27.『フィラーラの歩き方』を手に入れました。
二日目は馬車に魔法入門書を持ち込んだ。毛布が積み上がっていて、それを背もたれにして読む。ちょっとだけ馬車の振動が和らぐ気がする。
クロも馬車での移動は嫌なのだろう。ウィレムの隣にくるりととぐろを巻いて寝ている。時折ピクピクと手やしっぽが動くのは夢でも見ているのだろうか。
辺境伯はといえば、昨日と同じく背筋を伸ばしたまま本を読んでいる。
魔法は王都に着くまで禁止、と言われているが、移動中もやっぱり禁止らしい。思わず口に出しそうになった呪文に何度となく突っ込まれた。仕方がないので本を読み進めるだけにする。
基礎中の基礎はアンヌさんが教えてくれた三つの魔法。
それを強めたり、他の効果を混ぜるために呪文を構築するのが応用だ。さらに呪文に力を込め、質を上げるために韻を踏むように言葉を並べて歌うように口にする。
詠唱時間を短縮するために呪文を短縮したり、効果を上げるために装飾音を混ぜて韻を合わせる。
魔法は思い描くだけで発動するもの、と覚え込んでしまったわたしにとっては新鮮だ。もちろん、入門書であるこの本には無詠唱だのといった高レベルな方法は書かれていない。
温風もお湯も本来なら長い呪文を口にしなければ出来ないものなのだ。
最後のページまで読み終えて、わたしは本を閉じた。
読み終えてしまった。
馬車に乗ってる間ずっと読んでたせいだ。店にいた時は、途中で色々茶々が入ったり、疲れ切って寝てしまったりして、続けて読む時間が取れなかったのだ。
なのに、朝から読んであっさり読み終えてしまった。
まだ今日の宿に着くまでには時間がある。
本当は本を片手に訓練して、本がなくてもできるようにしたいのに、それもできない。
「暇そうだな」
毛布にもたれかかってぼうっと天井を眺めていたのだ、そう思われても仕方がない。
唇を尖らせたまま座席に起き上がると、ウィレムは一冊の本を差し出してきた。
「これは?」
「これからそなたが入ることになる王国騎士団付属魔術学院の卒業生が書いた紀行本だ。東国から来た学生で、王都での生活についてそなたの一助となろう」
「ありがとうございます」
受け取った背表紙には見覚えがあった。
たしかこれ、辺境伯の図書室に陳列されていた一冊だ。歴史や政治、地理の学習優先で、結局手にすることがなかった。
もしも持ち出せる本があったなら、これを迷わず選んだだろう。
それを、なぜ知っているのだろう。
ちらりとウィレムを見ると、珍しく目を眇めてわたしを見ていた。
「喜んでもらえたようで何よりだ」
「あの、なぜこれを?」
「ああ、司書のキーラが申しておったのでな。いつも読みたそうな目で見ていたと」
キーラと言われて顔を思い出す。図書室付きの赤い巻き毛をしたちょっと影のある少女だ。あまり話をしたことはなかったけれど、そこまで見られていたとは知らなかった。
「嬉しいです」
「それはよかった」
毛布によりかかる態勢にとっとと戻って、表紙を開く。そこには献本なのだろう、作家直筆のサインが入っていた。
『願わくば、同じ道を辿る後輩たちの一助とならんことを メディア・ラーオン』
家名があるということは、東国の貴族の子女なのだろう。自身の体験を本として、同じように王都にやってくる魔術を志す者たちに一本の糸を垂れようとしてくれたのだ。
いわば、『ケレノーヴ版、エランドル王国の首都フィラーラの歩き方』なのだろう。
ありがたく拝読しよう。
早速ページをめくると、わたしは一言一句を味わうように読んだ。
「着いたぞ」
揺り起こされて顔を上げる。昨日とまるで一緒だが、今日は全く眠っていなかった。
眠るどころか、本当に貪るように本に釘付けだった。
読書を邪魔されたわたしは不機嫌な顔をウィレムに向けていたのだろう。ウィレムの表情も途端に険しい物になった。
「本が気に入ったのはよいが、根を詰めるな」
それだけ言いおいて、ウィレムはさっさと馬車を降りた。
仕方がないので本を大事に胸に抱き、クロのあとに続いて外に出る。
昨日と同じく、ジャックとウルリーケが入り口で立っているのに気がついたが、挨拶もそこそこにわたしは部屋に上がってしまった。
それほど、本の続きが読みたくてたまらなかったのだ。
割り当てられた部屋に案内してくれたのが誰だったのかも覚えてない。多分ガルフだったんじゃないかと思う。
虚ろな顔をしていたから病気かと心配した、とあとから聞かされたのだが、それぐらい、本にのめり込んでいた。
特急で風呂を済ませ、食事もとっとと済ませると、ベッドに横になって本を読んだ。
メディアと言っただろうか、この作者は本当に辺境から首都に来る人間のことをよく知っている。自分自身のことを描いているのだから当たり前なのかもしれないが、一つ一つが腑に落ちる。
メディアの思いはわたしの思いだ。
メディアが怒ればわたしも怒り、メディアが泣けばわたしも泣いた。
東国からエランドル王国までの旅の不安、王都に圧倒される恐怖、いわれのない侮蔑、あからさまな侮辱――。
メディアは東国とはいえ家名をもつ貴族だ。
なのに、どうしてわたしと同じように蔑まれているのか。
それは、メディアが東国の生まれだからに他ならない。
彼女――途中で筆者が女性であることを知った――は東国の形質をよく引き継いでいた。
低い身長や抜けるような白い肌。エランドルやこの周辺の民族とは、姿形が明らかに違い、どこへ行っても子供の扱いを受けた。
――そう、まるでわたしのように。
王都の屋台でわたしが受けたような侮蔑を、彼女も受けたのだ。それを、本の形ではっきりと書き残している。
彼女が一体何年前に卒業された人で、この本がいつ書かれたものかは分からない。でも、未だにそれが変わっていないことは身を持って知っている。
涙が止まらない。
それは自分が味わった屈辱をなぞったせいなのか、同じ境遇で苦しんだ彼女を思ってなのか、自分でも分からない。
クロが心配したのか顔の横にやってきてわたしの顔を、涙を舐め取ってくれた。ざりざりとしたクロの舌は腫れ上がった瞼には痛かったけど、暖かいその感触が涙をまた誘った。
「クロ……悲しいよ」
わたしは本を置くとクロを抱きしめ、頬ずりした。
どうして人はこんなにも変わらないのだろう。五百年前も、元いた世界でも、今も変わらず。
今日の宿は昨日ほど防音は良くない。隣の音や声が時折聞こえてくる。こんなところで大声を上げて泣いたりしたらびっくりして飛んでくるだろう。
声を上げないように、クロのお腹に顔をぺったりつけて、わたしは嗚咽をこらえた。
この世界を変えるだけの力はわたしにはない。でも、この世界でまで諦めたくはないのだ。
せめて、わたしだけは、信念を曲げず、間違えずに歩こう。
「クロ、わたしを支えてね……?」
眠りに落ちかけた意識の向こうで、ニャアと聞こえたのは気のせいではないだろう。




