閑話:魔王閣下の日常 4
彼女の落ち込みようが半端ない。
一人になると猫の入った籠を抱きしめたまま身じろぎもしない。時折落涙しては、ごめんの連発だ。
ガルフに勇者だと告白したあと、ひとしきり泣いてから彼女は領主に会いに行く、と言い出した。
「いや、でも、いいのか?」
「ええ。……もう、嘘つきたくないです」
声が震えているのが分かる。ガルフは深くため息をつくと、顔を上げた。
「……いいんだな」
先ほどまでの激情に揺れた瞳ではなかった。魔術騎士団の一員としてのガルフの顔がそこにあった。
感情を押し殺し、冷たい顔。猫を捕まえた時と同じ顔だ。
彼女がちいさくうなずくと、ガルフは立ち上がった。
彼女もベッドから降り、猫の入った籠を抱き上げた。
まだ本調子でない猫の体ではのぞき見するのが精一杯だ。
彼女の伸ばしてきた手をざり、と舐めると、ほんのりと微笑んでくれた。
大丈夫だ、魔王がついている。お前が不快に思うのなら、全て吹き飛ばしてくれよう。
◇◇◇◇
店の荷物を引き上げると、再び馬車の人になった。
隊長とあと二、三人の護衛が馬で馬車の周囲を守り、ガルフは馬車全体に魔法をかけ、万が一のことがないように守っている。
「今のうちにその猫のリボンの魔法、入れ替えておこう」
「おねがいします」
膝の上の籠をガルフに渡すと、彼女は少し怯えたように猫を見た。
「魔法を覚えたらやり直すといい。自分で制御できる方がいいだろう?」
「はい」
リボンを解き、ガルフは口の中で呪を唱えた。魔法の消去を始めたらしい。その間になんとか籠から脱出すると、彼女の膝によじ登った。
「クロ」
優しくなでる手から彼女の魔力が流れ込んでくる。猫の体を維持している魔力が枯渇しかけているのだ。一度元の体に戻って猫の体を構築し直したほうがいいのだが、リドリスの館に行ってしまうとおそらくそのチャンスはない。
敷地内から出られるようなら外で、無理なら一度クラウスに来てもらうか。
「ところでシオン」
「はい」
「その魔獣……猫はどこで拾ったと言っていたか?」
魔法の消去は終わり、再び猫の首にリボンを巻き、封印をかけるガルフがふと思い出したように言う。
「ユーティルムの……神殿のそばの森です」
「……元の森に一度連れて行ったほうがいいのかもしれない」
「元の森、ですか?」
彼女の表情が一気に暗くなった。いい思い出がないせいだろう。
「ああ。魔獣が発生した場所は濃い魔力が溜まっていることがある。魔獣はひどく傷つくと、そういう魔力溜まりで体を癒やすことがあるという。近いのであれば連れて行ってやれるが」
「……ありがとうございます。でも、ユーティルムの神殿の近くは関係者しか入れませんし……」
ガルフは眉を寄せて顎に手をやった。
「魔獣を飼ってる奴がいるから近くに魔力溜まりがないか聞いてみよう。近いうちに行けるように手配する」
「ありがとう、ございます」
猫を撫でる彼女の手が震えた。ざり、と舐めると喉に手が回ってきた。ゴロゴロと喉を鳴らす。
「ガルフさん……聞いてくれます?」
「ああ。何でも聞くぞ」
「この子……クロは、わたしの最初の従者なんです」
優しい手が頭を撫でる。
「あの日……森のなかで目が覚めたらこの子が胸の上に寝てたんです。それから、どこへ移動しても必ず、翌日の朝には胸の上に寝てるんです。どこから来たのかもわからない、言葉が通じてるのかも分からない。でも、なぜだかこの子だけはわたしについてきてくれる」
そうだ、ようやく見つけた彼女を見逃すわけにはいかなかった。
「この街に来てからも、そうでした。お金がなかったからずっと近くの森で野宿して……でも、夜になってねぐらに帰るとやっぱりクロが待ってて……。わたしにはクロしかいないんです。だから、いなくなるのは、いや……お願いします。クロを助けたいんです」
ぽたぽたと涙が落ちる。泣き虫め。ざり、と伸び上がって舐めると、彼女の手が猫の体を滑っていく。
「分かった。……全力を尽くす。お前の従者は必ず助ける」
