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異世界猫と転生姫  作者: と〜や
魔術学院編

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閑話:魔王閣下の日常 7

「クラウス」


 早朝。

 いてもたってもいられなくなって、まだ眠る彼女を置いて隠れ家に飛んだ。

 だが、クラウスの気配はない。

 あの遺物アーティファクトの情報が欲しかったのだが、流石に今から学院に乗り込むわけには行かない。

 ここではただの一貴族で通しているのだから。

 食料庫から出ようとしたところで運悪くコルネリアに遭遇してしまった。

 取り急ぎクラウスの所在を訪ねると、どうやら彼女も知らないらしい。昨夜出かけたきり、帰らないという。

 ただ、出かけていった時の恰好が青い肩掛けに羽のついた帽子、大きな鞄となれば、吟遊詩人の姿に身をやつして情報集めに走っているのだろうということは伺えた。

 ならば、待つしかない。

 コルネリアに図書館の場所を聞き、再び地下室に戻って隠れ家に飛ぶ。

 あの遺物アーティファクトの情報は人間界よりも魔界の方が得やすいかもしれない。

 前魔王が倒されたあとの剣に関しては人間界に伝わっているだろうが、それ以前のことを聞くなら古時代を知る魔族がいい。竜か妖精か。

 前魔王時代は長らく平和だったおかげでどちらの種族とも友好な関係が築けていた。

 だが前魔王が討伐された際、その場にいた竜族も妖精族も巻き込まれて何人も命を落とした。魔王への信頼は失墜し、関係は消え去った。

 俺に代替わりしたあとも、行き来はない。仲介してくれるような酔狂な魔族も、俺の知己にはいない。


「行くしかないか……」


 だが、竜族の住処も妖精族の住む世界も行くとなると一日では無理だ。猫の体を維持しながら行けるところでもない。それに、直接行ったところで門前払いか、逆に襲われる。

 それは望むところではない。

 人嫌いどころか今や魔族も嫌いな竜族と妖精族に受け入れられ、連絡が取れるのは、知っている限りではクラウスだけだ。

 俺は眉根を寄せ、苛々と部屋の中を歩き回る。

 すぐ打てる手がないのならば、ウィレムを監視するべきか。

 ウィレムがあの剣を彼女に渡そうとすなら、館に呼び出す以外ない。

 あれをウィレムが持てるとは到底思えない。この期に及んで死の危険を冒すほど愚かでもないだろう。

 こんなことなら館に『目』を仕込んでおくべきだった。ウィレムに発見される可能性は高いが。

 手詰まり感が半端ない。

 クラウスに頼む他ないとは、実に情けない。クラウスの戻りを持つのが最善だなどと。

 自分が魔王と言われながら、己では何もできないのだということを痛感させられる。

 前魔王と違って俺は取り巻きを作らない。傍にいたところで何の得もないのだ、当然おもねる奴もいない。

 多少のことなら低級魔族に若干の褒美と引き換えに頼むことはあるが。

 ……ピートやヴィルクと手を組む方法もあるが、うんとは言わないだろうな。あの二人は。


 ともあれ、まずは学院に潜入することが先決だ。

 俺はため息をつくと、猫の体に戻った。


 ◇◇◇◇


 ――臭え。


 それが最初の感想だった。

 何だこれは。

 王宮といいながら、腐肉の臭いがする。

 この強烈な臭いに人間は気がつかないのか。

 それとも人間には感知できないように操作されているのか。

 正門の前を通った時に強く臭ったそれは、壁をぐるりと回って学院専用の門に来る頃には全く臭わなくなった。

 ということは、正門に近い王宮の執務棟に巣食ってるのか。それとも、学院側の結界で完璧にはねのけているのか。

 ウルクの魔獣……もとい魔族のピートが髭を震わせて小さく唸りを上げている。背中に乗っている女二人にはわからないくらい小さく。


『お前も感じたか』

『ああ。正直こんなとこ、一秒だっていたくねえし、いさせたくねえ』


 ピートはウルクにベタ惚れしてる。好きな女を危ない目に合わせたくないのは俺も同じだ。

 王宮の周辺に立ち並ぶ店のあたりは清浄な気に満ちている。これはおそらく学院の者の手によるものだろう。子供たちが普段出歩くエリアに結界を張り、浄化してある。

 ということは、学院の者は、王宮の状態を知っている、ということだな。

