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異世界猫と転生姫  作者: と〜や
リドリス領編

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閑話:魔王閣下の日常 3

 魔術騎士団というものは魔獣に容赦がない。

 おれが猫ではないと気付かれた時点で逃げておくべきだったのだ。

 リボンをつけているのみで誰の所有紋も隷属紋もなく、隷属の首輪も契約もない魔獣は野良魔獣だと判断されたようだ。押さえつけられて調べられた。

 そのうちガルフと呼ばれた男が魔力でおれの体を調べ始めた。甚振られた、というのが正しいだろう。――詳しい内容は省略しておく。が、ガルフだけは絶対殺す。いずれな。

 そんなこんなで、彼女が呼ばれて降りてくる頃には、おれの体はすっかり衰弱していた。体の再構築をすれば問題はないが、こいつらの目の前でやったら間違いなく討伐される。それだけは避けねばならない。

 ゆえに、体力消耗を避けるため、おとなしくとぐろを巻いて彼女を待つことにした。


 彼女の声で目を覚ます。眠る――というか、本来の体に戻っていた間に猫の体はずいぶん衰弱していた。とにかく衰弱しないように体の維持に努める。

 彼女とガルフたちの話を聞いていると、やはりおれを魔獣認定したようだ。問題は、魔獣が何の束縛も受けずに出歩いていることらしい。

 彼女はおれに束縛紋は刻まないだろう。それだけは、自信を持っている。飾り紐を首に巻くことで彼女の所有物だと印をつけるらしい。まあ、その程度なら我慢してやろう。

 問題は、彼女自身のことだ。

 あの男――隊長といったか――が、彼女の魔力量の測定を言い出した。そんなことしたら、彼女が稀有な魔力量の持ち主だと一発でバレる。

 勇者かどうかはともかくとして、優秀な魔術師候補の一人としては十分な価値がある。それをこの王国騎士団の奴らが放置するとは思えない。騎士団はともかく、魔術師たちが何も報告しないはずがない。

 そうなれば、間違いなく彼女は強制的に王都送りだ。王都の魔術師学校に放り込まれて修行三昧の日々を送ることになる。

 それは――俺の思うところではない。彼女が勇者としてでなくとも魔王討伐の任を受けるようなことがあれば、俺は彼女を殺さなければならない。

 そんなことになる前に、彼女を手に入れなけらば。


 ◇◇◇◇


 おれは魔獣認定されてしまった。この首に巻かれた飾り紐が忌々しい。

 いやまあ、彼女の魔力が染み込んでいて、それ自体は心地よい。

 だが。

 別の男の魔力で組み立てられた防御魔法がなんとも忌々しい。なにより、飼い主つまり彼女に危害を加えるようなことをした場合、おれの首に食い込むようにしてある。まったく、忌々しい。