ガルフは眉根を寄せ、拳を握る。
安心しろ、お前が何も出来なくとも、猫は復活する。
彼女を泣かせるのは本意じゃない。はやく回復しなければ。そのためには多少の無理も仕方あるまい。
◇◇◇◇
リドリスの館に来てから少しは回復してきた。こっそり俺の魔力を流し込んでいるからだが、それでも完全回復には程遠い。癒えていない傷から流出する量が上回っているのだ。
よたよたではあるが、歩けないわけじゃない。俺は館の探索と、抜け穴を探すことにした。
館全体には退魔の結界が張ってあった。結界内の魔獣や魔族はごっそり力を持っていかれる。長くとどまれば留まるほど、命に関わる。
普通なら猫の体など一瞬で霧散するほど力を削ぐはずだが、そうならないのは偏に彼女と縁を結んでいるからだ。このリボンがなければ、一瞬で塵に帰る。
彼女の部屋にはさらに防魔の結界が張られていた。内側から魔力による攻撃をされたとしても、一切のダメージを与えない。勇者である彼女の力が暴走した場合を考えての措置なのだと知れた。
廊下も床を歩くごとに少しずつ魔力を吸われる。微々たるものだが、今の猫にとっては少なくない魔力を削られることになる。なので、開いてる窓を見つけたら即座に外に出ることにしている。
庭はそれほどきつい魔法はかけられていない。強いて言えば、領主に害意を持つ者を強制的に敷地内から排除する魔法だ。あとはエリアによって植えてある植物の生育促進や浄化の効果などがかけてある。
別邸の方に行けば行くほど領主の魔力は薄れていく。誰のものかわからないが、暖かい気配のする魔力であふれていた。
そういえば、学院に入るまで彼女には魔法を使わないようにと領主は言っていた。
基礎を全く知らず独学で覚えた彼女の妙な癖を修正するつもりなのだろう。
魔法の発動には通常、場の安定のために杖とローブを装備した上で、呪文による構築を行う。無詠唱の技能があれば構築に呪文の詠唱はいらない。
彼女の力は魔王のと同じで、思い描くことで発動できる。基礎をすっ飛ばしても問題ないのだが、それを他の魔術師に見せるわけには行かないのだ。
おそらく、リドリスの領主はそれを知っているか、見抜いている。……ガルフより格上の魔術師だ。なぜこんな田舎どでとどまっているのだろう。
「お、クロ。ここまで歩いてきたのか?」
兵士の一人が声をかけてくる。魔術師は俺のような魔獣は本能的に忌避するが、兵士たちはそうでもない。何かあれば一刀両断できると思っているからかもしれない。
ニャア、と答えると分厚い手のひらが猫の頭を撫でた。
「毛艶も悪くなったし、ずいぶん痩せたよなあ。……魔獣って何食うんだろ」
体に手を滑らせながら、兵士はつぶやく。魔獣をパートナーにしているせいか、猫にも抵抗がない。
「うちのは鳥系だからドングリとか大好物だけど、猫にドングリはねえよなあ。……やっぱ肉か? 今度ウルクのやつから魔兎の干し肉もらっとこう。それなら食えるか?」
ニャア、と返事をする。まあ、魔兎の肉ならこの体でも食えるだろう。
「そっか、よし。今度準備しとくわ。姫さんは今勉強中か? 暇で出てきたのか?」
姫さんと呼んでるのは彼女のことか? サイズからは子供にしか見えないだろうに、姫扱いするとはなかなか見どころがあるな。だが、お前にはやらんぞ。触るのも禁止だ。
ざり、と手を舐めながら爪を出して刺しておく。
「いてっ、あー、お前爪伸び放題じゃねえか。爪切りで切ってやろうか?」
冗談じゃない。慌てて手を引っ込めると、にやっと兵士は笑った。
「こっちの言葉は理解してるっぽいな。よし、暇ならまた遊びに来い。干し肉は準備しとく。俺はジャック。覚えといてくれな」
ニャア、とまた返事。覚えたぞ。ジャック。彼女には近寄らせんが、貢物はもらってやってもよい。
休憩時間が終わったのだろう、奴は手をひらひらさせて戻っていった。
さて、このあたりは比較的結界が薄い。一度隠れ家に戻ってクラウスの報告を聞こう。壁の上によじ登り、平たい場所を見つけて丸くなると意識を本体に飛ばした。