 ウルクとピートは先に門をくぐる。待っていたジャックとヴィルクと会ったが、ヴィルクも似たようなことを言っていた。


『上空から見てるだけになおさらな。お前ら、宮殿には近寄らないほうがいいぞ』

『宮殿全体か?』

『かなり広範囲だ。気をつけろよ』


 それだけ言いおいて彼らは先に行く。

 緊張したのか彼女はおれを抱っこしたまま立ち止まった。手足が震えている。

 ちらりと見上げると、彼女の目には恐怖が映っている。おれは腕の中で伸び上がると彼女の頬を舐めた。落ち着け。大丈夫だ。俺がいる。

 どれくらいそうやっていただろう。ようやく顔を上げた彼女の目にはもう恐れはなかった。


「さ、いこっか」


 まだ青い顔ながらほんのり微笑んで、おれを撫でてくる。

 そうだ、微笑んでいろ。そのほうがお前らしい。

 彼女の腕に抱かれたまま、おれは王宮の壁を越えた。


 ◇◇◇◇


 さすがに王宮の結界を越えるのはきつかった。……と言えればどれだけ安心なことか。

 正直な話をしよう。まるで役に立たない。

 ここの守りはぐだぐだだ。王宮の守りは王宮付きの魔術師が担当しているはずが、よく首が飛ばないものだ。

 魔術騎士団の面々も、これに気がつかないのか? それとも何かの術をかけられているのだろうか。

 これでは魔王だろうが何だろうが簡単に侵入できるぞ。現に魔王おれの一部とはいえ簡単に入れたし。

 門を抜けて出たところで異質な気配を感じる。

 腐臭はしないものの、いやな気配だ。魔族ではないが、魔術師か?

 この男の手にしているものは聖具だ。前にクラウスから聞いていた、『行方知れずの聖具』の一つではないのか。半径百キロ以内なら魔王おれの居場所を指し示すという、短剣。そして腕にかけているマントからも同じ匂いがする。

 まさか――こいつか!

 あの時、あの場から聖具を持って逃げ去った、魔術師は。

 それしか考えられない。

 こんなに彼女の近くにいたとは。まさか彼女を狙って――。

 怒りで気が狂いそうになる。猫の姿だということを忘れて彼女の腕から降りようとしたその瞬間。

 彼女が足を踏み出した。

 見えていた光景が一瞬で消え去る。白い霧に飲み込まれた。

 真っ白な空間の中に一人、椅子に座す女が見えた。白いローブに身を包んだ小さな老婆。


「こっちへおいで。魔獣が学院に入るには資格を見せてもらわねばならんでの」


 罠やしかけがないか注意しながら老婆の前まで行くと床の上に座った。

 老婆からは清浄な気のみを感じる。昔は聖女とか呼ばれていた類の人間なのかもしれない。害意は感じられない。


「おや、小さいね。じゃあこの台にお上がり」


 老婆はサイドテーブルへと誘う。ぽんと飛び乗ると、老婆はおれの体を持ち上げて膝の上に載せた。


「ほう、これが所有の証かえ」


 首に巻かれたリボンをしばらくいじくっていたが、納得したようにうなずいておれの右前足を持ち上げた。


「ふぅむ。魂の契約まではしとらんようじゃな。弱い魔獣では他の者達に食い殺されてしまうのう」


 余計なお世話だ。

 そう笑った途端、老婆はおれの目を覗き込んだ。


「しかし、中に入っておるのは弱くはなさそうだ。……お主、あの子を守れるかえ?」


 当然だ。耳を立て、姿勢を正す。というか、中に入っているとか言うな。これも魔王おれの一分だ。


「そうか、そりゃ失礼したね」


 ふん、と尻尾をゆらして、はたと気がついた。この老婆におれの思考が読まれている?


「その程度はお手の物じゃよ。おっしゃるとおり、昔は聖女と呼ばれた者だからのう」


 老婆の膝から飛び退くと、威嚇の姿勢を取る。

 老婆は座ったまま、おれの方を見て微笑んだ。黒い眼鏡をかけていて目に浮かぶものは見えないが、気配は変わらず清浄なままだ。

 もし聞こえているのだとしたら、と俺は老婆に心の中で問いかける。

 王宮のあの腐肉の匂いをなんとかしたらどうだ、と。


「それが簡単にできるなら苦労はせぬよ。……そなたにも関係のあることじゃろう? それにしても、今代の魔王様は実に愛らしいのう」


 馬鹿にするな。これはただの依代だ。

 それにしても……なぜここに俺は囚われている? こんなところで、老婆に正体まで見破られて。

 彼女はどこへ行った。


「心配することはない。わたしはここからどこへも行かぬし、誰にも何も言わぬ。ただ、学院に入る魔獣の資格を確認しておるだけじゃ。だから、何もできぬ。ここを出ればすぐ彼女とは会えよう」


