E-研究所
迫り来る追手から逃げるようにして、僕達はどことも知れない廊下を歩いていた。辿り着いた先は――厳重にロックされた鉄のゲートであった。立ち尽くす僕達。更にそこに現れたのは第一機動司官の獅子戸剛蓮。死闘の果てに、僕は己が持っていた謎の白いカードで、ゲートを開くことに成功し、最後の跳躍を遂げる。
深い眠りに落ちた成瀬の様子を見て、鈴寧は大きな溜息を吐いた。
もう一度、廊下とを隔てる鉄の門を確認する。
ぴったりと閉じられたゲートは、廊下までの道を遮断していた。
流石の機動司官もあの関門は潜れないのか、先程までの死闘とは打って変わり、不気味なまでの静けさがこの部屋を包んでいた。
少女はぐるりと部屋を見回した。
無数の本棚が並び、広い机と椅子が置かれていて、奥のコンピュータ端末のモニターは黒い画面に落ちている。
一見するにごく普通の図書室であった。
だが、この部屋には窓の類は一切無く、万人を拒絶する堅牢な扉まである。
ここにはナニかがある――。
あらゆる因果が集う『情報局』
その中にある秘密の部屋に、鈴寧と成瀬はいる。
本棚のファイルやコンピュータには一切触れない。触らぬ神に祟りなし。いらぬことを知るべきではないと悟っているのだ。
そう、ここは居座っていい場所ではない。一刻も早く別の安全なところを探すべきだ。
だが鈴寧は……ひとまずはそんな不安を置いといて。
傍らで、健やかな寝息を立てる成瀬の頬を撫でた。
思い返せば長い一日であった。
親友が「星付き」に拐われ、氏家が来て、手を貸せなんて生意気言って。
そこにいたのが、この成瀬で、彼は鈴寧と約束をした。
――約束、か。
――春佳を連れ戻すなんて、無茶な約束。
でもこの男はやり遂げた。
少女は呟く。
「……【バイオス】、【キネシス】、【ポーツ】」
彼女が見ただけも、三つ。
三つ持ちなんて、それだけでも悪い冗談なのに、更にこの男は残る二つをも所有しているという。
全持ち。
あの時屋上で聞いた話を鵜呑みにするならば、ここで眠っている少年はそんな絶大な力を秘めているらしい。
それこそがかの「星付き」が“月の毒”を破った理由。
――春佳は無事だろうか。
赤き少女はそんなことを思う。
長い間、月光会の面々を引き付けているところで、風紀委員に追い立てられた。
まさかと思い、ボロ小屋まで忍び寄ると――そこには風紀委員長の姿があったのだ。
咄嗟の判断でこんなところまで逃げ込んでしまったが、果たしてそれは正解だったのか間違いであったのか。
あの二人は、今頃風紀委員の城まで連行されたであろう。
きっと命を取られるまではないだろうし……少なくとも春佳に危害が及ぶことはないだろう。
何故風紀委員があのタイミングで、あんなにも怒りながら彼らを追ったのか。
この秘匿された部屋は。
そして……。
鈴寧は少年のパスケースを手に取り、眺めた。
――この男の子は何者なのか。
六法全てを操る異端にして。
A級のカードですら跳ね除けたあのセキュリティを超える、謎の権限までもを所有している。
わからないことだらけだ。
今をとりまく現状も、状況も、原因も。わからない。
だけど、嫌にはっきりとした感覚が、喚くように彼女に訴えかける。
――私は、彼の隣にいていいのだろうか?