◇◇◇◇
クラウスは彼女の入学にあわせて学校に入る算段をつけたらしい。
忙しいのだろう、レポートは机の上に放置されていた。リドリス辺境伯の事情はだいたい把握した。なるほど、ユーティルム王家の唯一の生き残りか。
……魔王にとっては滅ぼすべき対象なだ。直接召喚に関係した者ではないが、召喚を推進したのは間違いあるまい。タイミング的にも。
勇者を利用しようとする人間はどうであれ許さない。領主も彼女を勇者として大々的に王都に送り込もうとするならば、即殺しておった。
彼女を隠す理由を知っておきたい。しばらくは泳がしてやろう。
潰すなら一瞬でできる。
そう思いながら猫の体に戻ると、なぜか室内にいた。
「クロ?!」
身じろぎして声を上げると、彼女が覗き込んでくる。頭をもたげて周りを見回すと、彼女の部屋だ。
「よかった。別邸の兵士さんが連れてきてくれたんだよ。ひなたぼっこしたまま寝ちゃってたらしいよ。あまりによく寝てるから、そのままにしとこうかと思ったらしいんだけど、雨が降りそうな雲行きになったから連れてきたんだって。えっと、ジャックさんって言う兵士さんで、この部屋まで運んでくれたんだよ」
あいつに借りを作ってしまったのか。仕方ない、一度だけ彼女の手を取ることを許してやろう。
「ジャックさん、クロのことすごく気に入ったみたいね。抱っこしてる間、ずっと頭撫でてた。ジャックさん、魔獣をパートナーにしてるんだって。今度見せてもらう約束したんだ。クロも一緒に行こうね」
久しぶりに彼女が楽しそうに微笑んだ。
ああ、この笑顔を見るのはいつぶりだろう。
ジャックよ、いずれこの大きな借りは返させてもらおう。楽しみに待っておれよ。
――しかし、俺より前にこの笑顔を見たのだろうか。そうだとしたら許しはしないがな。
◇◇◇◇
別邸のあたりまで行くと、今日もジャックがいた。他の隊員たちと鍛錬を続けている様子をいつもの塀の上から見る。
ジャック自身はそれほど強くないようだ。打ち合いを見ていると、三回に一回は剣を跳ね飛ばされている。槍に持ち替えるとその頻度は下がるようだが、騎馬に乗ると勝率がぐっと上がった。
元々が騎馬での戦いに特化したスタイルなのだろうと見て取れる。
副隊長の号令で休憩に入ると、ジャックは目ざとく猫を見つけて寄ってきた。
「よう、クロ。今日もいい天気だな」
ニャ、と返事を返し、伸ばされた指先を舐める。握っていた金属の匂いが写っていて顔をしかめた。
「ほれ、約束の干し肉。ウルクが自分のパートナー用に準備してるやつだ。お前にはちと塩分高いかもしれんが、まあ問題ないだろ」
差し出されたのはスライスされた燻製肉だ。燻製と言っても香りのつくようなチップを使っていないようだった。
起き上がると手のひらに載せられたそれに舌を伸ばし、肉を削り取り、飲み込む。確かに塩分高めだが、味は悪くない。スモークチップを変えて匂いをつけてやれば晩酌のつまみでも十分イケそうだ。
ウルクというのも魔獣をパートナーにしていると聞いていた。猫と同じタイプの四本足か、それとも猛禽類か。
「よしよし、いい子だ」
反対の手のひらで体を撫でられる。彼女に比べるとゴツゴツして手触りが良くないが、まあ嫌いではない。
「明日は俺のパートナーに会わせるからな。楽しみにしてくれ。まあ……取って食われることはないと思うけど、びっくりするなよ?」
ジャックの言葉に猫は首を傾げる。それから食べ終わりの印に手のひらを舐め、グルーミングを開始した。
「明日はウルクも来る。お前は会ったことあるだろう? 魔術騎士団の一人なんだが、いいやつだよ」
魔術騎士団の面々は何人か会っているが、どれがウルクかは情報が少なすぎてわからない。皆同じローブをつけているし、フードを深くかぶっている者もいる。そうなるともう髪の色さえわからない。
「まあ、明日を楽しみにしといてくれ。それにしても姫さん、休みもなしでずっと勉強とか、たいへんだなあ。お前も寂しいだろ」