 魔王だと知られた以上、かつての聖女といえども生かしておくわけには行かない。

 隠れ家の肉体を呼び寄せようとしたところで老婆はころころと笑った。


「いかに魔王様といえども、死したる者を弑すことはできませぬよ?」


 死霊だというのか!? そんな気配は微塵もなかった。もし本当に死者なのだとしたら、俺にわからないはずがない。


「現に心の臓は止まっておる。この空間におるから生きいているように見えるだけじゃ」


 背中の毛を逆立てるのをやめると、老婆は疲れたように椅子に体をもたせかけた。


「まあ、よい。行っても良いぞ。あの子を守ると誓えばの」


 そんなもの、とうに誓っておるわ。他の者に触れさせやせぬ。


「よかろう。そういえば、先ほど入ってきた魔族たちは知り合いかえ?」


 ああ、ピートとヴィルクか。あいつらとも会ったのか。


「いきなり襲いかかってきたでの、そこらに転がしてある。わたしは動けぬゆえ、起こして連れて出てくれんか」


 お断りだ。……と言いたいところだが、まあいい。あいつらに恩を売っておきたいところだし。

 俺は老婆の後ろに転がっている二人の顔をぺちぺちと肉球で叩く。こいつら、擬態解除してまでこの老婆に襲いかかったのか。

 ピートは思っていたとおりの金髪に白い肌、ヴィルクは褐色の肌に黒髪。あーあ、だらしなく寝こけて。

 何度か肉球ビンタ&爪攻撃を食らわせるとなんとか目を覚ました。


「あ、なんでこんなとこに」

「ってぇ、ひっかくなよ」

『それはいいから擬態に戻れ。その格好で二人のところに戻るつもりか?』

「なんで魔王サマがいんだよ」


 ぶつぶついいながら二人は元の擬態に戻る。

 これでいいんだろ、と老婆を振り返ると、老婆は椅子から顔だけをこちらに向けていた。


「もう良さそうね」


 そうつぶやいた途端、白い空間が反転した。暗転した視界の中に白い空間と、あの老婆の顔が焼き付いて見える。


「覚えていたらまた会いましょう、今代の魔王様」


 その言葉が直接脳裏に響いて、次の瞬間、石畳に立っていた。

 ふるりと頭を振るって周りを見ると、ピートが座った状態から立ち上がったところだった。ヴィルクは羽を大きく伸ばしている。

 が、彼女がいない。

 周辺をぐるっと見回す。さすがは学院だ。王宮の結界とは比べ物にならないレベルの結界が張られてる。石造りではない建物が目の前にそびえていて、焦げ茶色の扉が音を立てて開いた。


「あ、いたいた。どこに行ってたんだよ」


 顔を出したのはジャックだった。ヴィルクは羽を広げたままとととと走って行き――ジャンピングキックでジャックを蹴り倒した。


「痛えじゃねえかっ」

「あらまあ、お熱いことで」


 その後ろから出てきたのはウルク。そして彼女も続いて出てきた。


「クロ! 一体どこ行ってたのよ」

「ピート、あんたも。どこほっつき歩いてたのよっ」

『俺のせいじゃねえっ! あのババアがっ……』


 ピートはそう言いながらも耳をぺたっと伏せてウルクの方へ歩いていく。俺は、彼女のところまで駆けるとぽんとその肩に飛び乗った。頬ずりをする。


「もう、ごまかそうとしてもダメ。初めて来たところで勝手に出歩いたら迷子になるでしょ?」


 ニャア、と鳴いて頬ずりをひとつ。

 大丈夫だ、お前のそばから離れる気はないよ。誓ったからな。あの婆さんに。……婆さん? 誰だ?


