O-あるいはこんな終わりかた
菱木要次郎は万死の毒を有していた。触れるだけで細胞が壊死する猛毒。その力に僕らは為す術が無かった。だが、あいつは、時計を弄んだ。僕は決死の覚悟で奴に突っ込み、取り戻す。そして得たものは、あの子の宝物と――星の力だった。
「【毒怪鳥の嘴】の薬剤が全身に行き渡った僕の身体を食らうということはその効能ごと食らうのと一緒でつまり貴様が【月さえ蝕む魔障の毒】を奪ったのも言わば必然」
麗しき顔を手で覆い、ぶつぶつと何かを呟く菱木要次郎。
「ウジ貴様も【バイオス】であり且つ虫などという能力を保持していることから鑑みるに毒との親和性も高く故に「定着」も自然であり多様な因子が性質を変化させうることも予測できる屈辱屈辱屈辱屈辱屈辱屈辱屈辱屈辱屈辱屈辱屈辱だったら尚更!」
勢い良く手を払い、燃え盛るような目で僕を睨んだ。
男の、獣のように獰猛な部分が露わになっていた。
「貴様を生かしておくわけにはいかないよねェ! 気分はどうだい? かの「星付き」をここまで苛立たせることができて嬉しいだろうさ」
だが、と続け。
「その人生もあと少しで終わるけどね……!」
闇の霧を両手に浸し。
菱木は僕に飛びかかった。
彼の、あまりの怒りで歪んだ目が、すぐ前に近付いて。
手が僕の首を引き裂こうと振られていて。
【毒怪鳥の嘴】の牙が大きく開いて、僕を噛み千切ろうとしていて。
そんな恐ろしい光景が見えた直後、視界は真っ黒な毒で満たされた。
「死ね【バイザー】!」
背後に控えさせていた虫を男に向かって飛ばす。
虫は、濃密な毒に触れても溶けること無く、菱木に襲いかかった。
“月”の毒を抱え、それぞれが必殺の威力を秘めた毒虫達。
だが漆黒の煙幕から。
嬉しそうに顔を寄せる、菱木の顔面が現れた。
反射的に彼の肩を掴みこれ以上距離を縮められないようにする。
だが菱木の力は強く、じりじりと僕の背中を折るような形で圧をかけてくる。
「アハハハハハハハハハ! 毒への耐性はお互い様なんだね! だが【バイオス】の身体強化までは真似できなかったかぁ。毒なんか無くてもね、お前如き蛆虫はいつでもねじり殺せるんだよ……」
鉄の牙を広げ、迫り来る化物。
全身に纏わりつく虫なんてまるで意に介さず、ぺらぺらと楽しそうに語っていた。
その鼻っ柱に向け。
閉じていた口を、んべっと開けて。
喉の奥から大きな蜈蚣を出した。
黒光りする体表は空を滑り、強靭な顎を菱木の鼻に突き立てた。
びっくり箱を開いた子供みたいに目を丸くして。
遅れてやってくる激痛で眉が寄り、仰け反りながら大きく叫んだ。
そして、がら空きになった腹に。
一発、蹴りを入れる。
菱木が倒れていくのを追いかけるようにして蜈蚣が吐出された。
口元を拭いながら、地に伏す「星付き」を見下ろす。
「…………き、貴様……」
床に爪を立て、どうしようもない感情に打ち震える金髪の男。
「我が力を奪うでは飽きたらず……足蹴にして、地に倒し……! どこまで、どこまで愚弄すれば……!」
「倒すと、言ったから倒したんだ」
罵倒を続けようとしていた菱木の、表情が唖然としたものになった。
僕は、それを見下ろしながら、努めて不遜な声色で。
「それでお前は僕をどうすると言ったんだっけ。喚いてお終いか?」
肌がぶくぶくと、無数に泡立ち、やがてそれらは毒虫へと形を変えていった。
冷たい複眼と、鋭い牙は倒れる菱木に向けられていた。
こんな生意気を返されるなんて、こいつにとっては予想外だっただろう。
鼻に食らいつく蜈蚣を手で引き千切り、奴は立ち上がった。
あんなに弱かった者が、今や自分と同じ位置で会話をしている。
それはどんなに腹立たしいだろうな、菱木。
彼の口から出たのは、真っ直ぐな感情だった。
「殺す……」
華美な装飾を剥がした言葉は、ただ一つのシンプルな要求。
鼻の先から濁った色の血がぽつぽつと垂れている。
「毒が効かなくてもね……方法は幾らでもある。【キネシス】【ウェイズ】それにこの身体強化……虫けらしか出せないテメエは、もう何もできやしない……」
菱木の毒も、僕の毒も、互いに耐性を得たならば、その他の能力で勝敗は決する。
手を構え、僕の肉体を爆散させんと殺気を込める“月”
桃瀬の時のように、大量の虫を出すのが遅れる僕。
「死ね」
彼は一切の躊躇も慈悲も無く力を放った――。
はずだったが、その前に。
毒に侵され、死んでいたはずの。
成瀬祐城が身を起こし。
成瀬の手は菱木に向いていて。
【ウェイズ】が放たれるよりも先に、黒髪の少年の【キネシス】が襲いかかった。