ニャ、と短く返事をして、耳の手入れを再開する。
背が低く子供にしか見えない彼女を、騎士団の奴らは好意的に、しかし敬遠しつつ接しているように見える。
踏み込んだ事情はリーフラムとガルフしか知らない。だが、彼女を連れて王都に戻るのは決定事項で、魔術師たちからは興味津々な視線が向けられている。それは男女という意味合いよりは、自分たちを凌ぐ力の持ち主である『子供』の彼女の成長後に対する警戒心だろう。
魔力量が半端なくあり、努力次第でかなりレベルの高い魔法でさえ使いこなせると判明すれば、いきなり彼らを飛び越して行くこともあり得るのだ。警戒しないはずはない。
この辺りは上級魔族と変わらないものだな。
長く上級魔族の上位ランクにいる魔族ほど、自分を凌ぐ魔王の誕生に戦々恐々する。生まれたと知るや殺しにかかるものもいる。
そういう逆境をはねのけて、魔王は立ち上がるわけなのだが。
魔王が死ねば、次に魔力量の大きな者が魔王になる。だが、次点が繰り上がることは少ない。前魔王が死んだ際に放出される膨大な量の力の渦から生まれるのがほとんどだ。ほんのわずかの例外を除いて。
数代前の魔王がそれだったらしい。その前の魔王は自分の意思でこの世界を出ていき、次の魔王が生まれるべき力の坩堝がないために次点の魔族が繰り上がった。
「お前の姫さん、成長したらすごい魔術師になるんだってな。さしずめお前は使い魔の猫ってところか?」
ジャックの言葉に猫はニャ、と答え、近くにあった指をざりりと舐める。ちょっと機嫌が良いと知らしめるためにゆったりとしっぽも動かして。
「そうか、そりゃ嬉しいよな。俺は姫さんの成長した姿を見てみたいかな。魔術師のローブじゃなくてきちんとドレスアップしたら、あの白い肌に黒い髪の毛はさぞかし映えるだろうな」
なんだ、こいつも彼女に興味があったクチなのか。指を甘がみしてやると、慌てて手を引っ込めた。
号令がかかり、ジャックは猫を撫でると戻っていった。
明日は外に出られるらしい。それを楽しみに、今日は耐えよう。
◇◇◇◇
今日はジャックたちと魔力溜まりに行く日だ。籠の中から覗いていたが、結界の中を移動してるだけでじわじわ体力が削られる。
ジャックの横にいる銀髪の女がウルクだと認識したあたりからあまり記憶がない。気が付かないうちに眠っていたようだ。
だが、領主の館を出た瞬間に体の回復が始まった。このところほとんど食事を取れず、わずかながらの食物で維持してるだけで、どんどんやせ細っていたのは自覚していた。それが、息を吸う間にどんどん魔素を吸収できるようになってきた。
森に入ると、懐かしい場所を通る。彼女がいつも水浴びをしていたあの川べりだ。
ジャックたちはここが魔力溜まりだと説明している。確かにここは彼女を待つ間を過ごした場所だ。力が漏れていた可能性は十分にある。
猫の入った籠を一枚岩に降ろし、彼女も横に座り込む。
ウルクのパートナーは美しかった。人にも変化できる高位の魔族であろうに、唯々諾々として契約の魔法にて彼女に縛られておる。
ウルクは確かに美しい。魔力の多寡もさながら、銀の流れる髪とその空色を映す瞳は印象的だ。中性的な顔ではあるが、美しさはどんな姿であっても変わらないだろう。
ウルクのパートナー――ピートに『手を出すな』と威嚇された。以前の俺なら一笑に付したことだろう。だが、唯一を守ろうとする思いは同じだ。
横取りするつもりはないと伝えたうえで、シオンに害をなせば命はないと脅しておいた。
ジャックのパートナー、羽ある魔族は人と同じサイズの猛禽類だ。ピートぐらいなら軽々と掴めるだろう。
ヴィルクもやはりジャックに寄り添うためにあの姿になった高位の魔族だった。ヴィルクはオスのはずだが、どうも訳ありのようだ。奴からも『ジャックに害をなすなら容赦しない』と威嚇してきた。
こいつら、魔王を知らないのか。それともわざと魔力を弱めてる分、舐められたか?