 その上、彼女に王都の魔術騎士団に入れと言い出した。それだけは絶対ダメだ。

 それをすると、彼女と対決する未来しかなくなるではないか。

 彼女は俺のものだ。他の誰にも触れさせてやるものか。

 もしそんなことになったら、王都に頻繁に魔王として君臨して叩き潰してやろう。

 ガルフと言ったか。あの男程度の魔術師が一千人いようとも、魔王おれには関係ない。

 ユーティルムを見るがいい。

 あの国は勇者召喚する上で徹底的に準備をしていた。魔術師も多く抱えていたし、傭兵も準備していた。聖具もそうだ。魔具もかなりの数揃えてあった。

 それでも魔王おれには叶わないのだぞ。そのくらい、人間もそろそろ学習しろと言いたい。たとえ彼女がどこに行こうとも、俺は彼女を迎えに行く。

 風呂の中で彼女に悪戯をするのも添い寝するのも俺だけの権利だ。他の誰にもやるものか。

 早く堕ちてこい、俺のお前。


 ◇◇◇◇


 奴らは部屋にまでやってきた。奴らが帰ったのを見計らって室内に入ると、彼女はすでにベッドの中におり、封筒を手に弄んでいる。


「クロ、どうしよう」


 ベッドに飛び乗ったおれを抱き上げて、彼女は上体を起こしてやんわりと抱きしめてくる。

 すりすり、と顔や手にマーキングをしつつ、喉元に光る緑の石を観察する。

 じんわりと感じるのは石に込められている魔法だ。彼女の魔力に馴染みつつ、石そのものが彼女の力を保持している。

 刻まれた名は――シオン。

 彼女の魂に刻まれた名ではない。だが、彼女が選んだ名前だ。

 シロ、という名前は彼女の外見からつけられたようなものだったからな。シオン。花の名前だったか。薄紫の可憐な花。ふむ、悪くない。

 ぽふ、と上体を倒して彼女は枕を抱えて横を向く。


「どうしたらいいと思う? クロ。王都の学校に来ないかって言われちゃった。わたしの身分証まで作ってくれた。普通は入学時に渡されるものだよね。でも、特例として作ってくれたんだって。これがあれば、どこにだって行けるって」


 ああ、そうだな。この国から出ることも、他の国に行くことも、この身分証があればできる。今まではこの国から出ることも出来なかったろう。

 しかし、彼女を王都にやるなどと、危険すぎる。そうでなくとも彼女を攫った者がいる街だ。一人で行かせるわけにはいかない。


「でも……勇者だってバレたらどうしよう……。きっとどこの国でも魔王が探している勇者なんて危険人物扱いよね。そうでなくとも魔王が来てるっていうのに」


 誰に言うでもないひとりごとが続く。


「ちゃんと魔法、勉強した方がいいのかなあ。こんなチート頼りじゃなくて……」


 剣も使えない勇者なんて、勇者じゃないよね、とつぶやいたあと、目を閉じた彼女はそのまま寝入ってしまった。

 鼻と唇を舐め、そのまま胸元に潜り込んで丸まる。

 しばらく起きないだろう彼女をそのままに、俺は隠れ家の肉体に戻った。


 ◇◇◇◇


「学院にねえ」


 クラウスは渋い顔をしながらフライパンを振る。


「まあ、確かにねえ。力さえあれば身分に関わらず徴用される。入ってしまえばもともとの身分なんて関係なくなるしね。貴族でなければ魔術師になれないと言われてるところもあるらしいけど、平民だろうが身元不詳だろうが、推薦人がいて入学を許されたんなら将来は安泰だ。蹴る馬鹿はいないよ」

「ほう」

「ついでに学院は全寮制でもちろん学費はタダだ。服や嗜好品は自腹だけど、推薦人が立て替える場合もあるらしい」

「よく知っているな」


 そう言うとクラウスは当たリ前、と鼻を鳴らした。


「だって俺、そこ通ってたから」


 そういえばこいつは家名持ちだった。ということは曲がりなりにも貴族だったのか。


「それで今は吟遊詩人か?」

「ああ、卒業後の就職制限はないんだ。もちろんトップクラスは宮廷付きとかになるんだけど、俺はそんなに成績も良くなかったし、力も強くなかったからね。伝承や神話に興味が出て、吟遊詩人の道を選んだんだよ」

「なるほど」

「そーいうこと。おまたせ」


 今日はパスタか。イカやエビが入っている。いつの間に仕入れにでかけたのだろう。在庫にはなかったはずだ。

 スープとパンも準備して、向かいに奴が腰を下ろす。


「で、勇者の彼女は行こうかどうしようか迷ってるってわけか」

「魔法を学びたいらしい。入門書を読んで初歩の初歩を使えるようになっただけだからな」

「ああ、なるほど。……そういう奴もいたっけな。魔力量だけべらぼうで、かなり若い頃に学院に入ったやつ。初歩の魔法も覚えてなくて、初級クラスから始めてた。多分勇者の彼女もそうなるんじゃないか?」


 エビをつつきながらクラウスが言う。

 確かに、無詠唱で構築不要、俺と同じ力を持っていても、使える魔法はごく僅かだ。

 ただ、彼女が勇者だとわかった時の学院の反応が今のところ読めない。彼女が害されるようなことになったら、おそらく俺は国ごと潰すだろう。ユーティルムと同じに。


「使い魔や魔獣の連れ込みは可能なのか?」

「ああ、『クロ』で入るのか? 別に問題はないと思う。ただ、今までのように入れ替わったりは出来ないと思うぞ。学院の結界は強固だ、絶対バレるからな。そんなに心配なら、お前自身が潜り込んだらどうだ?」

