3.女将さんはいい人です 1
「ねえ、シロくん」
「はいっ?」
それはお昼時の殺人的アワーが終わってまかないのお昼を頂いていた時の話。
食堂の女将さんはカウンターの中で忙しそうにしながらわたしに声をかけてきた。珍しい。いつもならこの時間でもティータイムのお客が絶えなくて、急いでかきこめとせっつかれるのに。
「うちで働き始めてから何日経ったっけ」
「えっと……十日ぐらい?」
実のところ、時計もカレンダーもないし日を刻んで数えるようなものもなかったので、召喚されてからの日数がだんだん曖昧になってきていた。
「もう十五日目よ」
呆れたような女将さんの声に、わたしは恥ずかしくなって頭を掻いた。
「すみません、もうそんなになるんですね」
「何か思い出した?」
その言葉にわたしはうつむく。
ここで働きたいと飛び込みで交渉した時、正直に話すわけにはいかなくて、どこかから堕ちて頭を打ったらしくて記憶がない、という設定で話をしたのだ。
言葉も喋れるし、文字も読める。ただ、わたしのような姿の人間はこの辺りにはいなくて、かなり怪しまれたのは事実だ。もしかしたら、他所の国からさらわれてきたんじゃないか、とまで言われた。
それにしては言葉が理解できるし、生活する上で困ることはない。だから、日にも当てられないほど大切にされていたどこぞの王子か、もともと色素の薄い突然変異でどこかに幽閉されていたか、と女将さんたちは勝手に結論づけた。
「そうかい。そりゃ仕方がないねえ。何か一つでも思い出したらあたしに言いな。ここは辺境だけど人の出入りは多いからね。情報はいろいろ入ってくるんだ。例えば隣のユーティルム王国の滅亡の噂とか」
女将さんの言葉にびくっと体を揺らしてしまった。
「なんでもねえ、勇者を召喚しようとしたんだって。それに怒った魔王が国を滅ぼしたって命からがら逃げてきた人たちが口々に話しててね。もともと勇者を召喚しようとしてたって噂はこっちまで流れてきてたから知ってたけど、本当にやろうとしたって聞いて呆れたよ」
「え?」
女将さんの物言いは、まるで「魔王に逆らおうとするなんて愚の骨頂」と言わんばかりだったものだから、わたしは驚いて顔を上げた。
女将さんの顔はいつも通りで、にこやかに日常会話をするのと同じ表情だ。
「だって、考えてもごらんよ。勇者一人呼び出して、その子に全部やらせるんだよ? まあ、魔王なんてよほどのことがなきゃ出てこないから、ほとんど伝説になりかけてたし、なんでユーティルム王国の王様が勇者に頼ろうとしたのかは知らないけどさ。ああ、でも今回のことでやっぱり魔王は恐ろしく強い力を持ってて、逆らったら命がないって近隣の国に知らしめたろうから、当分は逆らおうとする国なんて出てこないだろうけどねえ」
うん、やっぱり。女将さんの口ぶりはまるで「隣の山が噴火したらしいよ。いつか噴火すると思ったけどねえ」程度の軽い口ぶりだ。
「あの、魔王って嫌われてる存在なんですか?」
途端に女将さんは顔をしかめた。
「なんだい、そのあたりも落っことして来ちゃったのかい? 当然嫌われてるよ。今回だって国一つ潰したんだ。恨みを買わないはずがないだろ? 人間が束になっても敵う相手じゃないよ。だから勇者召喚なんて術が存在するんだ。伝説では暴れる魔王を退治できるのは勇者だけって言い伝えだったと思うけど」
「じゃあ、昔はもっと暴れてたんですね」
「だろうね。……魔王の話はもういいよ。こんな話してたら魔王が寄って来ちまう。あんたの話をしようと思ってたんだよ」
「えっと、はい?」
いきなり話が変わってわたしはふたたび目を丸くする。
「シロくん、どこで寝泊まりしてるの?」
「えっと……その」
わたしは俯いた。
「それにその服も」
やばい。ここで働くときに住み込みも打診されたんだ。でも、それだと性別がバレる可能性があるから、別に宿があるからと嘘をついてた。
「もしかして……宿追い出されたのかい?」
女将さんの言葉にどう返そうかと頭を働かせる。うんといえば住み込めばいいと言われる。いいえといえばこのまま野宿継続だ。
「あの……」
「あたしも頭が回らなくてさ、ごめんね」
急に女将さんが柔らかい口調で言ったもんだから、わたしはびっくりして顔を上げた。
「あんたがお給金の代わりに三度の飯でいいって言うもんだからその言葉にのったけど、考えて見りゃ金がなきゃ宿屋も泊まれないし服だって買えないものね」
これ、と差し出されたのは、小さな麻袋だった。受け取って中を開けると、数枚の硬貨が入っている。
「女将さん……」
「うん、エティーファに言われて気がついたんだよ」
エティーファとは女将さんの下の娘で、今年十歳になる。時々遊び相手をしてるのだが、十歳でもすでにわたしと同じ体格な上に力も強いので、どちらが遊ばれてるのかわからなくなる。