きっと危険。きっとよくないことが起こる。
赤月の家に生きる者として、その本能に間違いはない。
捨て置いて、この場から立ち去るのが一番賢いのではないだろうか。
彼女は理解していた。
一番合理的で、正しい道を見つけていた。
しかし。
鈴寧は、己の白い手に視線を落とした。
――いずれちゃんと説明するから。
この少年は、そう約束していた。
ならば必然、傍で告解を聞き届ける者がいなければいけない。
それは、美しく、それでいてとても愚かな選択であった。
鈴寧はわかっていた。そんなことは百も承知だった。
春佳を救った時点で、「約束」はおしまい。ならばこれ以上かかずらわる必要はどこにもないのだ。
「……ホント、女子を困らせる奴だ」
眉を潜めながら、鈴寧は成瀬の鼻をぎゅっとつねる。
「記憶がないとか……そんなこと言われたらね。……気になるでしょうが」
たったそれだけの理由で、鈴寧は彼の傍に座ることを決めた。
彼女は小さな物音を聞き逃さなかった。
素早く音の先に向き合い、身構える。
一瞬にして臨戦態勢となった。
その姿はさながら、横たわる王を守護する精強な騎士であるかのようだった。
湿ったような黒い瞳は、彼女が殺気を高めるにつれ、じわりと朱に染まっていく。
「――誰」
鈴寧は厳しい声で誰何した。
ふわりと浮き上がる長い髪。その奥に輝くのは、二つの真紅の灯火。
魔のに棲む女の空気は引き締まる。
限界まで高まった緊張に負けたのか。
ずらりと立ち並ぶ本棚の向こうから――ある女生徒が出てきた。
茶髪で、背は低め。とても困ったような表情を浮かべながら、両手を高く上げ情けない声をだした。
「ええとぉ……あの、ほんと、怪しい奴では無いんですよぉー……」
鈴寧は盛大な肩透かしを喰らった気分だった。
機動司官、ないしは司書辺りが抑えに来たのかと身構えていたのだが。
出てきたのは、どう見ても実に平凡そうな女生徒だった。
泣きだしそうな目で、燃える瞳の鈴寧に怯えている。
「ひぃ……ごめんなさい……信じてくださいよぉー……」
図書委員の腕章は無い。
いや、そんなものは外せばいいだろうが――何よりも彼女には圧倒的に敵意が無い。
びくびくと怯えながら、潤んだ瞳で鈴寧に許しを乞うている。
「……貴女は、誰?」
もう一度、鈴寧は名を尋ねた。
少女は、慌てながら返事をした。
「はっ、はい! ええとですね、私、本田と申しましてでございまして……その、ええと、怪しい者では……」
「ここでなにをしているの」
先も確認したように、ここは厳重に密閉された秘密の部屋だ。
鈴寧達がここへ入り込めたのも何かの奇跡であり――故にこの少女を頭から信用する訳にはいかなかった。
疑惑の眼光を飛ばすと、ばんざいしている少女はぶんぶんと頭を振った。
「いやいやいや! 全然怪しいのではなくてですね! そのぉ、ちょっと調べ物してたら、閉館時間過ぎちゃって……」
「嘘をつかないで。ここは中央図書館、しかも厳重に閉ざされた部屋よ。――本当はなにをしていたの」
本田と名乗った少女は、目を回し、うぅんと唸り、暫く悩む素振りを見せた。
鈴寧は静かに、手をかざした。
「うわーっ! ごめなさいごめんなさい! 正直に言いますから! 乱暴はNG! ……あーもう、怒られちゃうのかなぁ、これ」
ぶつぶつと文句を言いながら、本田はスカートのポケットからカードを取り出した。
クリアケースに収められたそれは――B級市民のIDカード。
同時に、鈴寧の生体内蔵交信端末――フィジカルテレホンが、その中に蓄積された情報を走査する。
名は本田花子。歳は一八。そして所属する団体が――
その意味を飲み込んだ鈴寧は、訝しげに復唱する。
「……開発研究室?」
本田は頷いた。
「はい……。私は「研究所」のエージェントです。調べなきゃいけないことがあって、ここに潜入していました」
予想外の回答に、鈴寧は動揺していた。
巨大な学園の頂きに座るのが生徒会であり、その下に、八つの委員会がある。
風紀委員会
保険委員会
図書委員会
部長連合
寮長会議
裁判所
刑務委員会
そして――開発研究室。
この壁の中において、委員会の力は絶大である。
警察機関としての風紀委員会や、『情報局』と渾名される図書委員会の権力は、平民である一般生徒のそれを遥かに凌駕している。
その委員会の、それも学園の発展と進化の中核に位置する開発研究所が、本田と名乗る少女の背後にいると言うのだ。
――何故、「研究所」が「情報局」に潜り込んでいるのか?