「……あのなあ」


 フォークを置いて、俺は頭を抱えた。王都に、しかも魔術師のたむろする学校に、魔王おれがわざわざ潜り込むってありえないだろうが。


「潜り込むならおまえの方だろうが。吟遊詩人。出身者ってことで教師にでもなって潜り込んでこい」

「えーっ、それも俺にやらせんの? ひどくない?」


 クラウスはぶんむくれて喚き立てる。


「煩い。王都に家買ってやるからそれで我慢しろ。教師は通いでいいんだろう?」

「そりゃ、通いだけどさぁ」

「でもって、全寮制だからって生徒が出かけるのは別に問題ないんだろう?」

「ああ、そりゃ外出届けさえ出せばいけるけど」

「じゃあそれで決まりだ。王都の家は一戸建てがいいか? この空間ともつなげておくから食材には困らんだろう」

「……魔王さま、本気マジ? 俺そろそろ北回りで旅に出ようかと思ってたんだけど」


 俺はじろりと睨みつけてフォークを取り上げた。


「彼女の選択次第だが、王都に行くというならそれは諦めろ。俺も王都には行くから」


 そう言った途端、クラウスはげっと口元を歪めた。


「あんたが来るんなら、俺なんか要らないっしょ? あんたの恋なんだから、自力でなんとかしなよっ……ひぃっ、う、嘘ウソ、手伝いますっ、手伝わせてくださいっ!」


 奴の頭を鷲掴みにしていた左手を外す。伸びていた真っ黒な爪を引っ込めて、グラスを取り上げる。


「じゃあ、そういうことで」

「……へいへい」


 ぶつぶつ言いながら、クラウスは唇を尖らせる。

 彼女の選択次第だが、面白いことになりそうだ。


 ◇◇◇◇


 部屋に来る店の女どもは最近すっかり図に乗っている。彼女に風呂の世話や服の洗濯までさせている。

 彼女が女だと分かってからは、寝室はすっかり女たちの控室になってしまった。彼女が立ち入るのは必要なものを取りに行くときだけだ。女たちが彼女に配慮することもなくなった。なんと図々しい。

 それにしても、今日の彼女はおかしい。

 心ここにあらずな顔をしている。彼女が壊れるのは俺の望むところではない。

 カーテンレールから降り、彼女の上に乗る。いつもなら反応があるのに、今日は違う。

 ニャア、と近寄って鼻を舐めて初めて頭をなでてくれる。いつもなら乗ったところで手が伸びてくるのに。これは相当重症だ。

 おれを撫でる手もどこかおざなりだ。何を考えている? 何に心を囚われている?

