坪内逍遙を抽出
坪内逍遙が小説神髄での、
「文学において成すべきことは、心理描写を克明にし、社会描写を用いることで登場人物をさらに浮き彫りにすること」
というものは、現代でも通用する。
しかし、坪内逍遙は徹底したリアリズム、写実主義を重く置いてしまったがために、近代日本文学を結晶させる人物にはならなかった。
結晶化させた人物は、夏目漱石と森鴎外になる。
現代では、口語体が完成しているので、坪内逍遙が唱えた、
「芸術作品として、心理描写と社会描写で人物浮き彫りにすること」
あたりを重要視するだけで大丈夫だろう。
近代日本文学の初期は、口語体が完成していなかった。
これにより、明治混迷期の作品群は読みにくい。このことを知らず、近代日本文学を登場順に読むと苦労する。
現代で、写実主義や自然主義を参考にするなら、『描写の高さ』であろう。
しかし、文の量に比してユーモアがない。
ユーモアや感受性を、別途に用意する必要がある。
永井荷風は、それに気づいた人物だから、『すみだ川』あたりを読むと手っ取り早い。
戻って、坪内逍遙。
・人物像を多角、多彩によって描く
・社会描写も、それに入る
・口語体のみならず文語体も描写に役立つ
上記に、まとめられる。
この要素は、夏目漱石、森鴎外、幸田露伴などは満たしている。
現代でも、それらの要素を満たす作品があるから、通用はする。
文化の永続性を考えた時、
その当時のリアリズムは排除した方が良いということ
かもしれない。
リアリズム、現実主義は、時事ネタや流行ネタみたいなもので、腐るのも早い。
リアリズムを採用するなら、一旦、抽象化させる工程を経た方が良い。
芥川は、それをしている。
あれ?
谷崎潤一郎を読めば済むような気がしてきた。
三島由紀夫もこの程度は余裕でクリアしている。
娯楽の細分化が再統合する時期を迎えると、谷崎や三島のような人物が必要になってくる。
それまでに、各分野の保全や要素の抽出を出来うる範囲でやっておく。
古典教養は既に先人たちがやっていたから、
・その当時のリアリズム
を、どう扱うかが、課題になると思う。
雑多なものを排除して、普遍的な部分を抽出するとする。
果たして、それをリアリズムと言えるのかどうか。
安部公房を読みやすくさせる。
そういう感じになる。
・人物描写はそのままに、背景を抽象化させる
これが、今のところの回答例か。
口語体が、進歩する可能性はどうだろうか。
情報のみならず、感情も圧縮できるようになるとか。
イメージ的には、電脳化が近い。それを言葉のみでやる。
想像の域を出ないか。
ただ、テレビゲームの進歩を間近で見ているから、他人事には見えないのであります。
ファミコンの時は容量が小さくて、情報の取捨選択がかなり絞られた。それから時が経つと、容量が大きすぎて、それを手っ取り早く満たす者たちが増えた。
これを持って、ゲーム業界が廃ったとか言われている。
しかし、廃ったのではなくて、科学技術と歩調が合わなくなった程度の理解で良いかもしれない。
人間か科学技術の歩幅を上手くコントロール出来れば、消えることはないだろう。
むしろ、功利主義の面から、自分たちで捨てることはある。
儲からないから、捨てる。
あらゆる分野で、度々起きていることではある。
急がんといかんなぁ。