「エティーちゃんが?」
「いつも同じ服を着てるのは替えがないからじゃないかって。でね、あんたが宿賃しかなくて何も持ってないって言ってたことを思い出したんだよ。服はエティーファのものならサイズがあうだろうからっていくつか持ってきたんだ。シロくんが着ても違和感ないものばかり選んだから」
そう言って女将さんは隣の席に服を何着か置いてくれた。
食事をかきこんでそれを開いてみる。エティーのもの、と言っていたが手触りがどれも新品だ。半袖の白いシャツ、長袖の白いシャツ、茶色のベストに膝下までのパンツ。体に当ててみるとどれもゆったりしている。エティーちゃんの方が出るとこ出てるので、パンツもおしりが余りそうだ。ブカブカなのはベルトでなんとかなる。
「ありがとうございます。嬉しいです」
ああ、これで川に落ちても乾かすの待たずに済む。
「それと宿なんだけど、ほんとにうちに住み込まないかい? 今日は夜から雨になるし、宿がないならうちは全然構わないよ?」
「でも……」
やはり躊躇する。確かにありがたいんだけど……。
「もちろん宿代はお給金から差し引くけど、ここのメンバーは皆通いでね。上の部屋には誰も住んでないんだ。昔はあたしが住んでたんだけど、結婚してから引き払ってね。だから、使ってくれる分には問題ない。風呂も沸かせるし。それなら休憩する場所を考えなくても済むだろう?」
「……女将さん、知ってたんですか」
モーニングとランチタイムをこなしたあと、ディナータイムまでの間に三時間ぐらいは比較的手の空く時間がある。他の給仕の子たちはその時間に交代で休憩を取っている。お昼のまかないを食べるか一度家に戻って食事をしてからディナータイムに出勤してくるのが普通だ。
わたしはまかないを食べたあと、すぐホールに出る。休む場所もないし、どこか行きたい場所もない。お金もないから何を見ても仕方がないから。
「馬鹿にするんじゃないよ。もう十日以上あんたのことは見てきたからね。他の給仕の子たちとは仲良くできてないみたいだけど、あれもあんたがお金がなくて遠慮してるからだろ?」
他の子たちはランチが終わったら街にショッピングに繰り出すことが多い。お店の男性と逢引してる子がいるのも知ってる。でも、何をするにも先立つものがない。
「あの子たちからも言われたんだよ。あんたと遊びに行きたいのになんで昼が終わっても働かせるのかって」
「えっ、ご、ごめんなさい」
自分が勝手に働いてたのに、まさか女将さんが悪者になってたとは知らなかった。
「今度からはちゃんと相手してやっておくれ。今まで休憩時間も働いてくれてた分、上乗せしてあるからね」
「はい、すみません」
「で、住み込みの件だけど、今日から使うかい?」
これは、これ以上断ると失礼になりそうな気がする。わたしはちらっと外を見た。今までは雨といえば昼間のスコールぐらいで、夜に雨が降ることはなかった。寝る時に草が濡れてることがあっても、直接雨に打たれたことはない。……最初のあの森以外は。
「わかりました。お世話になります。あの、でも一つだけ……」
「なんだい?」
「……猫を連れてきてもいいでしょうか」
「猫?」
女将さんの声がとたんに不機嫌になった気がする。顔を見るのが怖くなってわたしはうつむいた。
「はい。……わたしが目を覚ましてからずっとついてきてくれてる子なんです」
「あんたが飼い主なのね?」
「飼い主というわけじゃなくて……そのあたりもよくわからないんです。ただ、夜になるといつも一緒にいてくれて、最近は帰りを待ってくれてるので」
「ふうん、まあいいわよ。ああ、ペットならちゃんと契約の儀式は済ませてあるのね?」
「契約の儀式?」
「そこも忘れてるのかい? うちの店に来るお客の子たちは従順だろう? 主人の意に沿わないことは絶対にしない。それが契約の儀式さね。まあ、もともと契約の儀式ってのはある一定以上の知能を持つ相手との契約だからね。魔術師がドラゴンを従えたりするのに使ってたというから、猫だったら意思疎通するのは難しいかもしれないね。いいや、連れておいでよ。悪さをするようだったら隷属の首輪をつければいいし」
「わ、かりました」
クロはペットじゃない。わたしの唯一の仲間だ。ペットと同列にはしたくない。女将さんには悪いけど、隷属の首輪もつけたくない。
だって仲間だから。
「じゃ、今日はもう仕事はいいから、上の部屋の掃除と風呂場の掃除をしておいで。これが二階にあがる扉の鍵。裏から直接二階に上がれるから。必ず鍵をかけるようにしてね。ああ、その前にその猫を連れてきたほうがいいかもね。雨は夕方には降り始めて明日まで降るよ」
「わかりました、ありがとうございます」
わたしは服とお金を掴んで鍵を受け取ると、案内してくれる女将さんについて行った。
長くなったので分割します。