 いつも明るく微笑んでくれる彼女が、このところずっと眉間にしわを寄せている。女どものせいだ。まるで使用人に当たるみたいに女どもは彼女をこき使い、彼女に辛く当たる。

 ここだって、彼女が借りている部屋なのに。彼女の給金から部屋代は引かれているのに。我が物顔で部屋を荒らし、何もかも彼女に押し付けて――。

 怒りが先走りそうになり、思わず背中の毛が逆だった。


「クロ? どうしたの?」


 唸り声も漏れていたらしい。びっくりした彼女が上半身を起こしておれを抱き上げてくれた。毛としっぽを落ち着かせて、おれは彼女の顔をざりざりと舐める。

 泣いてはないけど、きっと心の涙は流してる。そんな顔をさせてるなんて……俺は何をやってるんだろう。

 やはり、今すぐ正体を現して俺の隠れ家に連れて行ったほうが幸せなんじゃないか――そんな思いが溢れそうになる。

 ニャアニャアと鳴きながら全身を彼女にこすりつける。俺のもの。お前は俺のもの。


「やっぱり……聞いてみなきゃわからないよね」


 おれを抱きながらもやはり心はここにない。虚ろなお前の顔など見たくない。お願いだ、微笑んでくれ。

 ペロペロと舐め続ける。でも、その願いは叶わなかった。


 ◇◇◇◇


 夜。

 最近は常連が戻ってきてるので、看板猫が復活した。面倒だが、仕方がない。後でもらえる餌を楽しみに、今日も張り切って看板猫を勤めながら、彼女の様子を探る。

 今日はあの優男は来ていないようだ。いつも二人揃いで店に来ては彼女を指名する。

 あの女もそれをわかってて彼女を奴らの席に送り出してる。多分彼女の貸し出し料、別に請求してるな、このやろう。

 と、不意に彼女の座っていたあたりで魔法が発動した。防音の魔法だ。何を話しているのかはわからない。ここからじゃ唇も読めないが、あのローブ男がずいぶん考え込んだような顔をしている。

 あまり良い雰囲気じゃない。あの男は要注意だ。俺にいち早く気がついたように、彼女についても気がつく可能性がある。

 と、いきなり魔法を解除したかと思うとすごい勢いでローブ男は出ていった。

 どうも嫌な予感しかしないのに、彼女は俺をまた置いて部屋に戻って行った。喋れないのがもどかしいな。おれが魔獣だってことはバレたわけだし、何らかの特殊なスキル、ということで会話できるようにしてみようか。そうすれば、彼女とおしゃべりができる。

 ……迂闊なことしか言わないような気もするが、気のせいだ。

 彼女がこれ以上落ち込むのも見ていられない。明日、彼女に話しかけてみよう。

 ――そんな俺の思惑が全部吹っ飛ぶことになろうとは思っても見なかった。


 ◇◇◇◇


 最悪だ。

 彼女に抱っこされた状態でマントでぐるぐる巻きにされて、めちゃくちゃに飛ばす馬車に乗せられている。その上、彼女が担ぎ上げられた時に彼女の体で押しつぶされそうになって、思わず爪が出た。