「ほら。入ろう。さっきまで学院内を案内してもらってたの」

 

 ピートとヴィルクをなだめて二人が先に歩いていく。その後ろ姿を見ながら彼女はついていく。

 何かを忘れている気がする。脳裏に浮かぶ老婆の顔は、見覚えはないのに知っている。

 そう思った途端、巻き戻るように記憶が蘇ってきた。

 この俺ですら騙そうと言うのか、聖女様。魔王おれに術をかけるとは、面白い。

 何がなんでも会いに行ってやろうではないか。


 ◇◇◇◇


 彼女に抱きかかえられて院の中に入る。

 聖女に会ったおかげか、学院の結界を難なく通り抜けることができた。

 城の結界よりもよっぽど魔術学院の結界のほうが堅固だった。本来の力を出せば吹き飛ばすのは簡単だ。が、それでは目的は果たせない。

 あの聖女サマにはいずれ礼を言いに行くことにしよう。

 迎えに来ていたアリアという女は、ちらちらと俺やピート、ヴィルクに視線を投げかける。

 ただ見ているだけではなく、中まで見通すような視線。

 生徒代表だと言っていたが、それ相応の力の持ち主だということなのだろう。

 ざっと探った限りだと、この学院内に似たような力のかけらを五つほど感じる。それが教師なのか生徒なのかはわからない。が、やはり魔術を使う者たちの集う場所だけはある。威圧するような気配もある。

 俺だけでなくピートやヴィルクに対する威圧でもあるのだろう。俺が感じると同時に二人も騒ぎ始めた。

 俺はふんと鼻で笑い、あくびをして彼女の肩に移動すると頭に手を乗せた。移動しているときは彼女の肩に乗って両腕で頭をホールドするのがちょうどいい。

 アリアと視線がぶつかると、俺に飛んでくる敵意が半端なく跳ね上がった。


 ――これ、アリアのパートナーの視線か。


 中庭に出たところでぐるりとあたりを見回す。窓からこちらをうかがっている気配はないということは、水鏡か何かで覗き見しているのだろう。

 もしかしてものすごく嫉妬深いのか? 彼女のそばに寄る魔獣は容赦しないと言わんばかりだ。

 俺は彼女の肩から降りて少し辺りを探索する。


『魔王サマ、ちょっとやっつけてくださいよ』

『お前な、簡単に言うな。その前にその呼び方やめろ』

『クロって呼んだら怒るくせに』

『当たり前だ』


 そう呼んでいいのは彼女だけなんだからな。……まあ、そのほかの人間に呼ばれてるのは成り行きだが、魔族と魔獣には許可してやらん。


『じゃあ呼び名つけてくださいよ。でないと魔王サマって呼ぶしかないんだからよ』

『……ならばクロードと呼べ』

『へいへい。で、やっつけてくれるんすか?』

『彼女の敵になればな。呼んでるぞ』


 ウルクの声にピートはとっとと噴水のところに行く。

 この中庭には複雑な魔法陣がいくつも仕掛けられている。ここに植えられている植物はその恩恵をあずかっているようだ。いい風が通っていく。さやさやと葉擦れの音はするものの、少し離れた場所にいる彼女やウルクたちの会話は噴水の水音に遮られて聞こえない。

 これがこの中庭の特徴なのだろう。同じベンチに座っていなければ、喋っている内容は聞こえない。広いわりにあちこちにベンチがあるのはそのせいか。


『ここ、結構落ち着くな』

『ああ。ノイズが少ない』


 人の声は時として思考の妨げになる。ここにこの遮音魔法をかけた人物はよくわかっている。

 ヴィルクが呼ばれて俺は彼女の肩に戻った。

 不意に見知った気配がした。ちらりと顔を向けると、上の階からクラウスが覗いている。

 俺が見ているのに気が付いたのか、クラウスはちらりと手を上げるとすぐさま顔をひっこめた。

 今日は隠れ家に戻ってくるだろうか。一度覗きに行くとしよう。


 ◇◇◇◇


 ジャックやピートたちと別れて女子寮へ入る。

 彼女の部屋の前で何やらやっている。部屋に入るのに魔力紋を登録しているようだ。おれは? と思ったのだが、彼女に連れられずに寮の中を歩くのは危険かもしれない、と、とりあえず主張するのは控えておく。

 あの聖女も言っていた。力もなく契約もない魔獣はほかの力強い魔獣に食われることもある。

 魔王おれを食おうというやつはいないかもしれないが、曲がりなりにも魔王の力の片鱗だ。よこしまな思いを抱くものはいないとは限らない。

 こう考えてみると、彼女を守るどころか彼女に守られているこの状態はあまり好ましくない。

 やはり大型魔獣に変化するべきか、と真剣に悩む。そんなことより早く彼女を手に入れてしまえばいいのだが……。そうなると、何ら警戒しない彼女に近づくのは難しくなる。

 彼女の膝枕も気持ちよさそうだが、膝の上に丸くなって眠るのも、彼女の胸の上に上るのも、なかなかに良い。そうそう譲れるものではない。


 部屋の中は思ったよりも清浄な気で満ちていた。すでに誰かが住んでいるとのことだが、その人物の気配だろうか。彼女の肩から降りて部屋の中をあちこち嗅ぎまわると、護符が置いてあった。これが部屋の中を浄化しているらしい。俺が近寄っても嫌な気はしない。