まあいい。彼女に手を出さないならば、見逃してやろうではないか。
彼女がヴィルクに視線を奪われている間に、猫は姿を消した。これだけの魔族が集い、魔力溜まりがある場所なら、俺の本体を呼び寄せても簡単には察知されまい。
無論、その大半の魔力は外に漏れないように封印をして、ではあれど。
かなり離れた場所に移動して、腕の中の猫の体を再構成し直す。
あの首輪に込められたカウンタースキルはマジできつかった。ガルフの力は侮るべからずだ。
猫を切り離し、俺の腕の中に収めると、ニャア、と鳴いた。そばまで来ていた彼女は顔を上げた。
――しまった。
まっすぐ見据えられた黒い瞳から、俺は目が離せない。彼女の目の力だろうか。俺が単に吸い込まれているだけなのか。
「これ――君の猫?」
かろうじてそれだけ口にする。本当はこんなところで俺の本当の姿を晒すつもりはなかったのに。
「クロっ!」
悲鳴に近い声があがる。必死で泥だらけになりながら川岸を昇ってきた彼女は、腕の中の猫と俺とを見比べている。
俺は、彼女に顔を近づけた。ああ、良い香りがする。他に誰もいなければその唇に食らいついてやるのに。
「ああ、確かに同じ魔力の匂いがしますね」
自分の行為をごまかして、ほんのり微笑む。
「ずいぶん弱っていたので治療しておきました。もう大丈夫でしょう」
彼女が伸ばしてきた白い手に、猫の体を抱き渡す。今はただの器だ。
「あのっ、ありがとうございます。クロは大切な仲間、ううん。家族なんです。救ってくれてありがとう。……何か、お礼をさせてください」
何も要らない。自分の体を作り直しただけだ。
彼女の腕の中で眠る猫を撫で、彼女の髪の毛をゆっくり手で梳く。
「気にしなくていい。もしまたその子の調子が悪くなったら、ここに連れておいで。治してあげよう」
ここに来なくても、あの屋敷から出ればいつでも力が発揮できる。お前のためならなんでもしよう。
ジャックたちの声が聞こえてきた。ピートが『そろそろごまかすのも限界だ。とっとと消えろ』と吠え立ててくる。ヴィルクも『悪いけど、そろそろ姫を返してくれよな』と唸っているのが聞こえる。
仕方がない。
二人の声に後ろを向けた彼女を背中からやんわりと抱きしめる。
ああ、俺の体でようやく彼女に触れられた。このまま攫ってしまいたい。俺のお前。
狼狽える彼女の頬にキスを落とし、耳朶を噛んで囁く。
「またね――白姫」
隠れ家に自分の体を送り、彼女の腕に眠る猫の体に潜り込む。体を伸ばし、起き上がった猫の体で呆然とする彼女の頬を舐めあげると、ようやく彼女は我に返った。
予想外の邂逅とはなったが、俺という存在を彼女のなかに刻み込むには丁度良い機会であったかもしれん。
俺を覚えろ。俺の顔を、魔力を、匂いを。お前のためなら、いつでも側にいてやろう。
彼女の顔に頭をこすりつけながら、俺は二人が駆けつけるのをのんびり眺めていた。
◇◇◇◇
一人取り残された部屋からするりと抜け出して、庭を歩く。
体を作り直してからは、この屋敷の結界でごっそり力を持っていかれることはなくなった。
別邸まで出かけるのも難なくできる。ふらふらしながらやってきていた時と比べるとあっという間だ。
「よう、クロ」
今日もジャックに見つけられた。他の隊員は気が付かないのに、なぜかコイツだけは猫の姿を補足する。
ニャア、と鳴くと手が伸びてくる。
「お前が喋れればいいのになあ。……なあ、あん時お前を直したのって……誰だったんだ?」
首を傾げてジャックの顔を見上げる。壁に体を預けて座り込んでいるジャックの膝に登ると、くるりととぐろを巻いて体を落ち着ける。
「ちぇっ。ほんと、お前の喋る内容が聞き取れればいいのにな。あの日以来、ヴィルクがあんまり喋ってくれなくてさ。ウルクも似たようなことを言ってた。あの時、誰が来てた?」
いつもの人好きのする笑顔を消して、射抜くような鋭い目で猫を見てくる。が、耳をぴくぴく動かすだけで顔を上げることはしない。
「あの姫さん、知らなかったんだな。魔獣を治せるのは魔族だけってこと。……やっぱ休暇じゃなくて護衛としてついてったほうが良かったな。もしあれが魔族だったってんなら……クソッ。ウルクが隊長に報告するって言ってたから、今頃呼び出し食らってるだろうな。お前さ、あの姫さんと意思疎通できねえの?」