 どこを引っ掻いたのかは分からないが、首のリボンがギュウギュウに締まって虫の息になった。仕込まれていた防御魔法が発動したのだ。

 猫が飼い主によじ登るのは愛情表現だ。爪研ぎはマーキング。甘噛みも愛情表現だ。それを全部「主への敵対行動」とかって、馬鹿じゃねえのか。

 おれが彼女に楯突くことなんかありゃしない。

 挙句の果てに彼女は馬車酔いでぶっ倒れるし、俺は籠に入って青息吐息。

 とにかく体が回復するまでは、隠れ家に戻っておこう。猫は誰にも触らせないように警戒レベルを引き上げておく。

 こうしておけば誰にも――彼女でさえ触らせない。


 ◇◇◇◇


 隠れ家に戻ると、クラウスはいなかった。

 どうやら前に指示したように、王立魔術学院の教師として潜り込むべく動いているらしい。

 まあ、あいつもそれなりに持つものがあるわけだし、こんなところで腐ってるよりはマシだろう。教師に向くかどうかはともかくとして。


「あれ、戻ってたの?」

「ああ。忙しそうだな。こんな時間まで仕事か?」


 クラウスは抱えていた紙袋を机の上に置いて両手を広げた。


「あんたが指示したんだろうが。やめてよけりゃすぐやめるよ。……そもそも俺は宮仕えなんか向いてないんだ」

「彼女が学院に行かないことが確定するまではやめるな。それに吟遊詩人だって宮仕えはするだろうが。一度も経験がないとは言わせんぞ」

「そりゃないわけはないけど、教師はやったことねえよ」


 紙袋から諸々取り出して片付けていく。どれも食料のようだ。


「吟遊詩人だって弟子ぐらい取るだろうが。それと同じだと思えばいい」

「弟子は一人しか普通取らねえよ。まあ……吟遊詩人になりたい魔術師なんざそうそういないだろうけどさ。で、あんたがこっちに来てるってことは姫さんはおねんね中か?」

「ああ。猫ボディもダメージ食らっておねんね中だ」

「へえ、珍しいな。お前がダメージ食らうとは」


 クラウスの揶揄する声に、俺は顔を顰めた。


「俺じゃねえ。猫に魔術師のかけた呪いのせいだ」

「ああ、なるほど。魔獣を従えるのにはよく使う方法だからなぁ。仕方がないだろ」

「知るか。……それより、聖具についての新しい情報はないか?」

「あー、聖具ね。ごめん、学院潜入作戦で手間取ってて。勇者召喚に関わった魔術師についても同様だ。まあ、ユーティルムの周辺国から順に調べてるけどさ、ユーティルム滅亡で混乱が続いてるらしくてさ。ほら、ユーティルムって魔石の原材料となる魔鉱石の産出国だったろう?」

「ああ、そういえばそうだな」


 普段使うこともないから意識したことはなかったが、魔具や聖具にも高品質な魔石が使われている。魔族や魔獣の核になっていることもあって、魔物退治の際に落ちる魔石を人間が利用しているのは知ってたるが、ユーティルムの鉱山が見つかってからはその頻度も落ちた。

 必要十分な量を産出できるなら、わざわざ魔族を倒して魔石を手に入れる必要がないからだ。今では武勇を誇ったり冒険者がレベルアップを目指す時以外で魔物退治が行われることはない。――なかった。


「ユーティルムが滅亡して、魔石が流通しなくなってから、先行きを危惧したのか魔物退治の依頼が増えてるんだよ」

「……ああ、そうらしいな」

「あんたの耳にも入ってるのか」

「ああ。知り合いの魔族から聞いた」


 クラウスはため息をつく。


「どうやら魔石回収が主な目的らしい。いずれ今市場にある魔鉱石が尽きれば魔石の価値は跳ね上がるだろう? そうなれば魔物からドロップする魔石は確実に高騰する。それを待って高値で売りさばくつもりだ。……どうするつもりだ? 魔王サマよ」


 いずれあの鉱山をなんとか手中に納めて魔石市場を牛耳るのも面白い。無論、同じように考えている者たちがすでにユーティルムに入り込んでいるのは知っている。

 王国でなくなり、宗主がいない国は『誰のものでもない』土地扱いになるのだろう。目ざとい商人あたりが潜り込まないように鉱山周辺は目くらましと魔獣の護衛を置いてはいるが。


「どうせお前のことだ、そこらへんも考えてるんだろ?」

「さあね。――そろそろ戻る」

「お姫様によろしくな」


 定位置に寝そべると意識を猫に飛ばす。クラウスの忍び笑いが聞こえた気がした。


 ◇◇◇◇


 涙の匂いがする。

 ベッドの上に置いてある籠から身を起こすと、彼女はベッドの上にいなかった。なんとか体を動かして籠から出る。

 やはり彼女は泣いていた。床にぺったり座り込んで俯いて、溢れる涙が指先を濡らしている。強い悲しみの匂い。ぺろりと指先を舐めると、ようやく彼女は顔を上げた。


「クロ……ごめんね」


 何度も何度も繰り返す。

 何を謝っているのかわからない。だが、彼女の悲しみは深く、簡単には癒せそうにないのだけは分かった。

 彼女がそっとおれの体を持ち上げて抱き込んでくれた。

 伸び上がれるだけ伸び上がって舐められるところをすべて舐める。

 お前に涙は似合わないよ。


 ◇◇◇◇


 目が覚めたのは彼女とほぼ同時だった。夕べよりは回復したと思うが、全快とまではいかない。

 しばらくしてあの魔術師が入ってきた。ローブを持ってきたようだ。そういえば誰かと謁見するようなことを言っていたな。

 彼女は着替え終わるとローブの胸におれを抱いて魔術師の後を歩く。

 謁見ということはおそらくこの館の主だろう。そんな場に魔獣を持ち込むこと自体、ありえないのだが、魔獣として認められるほどの存在でないせいか、ほとんどの場合無視される。

