまだ痛いけど、しゃべれないほどではない。
ウルクの言葉に返事をして顔を上げると、彼女は視線をさまよわせている。
「そう……じゃあ気のせいね」
わたしがみた幻をウルクが見ているはずはない。
ピートみたいに大きくなれば乗れるのに、とは思っていたけれど、あまり大きくなると肩に載せるのも重たくてできなくなるからちょっといやだ。
ガルフがちらりと視線をこちらによこして、クロのほうをじっと見ている。
「じゃあ、少し休憩してから授業に入ろうか。ウルク、お茶を入れてきてくれ」
「え、あ、はい」
ウルクがパタパタとキッチンのほうへ行く。この実習室は外に出なくても実験を続けられるようにキッチンがしつらえてあるらしい。
クロを肩に載せたまま、席に着き、膝におろしたクロをゆっくりと撫でる。
あれが夢であったことを喜びながら。
だから、三人がどんな目でクロを見てるか、気がつかなかった。
※ネット小説大賞一次突破記念として、魔王サイドを挿入しました。
http://ncode.syosetu.com/n9531cx/9/
お楽しみいただければ幸いです。