急に、嫌な匂いが立ち込めてきた。
「……「研究所」も大胆ね。サイコアラートに引っかかれば、一発でお終いじゃない。数十年前の、委員会同士の戦争でも再現したいのかしら」
「サイコ……アラート……ああ! あの警報のことですか! そりゃ大丈夫です! バッチシ対策済みなので!」
満点の笑顔でそう答える本田。
それを見て、確信した。
ダメだ。
関わってはいけない。
サイコアラート……それは、学園全土に張り巡らされた感応警報装置のことだ。
その装置からは、特殊な波紋が絶え間なく溢れ出す。
その波は、生命体の精神パターンを瞬時に分析し、関連付けられたリストとチェックする。
リスト、すなわち登録された生徒職員以外の精神パターンが抽出されれば、それは侵入者ということになり、即座に風紀委員が襲い掛かるという、最新鋭の警備システムなのだ。
各地に存在する超能学園は、科学の進歩に大きく寄与した。
その結果、今や顔や指紋、果ては骨格程度ならば、手術で簡単に変えられるようになった。
侵入者は排除せねばならぬが、毎年生徒は迎い入れなければならない。国家レベルの機密プロジェクトが幾つも関わる学園内において、スパイ対策というのは必須の問題であった。
それを解決する画期的なシステムが、サイコアラートであった。
どれほど外見を変えられても、中身までは変えられないのだから。
その最新鋭の警報装置は、学園だけでなく、各生徒会組織も利用している。
特に情報が集う「情報局」などその代表的な例であり、入念にサイコアラートの設定は凝らされている。
本田は、そんな「情報局」の警戒網を、笑顔で「対策済み」と答えたのだ。
真っ当な手段でなく、非合法な潜入を前提としていると、彼女は言い切ったのだ。
危険だ。
とてつもなく、焦げ臭い。
――どうしてこうも、面倒が寄ってくるのだろうか。
あまりにも予想外の組織が出てきたことにより、鈴寧は一瞬思考を止めてしまった。
「……それで、ですねぇ」
そんな隙を見逃さず、本田はきょとんと首を傾げて。
「あなたは、なにをしているのですか?」
そう尋ねた
一転。
それまでいいように少女を問い詰めていた鈴寧は、そのままひっくり返るように窮地に追い込まれる。
ここでなにをしていたのか。閉館後の「情報局」で。お前は怪しい。それらの言葉は、そっくりそのまま自分を縛る枷となったのだ。
弱々しい態度は、罠。
絡みつく蛇のような、いやらしい対話術……それこそが「研究所」のやり方であった。
「……私……は……」
鈴寧は答えに詰まった。
どこから話すべきなのか。どこまで隠すべきなのか。
可愛らしく首を傾ける本田が――何故か巨大な化物に見えてしまう。
「隣に寝ている男性は」
もごもごとしている鈴寧を差し置き、本田は囁くように語り始めた。
「んー。制服の破れ具合からして、矢の傷、ですかね? 矢のオーパーツと言えば、風紀委員長加藤美沙姫。風紀委員に追われてここに逃げ込んできた……ってところですかね。どうですか、結構いい線いってると思うんですけど!」
少女は無邪気に全てを看破した。
鈴寧はシャツの下に、嫌な汗を滲ませた。
――やるしかないのか。
目に一層血を注ぎ込み、決死の覚悟を潜ませる。
本田は、その様子を見て、慌てて手を振った。
「いえいえいえ! 早合点はNGですよ! 確認したかったのはですね、貴女達は私の敵ではないということです。……そうですね」
そして本田は、自身の胸ポケットに手を入れた。
鈴寧は身構えた。
「研究所」の女は、そこから何を取り出すのか――
少女が勢い良く掲げたのは、果たして。
透明なビニール袋に入っている、パンであった。
「……パン?」
「はい! パンです! お腹空いてませんか? これは……そうですね、契約金みたいなもんです! ここからは、協力体制を組みませんか?」
晴れるような笑顔で、そう言う本田。
鈴寧は、激変する状況に追いつけなくて、ただただ困惑した。
そんな少女二人を知ってか知らずか。
その時、突如、沈黙を守っていた鉄扉が。
地響きを立てながら、ゆっくりと開いていった。