 まあ、刈り取ったとしても、魔石は望めない程度の薄い力だ。普通は余程のことがなければ見てみぬふりをするものなのだろう。

 辿った先はやはり領主の部屋だった。

 妙に巨大な魔力を感じる。この地を治めるのはリドリス家だったか。それほどの力の持ち主だとは把握していなかったが、このところ急に力を付けてきたのだろうか。

 部屋に入るとその感覚はさらに強くなった。

 魔力というよりは、部屋全体に漂う力というのが正しいのだろう。目の前に立つ領主個人から感じるものではない。この屋敷そのものがそうなのか。

 会話の内容からすると、彼女の王立魔術学園への入学の件や、王都に行く話のようだ。彼らはやはり諦めていない。彼女自身は身を隠すことを選んだようだったが、目の前の三人の男はそんな気は一ミリもないのだと改めて認識する。

 彼女の魔力量は魔王おれと同等なのだ、当然放置できるはずもない。当然の結果のようにも思えるが、彼女にとっては好ましくない結果だったようだ。

 篭手に興味を持った領主の手に篭手が渡る。この篭手は彼女に出会った時から身に着けていたものだ。

 誰かにもらったか、拾ったかだろうと思っていたが、やはり魔術師からもらったものだった。召喚の際に立ち会った、生き残っている魔術師が渡したものなのだろう。

 彼女は領主の問に苦しそうに答えている。嘘がたっぷり含まれた回答は、おそらく領主には見え見えだったのだろう。

 最初からわかっていたのなら、こんな回りくどい手法で彼女を追い詰めなければよかったのに。

 ゆっくり倒れ伏す彼女の体にいち早く登ると、おれは手を伸ばそうとした領主に牙を剥いた。


「おや、これは困ったね。邪魔はしないでくれないか、小さい子猫ちゃん。こんな場所に彼女を寝かせておくわけにはいかないだろう?」


 領主はおれを無理やり移動させるのでなく、説得しようと試みる。

 確かに、ふかふかの絨毯だからといって、倒れ伏したまま放置するわけにはいかない。

 彼女の体の上からは退いたが、領主が抱き上げようとするのは牙を剥いて拒否した。


「仕方ないな、この小さなナイトは。……済まないが彼女を元の部屋に運んでもらえないか。……決して逃げ出さないように」

「……承知いたしました」


 リーフラムは眉根を寄せたまま、礼をする。ガルフはクロの威嚇を意に介さず彼女の体を抱き上げた。おれは彼女の体によじ昇り、ガルフにも威嚇をしておく。


「では、失礼致します」

「ああ」


 部屋を出た途端、重苦しい威圧が消える。魔王おれにまで及ぶ程の威圧。あれはあの男一人のものじゃない。部屋に隠された秘密がある。いや……リドリス家とユーティルム、エランドルの関係を調べてみたほうがいいのかもしれない。

 あの男の言葉から、彼女が召喚されたあの神殿を知っているのは間違いないだろう。だが、長らく召喚などされていないのに、なぜ知っているのだ。あまりに詳しすぎる。

 過去、どこかで召喚に関係したことがあるに違いない。

 今まで長らく勇者の召喚などされてこなかったのに、なぜ今になって召喚をしたのか。

 なぜ彼女なのか。

 こちらの宮廷風の礼儀など、知るはずのない彼女が、領主を前にどうしてああも堂々と振る舞っていられたのか。ただの平民の子供なら怯えて縮み上がるのがオチだ。

 部屋に着くとガルフは彼女をベッドに横たえた。その横に降り立ってとぐろを巻く。

 ガルフは彼女の頭に触れようとしたが、思いとどまって手を拳に握りしめた。


「お前が勇者だなどと……あるはずがない」


 気がついているに違いない。領主が証拠を示してあそこまで言い切ったのだ、間違いであろうはずがない。

 だが、それを受け入れられないのだろう。

 ガルフはベッドサイドに膝をつくと彼女の手を掬い上げ、唇を寄せ、目を閉じた。その手が震えている。

 彼女のために、魔王と戦う勇者などという身分でないことを祈っているのだ。

 だが、彼女は勇者、おれは魔王だ。

 それは、覆せない事実だ。

 ガルフの乞うような目を見送って、おれは再び目を閉じた。

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