咄嗟に僕に向けていた掌を【キネシス】に向けて壁を作り出す。
だが怒涛の津波は急増の壁では防ぎきれず、亀裂が走り、菱木の頬に傷を付けた。
「……な」
なぜ、生きている。
その疑問は、成瀬の全身にたかる蚊を見て、解かれたようだった。
信じられないといった表情で、菱木は僕を見やる。
「……これは」
「僕はお前を殺したり、死なせたり、そういうのはできないかもしれない」
虫は従順だった。
僕のわがままを聞いてくれる。
こいつの――【月さえ蝕む魔障の毒】を。
――多様な因子が性質を変化させうることも予測できる
「お前の毒だけを殺すことは、できる」
「抗ウイルス剤……いや、これはそんな生易しいものではなく……毒全てを殺す毒……!」
羽虫を侍らせ、一步、男に近付く。
「【月さえ蝕む魔障の毒】を殺せば……お前には何が残るんだろうな」
「……様。貴様貴様貴様貴様貴様貴様貴様」
小さな蚊が一匹、菱木の近くで羽を震わせた。
菱木は、悲鳴を上げながら大仰な手振りでそれを叩き潰す。
だが、叩いた手の甲には、いつの間にか蝿が止まっていて。
どろどろと毒を流していたその左手は、肌色に戻り。
流れていた毒はぴたりと死んだ。
「嘘だ! 嘘だ嘘だ! こんな、こんなところで……! こんなところで我が力が……アアアアアアアアアアアアアア!」
左手を掴み、絶叫する菱木要次郎。
その後、僕を屠ればいいとでも言うように、こちらを見るが。
成瀬が両手を触手に変え、立ち塞がる。
ドス黒く染まっていた彼の肌は、何匹もの蚊や蜂が己の針を刺すことで、徐々にそれまでの色彩を取り戻していっている。
「この僕が……ぁ……!」
「終わりだ……菱木ィ!」
宙を舞っていた虫が、一斉に菱木に襲いかかる。
「ああああああああああああああ!」
菱木が叫ぶ。
とにかく両手を構え、片手からは毒を垂れ流し、立ち向かうが。
為す術はないだろう。
「あの子に詫びろぉぉぉぉおおおおおお!」
「うァアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」
「【ウェイズ】」
その、消え入りそうなか細い声が聞こえた時。
菱木の目の前の床が、みしみしと音を立て。
急に起こった爆発により、崩れ落ちた。
破片や誇りが舞い上がる。
菱木がマントで顔を覆い、僕と成瀬は咄嗟に腕を上げる。
崩れた床の下からは、ごうごうと水の流れる音がする。
見ると、そこは細い下水道だった。
「……ミハエル……様……」
さっきのか細い声が聞こえる。
その声の主は、黒い血を吐き、首筋には大きな傷が開いていて、美しい髪は汚れていた。
裏切って。尽くして。裏切られて。
その女は――先ほど見捨てられたにも、関わらず。
「……お逃げ……ください……」
目を潤ませて、桃瀬悠々子は、地に倒れながら。
毒に侵された手を地面に向け、そう絞り出した。
菱木は、それをどのような気分で見ていただろうか。
「……シェリー」
「今は……ダメです……。ミハエル様……貴方ならば……きっと、生きていれば、次、勝つことができます。だから……今は……どうか……」
そして桃瀬はまた血を吐いた。
手はかたかたと震えていて。もういつ死んでもおかしくはなかった。
そんな彼女が口にしたのは。
「わたしが……こいつらを……引き止めるので……」
叶うはずもない約束だった。
菱木は、黙ってその様子を見ていた。
立ち上がろうとしても、あまりにも力が入らなくて、それでも前に進まなきゃと懸命に腰を動かす小さな者の姿を、見ていた。
そして、彼は、こちらに首を捻って。
「……氏家則明。成瀬祐城。次は……必ず……殺す!」
そう言い放ち右手で毒の霧を撒いた。
視界が真っ黒に染まる
成瀬が素早く【キネシス】で払うが……既に遅く。
もうそこには、誰もいなかった。
その部屋には、僕と成瀬と。
毒に苦しみながらも、力を使おうと、藻掻く桃瀬と。
白目を向いて泡を吹く金広と。
ごうごうと水が流れる音だけが残っていた。
…………………………
「なにをしに来たのよ」
私はこの男の子を見ることが出来なかった。
「久世さん」
彼が私の名を呼ぶ。だけどそれに答えることは出来なかった。
その資格が無いと思っていた。
「さよならって言ったよね、もう余計なことするなって言ったよね。どうして君は、その勇気を自分のために使えなかったのかなぁ」
血なまぐさい部屋で、私は鎖に繋がれたまま。
それはきっと、あの男がいなくなっても、ずっと繋がれたままだった。