やはり耳をぴぴっと動かすだけで寝たふりをする。
「俺もウルクも敷地内謹慎の上、処分待ちだ。……もしあれが魔王だったら、どうなってたか知れねえ。俺の首ぐらいじゃ済まねえ。……姫さん、もう外出は無理だろうな。領主が怒ってるって話だし。お前、もう怪我とかするなよ。怪我しても治しにあの森に行くのは無理だから。それに敷地からも出られないはずだ。っていうか出ようとするなよ。まず間違いなく結界に引っかかる」
ぴぴっと耳を動かして、しっぽでジャックの腕を撫でる。
「クロ、今晩抜け出してこれねえか」
猫の体を撫でながらジャックが言う。猫は起き上がりざま体を伸ばし、目の前にあったジャックの手を舐めた。
「姫さん連れて来いとは言わねえよ。俺もウルクも謹慎状態でな。お前はこの時間帯にちょくちょく来るから、お前をこうやってモフれるけど、あいつはそういうわけには行かねえ。ピートに会いに行けなくなってずいぶん寂しそうだからよ。よかったら触らせてやってくれねえかな。ほら、ピートはお前と同じ四足の猫科だし」
耳をかきながら、しっぽをゆらゆらりと揺らす。
こいつらには彼女を連れ出してもらった借りもあるし、処罰を受けているのは間接的には俺のせいだ。猫の体をモフるだけなら許してやってもいい。
しっぽをぴんと立て、ニャ、と短く鳴くと猫は膝から降りた。
「まあ、期待せずに待ってるよ。晩飯は姫さんも本邸で食うことになるだろうから、そのあとでかまわねえ。敷地内謹慎のおかげで本邸から食事を融通してもらってんだ。これが外で食うより美味くてさ。お前にも残しておいてやるよ」
ニャア、と鳴いて塀に飛び乗ると、ちらりとジャックを振り返る。号令がかかって、腰を上げたジャックはいつものように手を振って隊に戻っていった。
◇◇◇◇
部屋に戻るなり、彼女は猫を抱きしめて、ベッドに横になった。
「どうしよう……ねえ、クロ。あの人は誰だったの?」
彼女の様子がおかしい。やはりジャックが言った通り、魔獣を治せるのは魔族だけと聞いたのだろう。
ニャア、と答えて体をこすりつける。
「領主様が、魔獣を治せるのは魔族だけだって……ガルフも隊長も知らなかったのかな。ジャックさんとウルクさんは知ってたんだって。だから……あの時変な反応だったんだね」
俺はあの時のことを思い出した。彼女の話を聞いた途端、銀髪の女は険しい顔をして猫を見た。
「でも、あの人が悪い人だなんて……見えなかったよ。もし魔王だったらって言われたけど……きっと違う。……違うよね」
猫を撫で続けて、彼女はつぶやく。
「もう、敷地から出ちゃだめだって。食事も外じゃなくて部屋で食べるように言われちゃった。もうアンヌさんのところの料理、食べられないんだって。皆にもちゃんとばいばい言いたかったな」
一度別れは済ませているのだ、本当は気に病むことなどないはずなのに。
王都に行ってしまえば自分を知る人間はリーフラムとガルフだけになる。しかもそれは、勇者としての自分を知る、いわば仕事上の関係。人間関係と言うには薄すぎる。
あの店は彼女がこの世界に来てから最初に作った絆なのだ。
彼女の顔を舐める。涙の匂いがする。だが、涙は溢れてこなかった。
「あの人……なんでわたしのこと、白姫って呼んだんだろう。なんで……抱きしめたり、キス、したり……したんだろうね、クロ」
――いずれ全て教えてあげよう。今は、猫の俺で我慢してくれ。
頭をこすりつけ、ざりと唇を舐めると彼女は赤くなりながら猫を遠ざけ、唇を拭った。
「もう、だめだからね、クロ。唇は禁止」
そう言った彼女は少しだけ頬を染めていた。
◇◇◇◇
「領主がシオンを囲い込んでるって、ほんとなの?」
ウルクの言葉に猫はニャ、と短く返事をする。彼女たちの会話にこうやって相槌を打ってるからか、二人は猫相手に積極的に語りかけてくる。
あの日――森で猫の体を再構築してからだ。ウルクが積極的に猫に接触するようになったのは。
