B-名前
日下部真一郎はチーム悪夢衝動のメンバーである。前総長の全夜が脱退してからというもの、苛立つ日々が増えていった。愛車と共に街を駆っても気が晴れることはない。真一郎が羽を休められるのは、チームの巣の中だけだった。
腹に鋭い痛みが走って僕は目を覚ました。
身体をくの字に折って唾液を吐き出す。
「……んだテメエは……ああ?」
誰かが、ごほごほとえずく僕の髪の毛を掴み、引っ張り上げた。
廃ビルの窓から射し込む光は、そいつを照らしていた。
そいつは黒い長髪を無造作に束ねていた。だぼだぼのズボンに、傷や汚れの目立つ服――長ランといのだろうか。大きな上着を纏っていた。
ぎらぎらと光る目はあからさまな敵意を孕んでいた。
「ここが何処だか知ってんのか? 迷い込むにしても馬鹿が過ぎたなぁオラ」
そいつは僕が敷いていたブルーシートやダンボールを見やる。
「なんだ? 宿無しか? ……まあ何にしたって殺すもんは殺すけどな」
「い、いや、その」
この人は誰だ? どうして僕は寝ているところを思いっきり蹴られたんだ? なんでこんなに怒っているんだ?
わけのわからない状況に僕はおろおろと辺りを見渡す。
埃っぽい床、大雑把に放置されている廃材、汚い窓……。
曇った窓に映るのは、そんな風景と、困惑する少年。
少しはねた黒髪で、凛と整った顔つきをしていて、赤色の制服なようなものに身を包んでいる少年。
初めて見たが、それは僕なのだと直感した。
そして、解きほぐすように昨夜の異変を思い出す。
昨日――あれから雨の中走り回っていた僕が、この廃ビルを見つけられたのは幸運だった。雨露を凌ぎ、部屋に積まれていたビニールシートやダンボールを引き寄せ、その日の出来事について考える暇もなく……眠りについた。
なんとか、出来事の整理はできた。
が、それらをどうやってこの人に伝えればいいのか分からないし、そもそもこんなにも激怒している理由が分からないから的確に謝ることもできない。
そんな理由で酷く混乱してしまって、だから僕は。
「あ……えと、その、お」
「ああ!? お!?」
「お……おはようございます」
普通に挨拶してしまった。
眼前で息巻いていたそいつは、呆気に取られたようにきょとんとして、しばらくして言葉の意味を飲み込むとみるみる顔を真っ赤に染めて噴火せんと口を開きかけた。
が、ふと僕の胸元に目が移ると、驚いたように目を見開き、怪訝な視線を送った。
「この制服……テメエ『御舟』の……?」
それまでの怒りが突如消え失せたように、そいつは髪を掴んでいた手を離した。
自由になった僕は慌てて後ずさり距離を取った。
その様子を、そいつは冷えた目でじっと見ていた。
「『御舟』のってことは……もしかして」
強い声色が、少し震えた。
「もしかして、全夜さんが、何か……?」
そいつはあくまでも平静を装っていたが、明らかに動揺していた。
“ゼンヤ”なる人物に全く心当たりは無かったが――僕は脳みそをフル回転させる。ここで返すべき答えは。
僕は黙って頷いた。するとそれにこの人は食いつく。
「そうなのか!? なんだ、どうしたんだよ! 全夜さんはなんて」
「い、いやそんな大したことは無いんだけど」
首を締める勢いで寄ってくる。
僕はなるべく矛盾が少なくて、最大限ボロが出にくい言葉を吐いた。
「ゼ、ゼンヤさんが――ここの様子を見てきてくれって。ほんと、それだけなんですけど」
「……そうか」
落胆したように表情を落とし、そいつは僕から離れてくれた。
……とりあえず、なんとか急場を凌ぐことはできたよう、だけど。
さっきからドキドキしている心臓を、沈める。
「日下部真一郎」
そいつは、白いカードのようなものを僕に突きつけながら名乗った。
「え?」
「俺の名前だ。全夜さんから聞いてんだろ」
「し、真一郎? え、いや、でも」
「で、テメエは」
そいつ――真一郎は、さも当然だと言わんばかりに僕の名前を問いただしてきた。
名前……名前……?
全身の血の気が引いていく。
そんなもの、僕が聞きたいくらいだ。
真一郎は訝しげな目で僕を見てくる。
なんでもいいから適当なことを言ってしまえ。だがどれだけ考えても自分の名前は浮かび上がらず。
オロオロと視線を漂わせ意味もなく手足がばたばたしてしまう。
やばい。やばいやばいやばい。
一難去ってまた一難。名前。名前名前名前名前。
ただのラベルに過ぎず意味なんて表面的にしか存在しない。だけど自分自身の代名詞とも言うべき存在でもあり適当に生み出せるものでもなく。そうした乖離は僕を右往左往させる。
真一郎が剣呑な声で僕を呼ぶ。
「おい」
「は、はい!」
「もしかしてテメエ」
真一郎は、深い溜息を吐いた。
僕は観念したように、唾を飲み込む。
「IDカード無くしやがったのか?」
「え」
「そりゃあ『御舟』から抜け出すだなんて相当な無茶だったんだろうけどよ。いくらなんでもあれ無くしたら終わりだろ」
呆れ、というより憐憫さえ感じるような真一郎の態度。
僕は慌ててズボンのポケットやベストの胸ポケットを探った。
IDカード……。
この街ではそうした身分証明書を携帯しているのが普通、なのだとしたら。
もしかしたら。
そして、お尻のポケットに手を入れた時、それは見つかった。
ゆっくりと出すと、手には黒革のパスケースが。
開くと、そこには二枚のカードが挟まっていた。
一枚は謎の紋章のようなものが描かれた純白のカード。
そしてもう一枚は。
抜き出すと、そのカードは半分に割れていた。おそらく顔写真や住所が記載されていたと思われる、左側の部分が欠けて無くなっていた。
だけど、もう半分には。
僕は、その真紅のカードを真一郎に向かって掲げた。
そして、少し震える声で、言う。
僕の、名前は。
「なるせ……成瀬祐城、です」
その名は、パズルの最後の一ピースのように。
かっちりと僕の魂に嵌めこまれた。