「ぼろぼろになって、死にそうになって、馬鹿な人。理解できなかったのかな? 私はあなたを裏切ったんだよ? ……ああそうか、この姿を笑いに来たのか。あはは、納得した。気が済むまで眺めてね。慰め者にしたっていいんだよ」
「久世さん」
呟くような、だけど、強い口調。
彼は、こんな風に話すことができたっけ。
氏家くんは、じっと、私の顔を見つめていた。
「もう、帰ろう」
そんな言葉、私にどれほど勿体無いだろうか。
ぽっかりと空いたような喪失感は、胸の重さだけでは無いだろう。
誰かを騙して、何にも成せないまま彼を傷付けて。
そんな私は最後まで卑屈で、口に出るのは反発するような言葉だった。
「帰れないよ……! どれだけ取り繕っても、私は氏家くんを裏切った! そうやって優しくされると、私は自分の罪を忘れてしまいそうになる。また君を、騙して、裏切っちゃうかもしれないんだよ……だから……もう、私に構わないでよ!」
拒絶した。
彼の好意も、優しさも。そうやって拒まないと、私はおぞましい怪物になってしまうから。
そんな私の叫びを、受けて。
氏家くんは、囁くように語った。
「……僕は、君に嘘をつかれた。色んな人に色んな酷いことをされた。それは、許されることではないし、勝手に許しちゃったらいけないことだ」
そう。
その通りだ。
わかってるんだったら、あとは、もうここから出て行って欲しい。
「信じていた人に裏切られて、騙されて。でも、だからこそ」
氏家くんは、手で私の頬を包み込んだ。
傷だらけで、血がこびりついていて、汚れた手で。
背けていた私の目を、こちらに向けさせて。
「自分の気持ちだけは裏切れないじゃないか……。久世さんを好きだという僕の気持ちは、どれだけ考えても、変わらなくて」
だから、と彼は続け。
「もう一度言うよ。……君を助けに来た。それが、今の僕の強さだ」
そして、しゃらりと銀の鎖を垂らし。
懐中時計を、私の首にかけ、にこりと微笑んだ。
勝手に涙がこぼれおちて。
私は子供のように、声を上げて泣いた。
…………………………
成瀬の【ウェイズ】で手枷を破壊した。
やけに地上が騒がしい。早くここから退避しないと。
僕と成瀬でぐったりと力の抜けた久世さんをかかえ、例のボロ小屋への道へと戻った。
「……待てよウジィ」
その途中で。
様々な混沌とした感情がないまぜになった声で、僕の名を呼ぶ男がいた。
そいつは、自身の周囲に炎の槍を展開し、ぴくぴくと痙攣する頬は爛れていた。
切り傷、紫に変色した肌……白く濁った右目は、もう何も見えていないだろう。
凄惨な容貌と化した金広は、今や怨念だけで動いているようだった。
「おま……お前! お前のせいで、滅茶苦茶だ! それに僕を勝手に治す、なんて……嘗めているのか!」
僕は、じっと、彼を見ていた。
「お、お前をここで! アハハハハ! そうすればミハエル様も褒めてくれるだろう! 死ね! 死ね死ね死ね!」
高熱の槍は、尖端をこちらに向ける。
「成瀬、久世さんを」
僕は、彼女の体重を成瀬に預け、一步、金広に近付く。
そして、彼に手をかざす。
そこから産み出される、無数の毒虫たち。
「……なんだ、そんなの、そんなので」
「どいてくれ」
「ウジイイイイイイイイイイイイイイ!」
虫が彼に向かって飛んでいった。
金広は、狂ったように叫びながら【炎熱槍】をあらぬ方向に撃つ。
虫がそれでみんな死ぬわけが無く。
雀蜂や毒蛾がマントの男を囲んだ。
天才は尻餅をついて、虫を見上げた。
「あ……あ……ああ……」
僕は、無様な金広の前まで歩く。
見下ろし、拳を、ぎゅっと固く握って。
「今までの分だ」
彼の頭を、ごんと殴った。
毒虫に殺されると思っていた彼は、そのショックにぐりんと目を剥き、そのまま後方に倒れる。
「……それだけでいいのか、則明」
成瀬がそう問いかける。
僕は、前を見たまま、頷く。
「ああ……気は済んだよ」
そして、振り返って、久世さんに尋ねた。
「桃瀬は……どうするんだ」
桃瀬は、床の穴の縁で、目を閉じ眠っていた。
虫で毒は消したが、変色しきったところはもうどうしようもない。
見るからに痛々しい身体の、かつての親友を見て、久世さんは。
「このままにしておいて」
と言った。
「……あの子が、本当に友達になりたいと思った時があれば……その時に、また」
友達であり、見張り役でもあり、それでも楽しかった。
彼女たちの間には、一体どんな思いが渦巻いているのだろうか。
僕は黙って頷いて。
また久世さんに肩を貸す。
どれだけぼろぼろになっても、僕らは歩かなきゃいけない。
生きるため、強さを得るため?
いや、もっと簡単な話で、僕らは、帰るために。
前へと進んだ。