 彼女が左手に着けている篭手は別だ。あれは彼女を守っているだけではない。魔の気配を浄化しようとする。魔王おれにとっては忌むべきものだ。できるなら手放させたいところだが、あれ以上に彼女を敵から守るものはない。……俺もそれに含まれるのは癪だが、彼女の勇者という属性上、しかたがない。

 ウルクたちが去ると、彼女はため息をついてベッドに腰を下ろした。おれは膝に飛び乗ると彼女にすり寄る。彼女は俺を抱きしめるとおれの柔らかな黒い毛並みに顔をうずめた。


「今日からここで二人暮らしだって。……ほかの人と一緒に暮らすなんて、できるかな」


 ニャア、と鳴いて彼女のほほをぺろりと舐める。

 大丈夫だ。何か問題があれば俺がなんとかしてやる。どんな相手であろうとも。


 ◇◇◇◇


 扉をぶち破って入ってきた女は、この部屋の住人だと言った。

 確かに、この部屋に残っていた気配や魔力紋は彼女のものと一致する。

 が、あの清浄な気配とはそぐわない。こっそりと配置された護符が部屋の中を浄化しているのは間違いない。

 なぜなら――この女からも腐臭がしたからだ。

 護符がなければ、この部屋は王宮からあふれていた悪しき気配で満ちていたことだろう。

 この女はいったい何者なのだ。

 言葉の端々から貴族の娘だということはわかる。

 だが、分別のつく年齢であろうに、学院の規律を理解していない。

 それでもなおこの言動が改められないのであれば、アリアの言うように放逐されても仕方がない。

 魔力の高い者ならだれでも入れる学院。そこを放逐されたとしたら、その者はどうなるか。

 一般的な魔法は独学でも学べる。

 だが、より高度でより複雑な魔法は、基礎を踏まえたうえで実践するほうがより効率的に習得できるだろう。

 魔法の解析や開発、研究に専念するのにも学院は役立っているという。

 俺にとっては別段特別なことではない。魔法をいじるのも開発するのも普段やっていることだ。だから、学院にいることの意義は俺には理解できないが、命に限りのある者たちには時間は無限ではない。

 多くの者が引き継いできた研究などもある。そうやって編み出された魔法は枚挙に暇がない。人の寿命が短いからこそ作られたものも少なくない。

 学院から放逐されるのは、魔術師として身を立てようと思っているならば致命的だ。

 アリアが去り、扉の修理を終えた女は、それでも怒りが収まらないのだろう。一度も彼女を見ることなく、言葉を交わすこともなく、部屋を出て行った。

 と同時に空気に漂う悪しき気配が薄くなる。


 ――俺の纏う気配より闇の気配をまとう女って、いったい何なんだ。


 それとも。――悪意の種でも埋め込まれたか。

 魔族の中でも人の感情を食らう種族がよく使う手法だ。

 となると王宮に巣食うのはそいつらかもしれない。人間のどろどろとした欲はやつらにとっては実に甘露であろうからな。

 まあいい、ちょうどいいサンプルが目の前にあるのだ。

 そのうち探らせてもらおう。

 あの護符は寮のほかの者たちに異変を感じさせないための仕掛けだろう。

 ウルクからは彼女が寝た後の警護を頼まれている。無論、頼まれずともやるつもりであったし、彼女が誰かの悪意にさらされるなら、悪意の元を刈り取るぐらいは訳ない。


 ――そうでなくとも、彼女にあんな顔をさせた女を許すつもりはないがな。


 晩御飯はアリアが食堂に連れて行ってくれた。

 おれの分についても申し送られていてちょっと驚いた。いつもは彼女の食事からもらっていたからな。まあ、別に食わなくても死にやしないが。

 食堂にはほかの生徒たちもいた。新入生ということで好奇心の視線が集中していたのは彼女も気が付いていたようだ。が、アリアが同席しているせいか、皆遠慮して声をかけてくることはなかった。