ジャックの言うように謹慎を食らってパートナーをモフれなかったのが本当に原因なのかどうかは分からない。魔獣をパートナーに持ち、優秀な魔術師のウルクのことだ、猫と俺の魔力が同質だと気がついたせいかもしれない。その可能性は十分ある。
「そう。……まあ、確かに彼女の魔力量はすごかったもんね。あのガルフ隊長を凌ぐんだもの。多分過去最高値よ。よくあれだけの魔力持ってて魔力酔いとかしないで保つもんだわ。はやいとこガルフ隊長も魔石への魔力の込め方ぐらい教えればいいのに」
「魔力酔いなあ。……それってヤバいのか?」
「魔力があっても魔法がろくに使えないと、体内に魔力が溜まったりしてね、体に影響が出ることがあるんだよ。街の食堂で住み込んでた時は色々自分で魔法使ってたんだろうけど、こっちに来たら使う機会ないだろ? この間聞いたけど、学院に入るまでは魔法使うなって言われたらしいじゃない。そんな状態であの魔力量でしょ? 普通どっかおかしくなってるわよ」
「ふぅん……なるほどな。おい、クロ。どうだ? 姫さんに異常はないか?」
猫は首を傾げた。少なくとも彼女の魔力の流れに変動はない。体調も悪い様子はなかった。
「そうか、問題はないんだな。まあ、こればっかりは個人差がでかいって言うし」
「そうねえ。もしかしたらうまく循環できてるのかもしれないけど。そうだ。クロ、あの時にあんたを助けた男の正体、知ってるんでしょ?」
猫はもう一度首を傾げてみせた。
確かに、魔族が魔獣を癒やした場合、癒やした側が誰かなんてすぐに知れる。
わざわざ手負いの魔獣を癒やすということは、それほど手に入れたい魔獣だということ。癒やすことの引き換えに、その魔族に隷属を要求されるのが一般的だ。対価も求めずに魔獣を癒やそうとする魔族はいない。
故に、猫が誰に隷属を求められたのかを知ってるはずだという論理は間違っていない。
だが。
今回は例外だ。
「知らないわけ、ないでしょうが。ああっ、もう。魔獣の言葉が聞き取れる魔法ってないのかしら。あったら即こいつにかけて何言ってんのかきいてやるのにっ」
パートナーになればある程度の意思疎通はできる。無論、魔獣側から人間へ明かす情報は自由に選択できるわけだが、猫は彼女とはパートナーとしての契約はしていないし、他の人間と意思疎通させるつもりはない。
内心にやにやしながらグルーミングを開始すると、ちょっかいを出すようにウルクが手を出してきた。ざり、とおざなりに舐めてやる。
「そういえば、あたしたちの処分が決まったわ」
誰に言うでもなくウルクがつぶやいた。
「まあ、あれから半月も謹慎してたから、それ自体が処分といえば言えるんだけど。減給三ヶ月、王都に帰ったら別命あるまで待機、だってさ」
「あーあ。せっかく王国騎士団第三隊に入れたってのに、短かったなぁ」
「それはこっちのセリフよ。全く。……第三隊は王都帰還後は一ヶ月は半分ずつ交代で休暇と近衛勤務だってのに、あたしたちは休暇なしだって」
「一体何させるつもりなんだよ、まったく」
ぶつぶつと二人は愚痴り始めた。
酔っぱらいの手をかいくぐって軽く甘噛みすると、ウルクは笑いながら手を引っ込めた。
「いいじゃないのさ、こんなけったくそ悪い話聞いた日ぐらい飲んだって。本当ならもっと暴れてやりたいってのに」
「あーまったくだ。ヴィルクにも会えねえ上に減給とか、ありえねー」
「ピート……一人で寂しがってないかなぁ。王都に戻ったらいっぱい添い寝してあげるから」
自分たちのパートナーの話になった途端、二人は暗い表情で俯いた。
あの魔獣たちにすっかり骨抜きにされているじゃないか。まあ、あれが人になれると知ったらこいつらはどういう反応をするのだろうか。
それは彼女も同じか。
猫が魔王になった時、彼女はどういう反応をしてくれるのだろうか。
先日の彼女の反応からは、好ましい結果を引き出せそうに思った。が、あれが魔王だと知ったら……やはり拒絶するのだろうか。
本格的にくだを巻き始めた二人を置いて、猫は塀に飛び上がった。
「もう帰るのか? 冷たいなぁ」
そんなジャックの言葉にしっぽをぶんと振って、軽く走り始める。
彼女の側にいるのが今の猫の仕事だからな。