 それもきっかけの一つだったのかもしれない。

 彼女はベッドのうえで枕を抱きしめたまま丸くなって眠っている。

 横でとぐろを巻くおれを寝るまで撫でてくれるものの、心ここにあらずだった。

 片目を開けて彼女の気落ちした顔を見つめる。こういう顔をしているときはろくなことを考えていない。

 せめて夢の中だけでもいい夢を見るように、おれは彼女の額に鼻をくっつける。

 眉間に寄ったしわが少しだけ和らいだ。

 夜半になってようやく戻ってきた女は、纏っている暗い気配を濃くしていた。あちこち汚れ、くたくたになった女は汚れた制服を替えもせずにベッドに倒れこむ。

 寝たふりをしながら、部屋の監視をする。留守の間でも何があるかがわかるように、部屋の中にはあちこち『目』を配置した。

 念入りにカムフラージュしたからよほど敏い者でない限り気が付かないだろう。

 何もないことを祈りながら、彼女の枕元に丸くなった。


 ◇◇◇◇


 彼女の腕に抱かれて、食堂への道をたどる。あとをついて歩くと移動魔法のせいでどうしてもおれのほうが遅くなるからと言いながら、抱きかかえたおれを優しくなでてくれる。

 おれは喉をぐるぐる鳴らしながら、彼女の手に頭を押し付ける。

 昨夜は隣のベッドの女が時折寝言でうなされる程度で、特に何事もなし。

 闇の気配も変動はない。

 女の体を調べたところ、悪意の種はやはり痕跡があった。

 だが、仕掛けた主が辿れない。

 種の主は、自分の獲物を横取りされないように、マーキングもするのが一般的だ。発芽した種が発する負の感情を種の主に送るため、糸がつないであることもある。

 それをたどれないということは、近くに種の主がいるか――種の主がいないか。

 王宮内に種の主がいるのだとしたら、ありえる話だ。

 種の主がいないとなると、魔族が植えたものではないということになる。


 ――まさかな。


 そう思いつつも、人間の手で植えられた可能性を否定できない。

 やはり女の素性を洗ってみるとするか。

 王宮内の人間関係と合わせて、クラウスに頼むとしよう。

 護符の方は上級魔術師や聖職者が作るものに似ている。聖域に近い浄化ができる護符は作れる者も限られているだろう。

 彼女の左手の篭手と同じで、あまり近寄ると俺の影である猫も影響を受ける。

 魔王おれ本体であれば大丈夫だが、魔族では近寄れないだろう。魔族でない者の手が必要だ。

 どちらにせよ、そのためには隠れ家に飛べる場所を探すのが先決だ。

 しばらくは敷地内の探索に精を出すことにしよう。


 ◇◇◇◇


 食堂でいきなり声をかけてきた女がいた。

 女はジェイドと名乗った。さっぱりした性格のようだ。魔力はそう高くないが、火の属性には親和性が高い。

 彼女に対する敵意はあれど害意はないようで、俺は様子見することにする。

 そのうち誤解が解けたのだろう、彼女に向けられていた敵意は消えた。

 女が立ち去ると、彼女はほっと肩の力を抜いて立ち上がった。

 おれを抱き上げるとトレーに手を伸ばす。おれは肩の定位置に登って頭をがっちりホールドすると、ゴロゴロと喉を鳴らす。

 回りにいた者たちが彼女とおれを指さしている。漏れ聞こえてくる声からすると、彼女や俺を揶揄するものばかりではなく、可愛いというものもある。


「なんか、目立っちゃったね」


 トレーを返却口に戻しながら、彼女はちらちらと回りに視線を投げている。

 部屋から食堂までの移動は移動魔法のおかげで誰かとすれ違うこともないのだが、食堂内ではそういうわけにはいかないようだ。

 あちこちから飛んでくる嫌な視線の持ち主にじろりと視線を向ける。だが、肩に乗ったおれの視線はむしろ黄色い声を上げさせるだけだった。

 ふと嫌な気配に頭を巡らせると、同室のあの女が奥のテーブルから憎々しげに彼女をにらんでいた。

 よほどアリアに叱られ、無様な姿を見られたのが気に入らないのだろう。自業自得ではあるが、悪意の種がそれを助長して、目を曇らせているのだ。

 周りの者たちもあの女についてはよく知っているのか、周りに近寄る者はいない。だからなおさら、孤立して他者を憎むのかもしれない。

 おれが見ているのに気が付いたのか、視線が合った途端、女は席を立った。

 じっと目で追いかけると、食堂を出る間際にもう一度こっちを振り向いた。

 女の口が小さく動き、ぷいと出ていく。

 だが。

 魔王おれの耳には聞こえていた。


 ――死ねばいいのに。

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